二〇九一年二月三日――。
エディット・ルフェーブルの葬儀や手続きの一切が終わり、また普通の日々が動き始めていた。エディットがいないことが普通の日常が、だ。
「姉さん、ブランデーだよ。高いやつ」
カティはエディットの写真――ヴェーラ、レベッカと写っているものだ――の前にグラスを置いて、ゆっくりとブランデーを注ぐ。エディットのいない、エディットの家。カティの帰るべき場所は、どうにかこうにか残された。だが、そこで待っていてくれなければならない人が、一人足りない。永遠に一人足りないのだ。
カティは自分のグラスにもブランデーを注ぎ、小さく乾杯してみせた。薄暗い部屋の中に、全くの静寂が漂っている。腕時計にちらりと目をやれば、もう午後六時を回っていた。カティは小さく息を吐く。
「信じられないよ、未だに。姉さんが死んじゃうだなんて、さ」
エディットの死は最初こそ大きなニュースになった。だが、それはあっという間に鎮火した。文字通りに、あっという間にだ。ネットの一部では陰謀論も囁かれたりはしたが、それすら軍のAIによって抹消されてしまっていた。それが何を意味するのか、カティは理解している。つまりエディットは軍、あるいは政府によって殺されたのだ。エディットの力を持ってしてもかなわない濁流に、彼女は飲み込まれてしまったのだ。この際、誰がやったかは問題ではない。誰がやらせたかが重要なのだ。
「くそっ……」
何もできない自分が恨めしかった。エディットがいない事実が哀しかった。そして本気で悔しいと感じた。自分はずっとこうだ。大切な人を失い続ける。大切だと思うと、離れていってしまう。今や残っているのはヴェーラとレベッカだけだった。父さんも母さんもお兄ちゃんもお姉ちゃんも弟も、ヨーンも、エレナも、エディットも、もういない。
もしや、自分は厄病神なんじゃないだろうか。カティは奥歯を噛みしめる。涙が出る。眉間に力をいくらこめようとも、涙は溢れ続けた。カティは声を殺して涙を落とし続ける。
キィ……。
リビングのドアが遠慮がちに開かれる。カティは顔を上げ、涙を拭いた。
「入ってきな、ベッキー」
「カティ……」
泣き顔を見られたかと、カティは苦笑する。そしてブランデーを一気にあおった。熱が喉を多い、食堂を焼いていく。ブランデーの香りが鼻に抜けていく。
レベッカは促されるままにカティの隣に座り、ぼんやりと天井を見上げた。
「私、何もできなかった」
レベッカはうわごとのように呟いた。カティは「いや」と首を振る。
「ヴェーラを止めただろう。もしお前がそうしていなかったら、ハーディは――」
「迷っています」
「迷って?」
珍しく言葉に割り込んできたレベッカに、カティは少し意表を突かれた。
「迷っています。私、本当に止めるべきだったのかなって」
「ベッキー、何を言っている?」
「すみません」
レベッカは何も映されていないテレビの方を見た。カティは空になったグラスをテーブルの上に置いた。
「私、結局のところ、ただ逃げただけなんです。ヴェーラの行為に対して否定的なことをしてみせただけなんです。ヴェーラはハーディを殺そうとして、私はそれを止めた。本当は私だって――!」
「言うな」
カティは右腕でレベッカの肩を抱いた。レベッカは小さくしゃくりあげる。
「アタシだって似たようなもんじゃないか」
「いいえ」
レベッカはイヤイヤをするように首を振る。
「カティはあの場を収めたじゃないですか。そして、ヴェーラをここに連れ帰ってくれた。ヴェーラは自ら行動を起こした。カティはそれを止めた。私は」
「責めるな。お前が止めていなかったら、事態はもっと悪くなっていた」
カティはレベッカの灰色の髪に触れた。
「ヴェーラはね、突っ走っていくタイプだろ。だから、ブレーキ役が必要なんだ。ベッキー、お前みたいなね。そっちのほうがつらいことだってある」
カティはそう言ってレベッカを強く抱き寄せた。レベッカは黙ってカティにもたれかかる。二人はしばらくの間、テーブルの上のエディットの写真を眺めて沈黙する。まるで黙祷するかのように、どちらともなしに目を閉じる。
「ベッキー。言えよ」
「え?」
「だいじょうぶじゃない。そう言え」
カティは囁く。その低めの声が、レベッカの傷だらけの心をそっと撫でていく。レベッカはカティに促されるまま、その太腿に頭を乗せた。深呼吸を一つしたその拍子に、レベッカの両目から大粒の涙が零れ出てくる。レベッカはカティの腰に手を回してしがみつき、奥歯を噛み締めながら声を絞り出す。
「だいじょうぶじゃ、ない」
カティは「うん」と頷きながら、その美しく長い髪を指でなぞる。
「だいじょうぶなんかじゃない。私、だいじょうぶなんかじゃ……!」
「それでいい」
カティは静かに頷いた。そして顔を上げて、ドアを見る。
「なぁ、ヴェーラ。そこにいるんだろう?」
応えはなかった。だが明確な、殺気とも言えるほどの強い気配が、そこにあった。