01-2-2:ブランデー

歌姫は背明の海に

 二〇九一年二月三日――。

 エディット・ルフェーブルの葬儀や手続きの一切が終わり、また普通の日々が動き始めていた。エディットがいないことが普通の日常が、だ。

「姉さん、ブランデーだよ。高いやつ」

 カティはエディットの写真――ヴェーラ、レベッカと写っているものだ――の前にグラスを置いて、ゆっくりとブランデーを注ぐ。エディットのいない、エディットの家。カティの帰るべき場所は、どうにかこうにか残された。だが、そこで待っていてくれなければならない人が、一人足りない。永遠に一人足りないのだ。

 カティは自分のグラスにもブランデーを注ぎ、小さく乾杯してみせた。薄暗い部屋の中に、全くの静寂が漂っている。腕時計にちらりと目をやれば、もう午後六時を回っていた。カティは小さく息を吐く。

「信じられないよ、未だに。姉さんが死んじゃうだなんて、さ」

 エディットの死は最初こそ大きなニュースになった。だが、それはあっという間に鎮火した。文字通りに、あっという間にだ。ネットの一部では陰謀論も囁かれたりはしたが、それすら軍のAIによって抹消されてしまっていた。それが何を意味するのか、カティは理解している。つまりエディットは軍、あるいは政府によって殺されたのだ。エディットの力を持ってしてもかなわない濁流に、彼女は飲み込まれてしまったのだ。この際、かは問題ではない。かが重要なのだ。

「くそっ……」

 何もできない自分が恨めしかった。エディットがいない事実が哀しかった。そして本気で悔しいと感じた。自分はずっとこうだ。大切な人を失い続ける。大切だと思うと、離れていってしまう。今や残っているのはヴェーラとレベッカだけだった。父さんも母さんもお兄ちゃんもお姉ちゃんも弟も、ヨーンも、エレナも、エディットも、もういない。

 もしや、自分は厄病神やくびょうがみなんじゃないだろうか。カティは奥歯を噛みしめる。涙が出る。眉間に力をいくらこめようとも、涙はあふれ続けた。カティは声を殺して涙を落とし続ける。

 キィ……。

 リビングのドアが遠慮がちに開かれる。カティは顔を上げ、涙を拭いた。

「入ってきな、ベッキー」
「カティ……」

 泣き顔を見られたかと、カティは苦笑する。そしてブランデーを一気にあおった。熱が喉を多い、食堂を焼いていく。ブランデーの香りが鼻に抜けていく。

 レベッカは促されるままにカティの隣に座り、ぼんやりと天井を見上げた。

「私、何もできなかった」

 レベッカはうわごとのように呟いた。カティは「いや」と首を振る。

「ヴェーラを止めただろう。もしお前がそうしていなかったら、ハーディは――」
「迷っています」
「迷って?」

 珍しく言葉に割り込んできたレベッカに、カティは少し意表を突かれた。

「迷っています。私、本当に止めるべきだったのかなって」
「ベッキー、何を言っている?」
「すみません」

 レベッカは何も映されていないテレビの方を見た。カティは空になったグラスをテーブルの上に置いた。

「私、結局のところ、ただ逃げただけなんです。ヴェーラの行為に対して否定的なことをしてみせただけなんです。ヴェーラはハーディを殺そうとして、私はそれを止めた。本当は私だって――!」
「言うな」

 カティは右腕でレベッカの肩を抱いた。レベッカは小さくしゃくりあげる。

「アタシだって似たようなもんじゃないか」
「いいえ」

 レベッカはイヤイヤをするように首を振る。

「カティはあの場を収めたじゃないですか。そして、ヴェーラをに連れ帰ってくれた。ヴェーラは自ら行動を起こした。カティはそれを止めた。私は」
「責めるな。お前が止めていなかったら、事態はもっと悪くなっていた」

 カティはレベッカの灰色の髪に触れた。

「ヴェーラはね、突っ走っていくタイプだろ。だから、ブレーキ役が必要なんだ。ベッキー、お前みたいなね。そっちのほうがつらいことだってある」

 カティはそう言ってレベッカを強く抱き寄せた。レベッカは黙ってカティにもたれかかる。二人はしばらくの間、テーブルの上のエディットの写真を眺めて沈黙する。まるで黙祷するかのように、どちらともなしに目を閉じる。

「ベッキー。言えよ」
「え?」
「だいじょうぶじゃない。そう言え」

 カティは囁く。その低めの声が、レベッカの傷だらけの心をそっと撫でていく。レベッカはカティに促されるまま、その太腿に頭を乗せた。深呼吸を一つしたその拍子に、レベッカの両目から大粒の涙がこぼれ出てくる。レベッカはカティの腰に手を回してしがみつき、奥歯を噛み締めながら声を絞り出す。

「だいじょうぶじゃ、ない」

 カティは「うん」と頷きながら、その美しく長い髪を指でなぞる。

「だいじょうぶなんかじゃない。私、だいじょうぶなんかじゃ……!」
「それでいい」

 カティは静かに頷いた。そして顔を上げて、ドアを見る。

「なぁ、ヴェーラ。そこにいるんだろう?」

 いらえはなかった。だが明確な、殺気とも言えるほどの強い気配が、そこにあった。

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