01-2-3:全部、ノー!

歌姫は背明の海に

 入って来いよと、カティは静かに呼びかける。レベッカはゆっくりと身を起こし、立ち上がった。そして足音を忍ばせて洗面所へと向かう。涙でぐしゃぐしゃになった顔を洗おうとでもいうのだろう。

 カティもおもむろに立ち上がり、ドアのところへと向かった。ノブに手を掛けようとしたその瞬間、勢いよくドアが開けられた。そこには落ちくぼんだ目でカティを睨むヴェーラがいた。その視線には負の感情がみなぎっていた。嫌悪や軽蔑、ともすれば殺意のようなものさえ、そこには含まれていた。

「わたし、やっぱり許せない」

 それが三日ぶりに聞いたヴェーラの言葉だった。

「わたしからエディットを奪ったのは、あの女なのに。わたしの心とあの女の命を天秤にかけたんだ、カティたちは」
「ヴェーラ、座れ」

 カティはヴェーラの両肩に手を置こうとしたが、ヴェーラはそれを振り払った。そしてソファの一つに身体を沈める。カティもさっきまで座っていた場所――ヴェーラのはす向かいに座り、唇を引き結んでいるヴェーラを眺めた。カティは小さく息を吐いて、ブランデーを少し注いだ。ヴェーラはその様子を冷淡な表情で追っている。

「姉さんは、最期になにか言ったのか?」

 訊けずにいた問いを、カティは発した。ヴェーラはどんよりと曇った空色の瞳を伏せ、しばらく沈黙した。視線の先にあるヴェーラの両手の指は、苛々と組み合わされてはほどかれ、解かれては組み合わされている。そしてその沈黙は、レベッカが洗面所から戻ってくるまで続いた。

「ごめんねって。最期にそう言った」
「ごめんね、か」

 まったくだよ――カティは溜息をつき、ブランデーを一口分、胃の中に流し込んだ。ヴェーラは瞬きもせずに輝きのない瞳でカティを見つめていたが、レベッカが向かいのソファに腰を下ろすと、今度は彼女を睨みつけた。純然たる怒りのようなものが、その双眸そうぼうを燃やしていた。

 カティはゆっくりと息を吐き、そして、ブランデーの香りを吸い込んだ。

「ヴェーラ、薬は? 飲んでるのか?」
「飲んでる」

 ヴェーラは短く答えつつ、腰を浮かせてエディットの写真の前に置いてあったブランデー入りのグラスに手を伸ばした。ヴェーラがそのグラスを掴む直前に、レベッカがその手を押さえていた。

 ヴェーラは「ほらね」と歪んだ笑みを見せる。

「きみは、こういう時だけは手が早いんだ」
「ヴェーラ……」

 その視線と声音に圧倒されて、レベッカは手を引いた。ヴェーラもグラスにはそれ以上こだわらず、ゆっくりとソファに戻る。

「ヴェーラ、私――」
「言わなくて良いよ、ベッキー。わたしは別にどうとも思っていないから」

 冷淡に吐き捨てられた言葉を受けても、レベッカは唇を噛んで耐えた。

「わたしがハーディを殺せていれば、今のわたしはもう少しマシだっただろうけれどね」
「ヴェーラ、お前」

 カティはグラスを置いて、ゆらりと立ち上がった。ヴェーラは無表情にカティを見上げ、ほんの僅かに口角を上げた。酷薄な微笑だった。

 カティはヴェーラを見下ろしながら言った。

「お前さ、ハーディを殺せたら満足なのか? 殺していれば、姉さんが死んだことが帳消しになったりでもするってことか?」
「それは……」
「言えよ、ヴェーラ」

 カティは腕を組んで、ヴェーラをじっと見下ろした。ヴェーラは前髪の奥に表情を隠して沈黙する。しかしカティは諦めない。しゃがみこみ、目の高さを合わせ、そしてその小さな右肩に手を置いた。手が触れた途端、ヴェーラの身体が強張こわばった。

「姉さんの命って、アレキサンドラ・ハーディが死んだくらいでつりあう程度の重さだったのか?」

 ヴェーラは両手を握り締めたまま動かない。その表情は冷たく、硬い。カティはヴェーラの目を見つめたまま、静かな口調で問いかけた。

「お前の手を汚してしまう程の価値のある仕事なのか、それが。そんなことして姉さんのためになるとでも思っているのか? 喜ぶとでも思っているのか?」

 ヴェーラは顔を伏せ、唇を戦慄わななかせ、拳を震わせる。カティは待つ。レベッカは固唾かたずを飲む。

「何もしないではいられなかった」

 ヴェーラはポツリと言った。

「エディットのために何かしないとって、わたしは……だけど」

 カティたちは言葉を飲み込み、ヴェーラの言葉を待ち続ける。

「わからない。わたしのエゴなのか、エディットのことを本当に思っての行為だったのか。わからない。けど」

 ヴェーラは立ち上がって、カティに抱きついた。

「ノー! ノーだよ! 全部、ノーだ!」
「そうだ」

 カティはヴェーラを抱きしめる。ヴェーラも薬の副作用で震えが止まらないその手で、力の入らないその両腕で、懸命にカティを抱いた。そのあまりにも儚い力に、カティは少なからず衝撃を受けた。

「それでいいんだ、ヴェーラ」

 カティはヴェーラの美しい白金の髪プラチナブロンドに手をやり、その頭を強く抱き寄せる。

「ごめんな、ヴェーラ」

 カティはやや上ずった声でそう囁いた。薄暗く静かな部屋の中に、その声はやけに響いた。精一杯力の込められたヴェーラの指先が、カティの背中に食い込んだ。

「ごめん」

 ヴェーラもそう言った。

 結局行き着くのは、いつもその言葉だった。たどり着くのはいつだってこんな言葉なんだ――三人は全く同じことを考えた。

 ヴェーラがしゃくりあげながら吐き捨てる。

「そんなの、うんざりだよ。うんざりだ」
「ああ」

 カティは頷いた。

「ほんとうに、うんざりだな」

 カティの声音に、ヴェーラの理性が決壊する。嗚咽と涙を止められず、ヴェーラは子どものように泣き喚いた。レベッカも一人離れた場所で涙をぬぐい続けた。

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