エディット・ルフェーブルの葬儀から約半年後、二〇九一年八月――。
かつてのエディットの部屋であった参謀部第六課執務室で、ハーディはデスクチェアに身体を深く沈めていた。
「うまくいかないものだ」
「そりゃそうでしょう」
応接用のソファに座って、鋭く反応したのはプルースト中尉だった。その若き将校の前には、壁のように巨大な男、レーマン少佐が座っている。プルーストは無表情に、レーマンは氷のように冷たい表情を崩さず腕を組んでいる。あの事件以来、かつてのエディットの腹心であった三人はずっとこうだ。仕事はもちろんきちんとこなすが、コミュニケーションは必要最低限なものとなってしまっていた。
「あの子たちが気づかないはずがなかったんですよ」
プルーストがハーディを見もせず、言い捨てた。
「そう、だな」
「だから葬儀には出るなって言ったんです」
プルーストはエディットに好意を持っていた。だからなおさら、暗殺計画には猛反対の立場を取った。だが彼とて軍、いや、政府による圧力に屈してしまった。逆らっても無意味だということをプルーストは悟ってしまった。結果として、彼はただの傍観者となってしまった。もはやエディットの件に関して、何をすることも出来ない立場だった。それが彼を苦しめているのは、ハーディにも理解できていた。
ハーディは大きく息を吐き、そして呟いた。
「隠し通せるものではないことくらい、私にもわかっていた。ならばあの場でそうと確定させておいた方が」
「だったら!」
プルーストは大きな声を出した。レーマンは腕組みをしたまま微動だにしない。
「だったら、もっとちゃんとケアするべきだったんです。あなたが撃たれて、それでハイ終わりなんてできるとでも思っていたんですか!」
「なら――」
「第一、あなたがやる必要なんてなかった! 俺たちはただ、何もしないでいれば良かっただけじゃないですか!」
プルーストの声が戦慄いている。
「今後のセイレネスの計画、どうするつもりなんですか、中佐」
「私だって、あの人を殺させたくなんてなかった。だけど、それはできなかった。だったら、私は卑怯な傍観者なんかでありたくはなかった!」
「その手を血に染めて免罪符代わりですか」
「何とでも言えばいい。ただ、私は……」
ハーディは拳を握りしめる。
「誰かがあの人を殺すとわかっているのなら、それは私以外であってはならなかった」
「だからって、現場のスナイパーを殺してまで成り代わる必要なんて!」
「その辺にしておけ、プルースト」
レーマンが首を振る。
「ハーディ中佐にも想いや考えがあった。避けられない未来に、自分なりの納得をするための苦渋の決断だ。理解してやれ」
「できるもんですか」
「お前は単なる傍観者だった。ハーディ中佐はそれを良しとしなかった。この時点でお前に発言権はない、プルースト」
レーマンの冷静な指摘に、プルーストは鼻白む。
「俺は、俺だって止めたかった。こんな馬鹿げた計画!」
「止められるようなものではなかったことくらい、お前だって理解しているだろう」
「それでも!」
「俺たちには何のカードもなかった。第六課が存続しているだけでも奇跡だ」
「それですよ」
プルーストは初めてハーディの方を見た。
「結局あなたはその椅子が欲しかっただけでしょう、ハーディ中佐!」
「プルースト!」
レーマンが大きな声を出した。プルーストとハーディの鼓膜がビリビリと震えるほどの音量だった。プルーストはあからさまな嫌悪の息を吐き、部屋を出ていってしまった。
「あいつは――」
レーマンはソファに座ったまま、ドアの方に視線を飛ばす。
「大佐のことを敬愛していましたからね」
「知っている」
ハーディは苦虫を噛み潰したような表情を見せ、眼鏡を外す。眉間に手をやって、首を振る。
「だが、私に何が出来たというのだ、レーマン。あの状況にあって、私に何ができただろう」
「わかりません」
レーマンは再び厳つい顔に冷たい表情を貼り付けて、静かにコーヒーを飲んだ。
「私もルフェーブル大佐もろともに消されていたほうが良かったとでも言うのか」
「どうなんでしょうね」
レーマンは肩を竦める。
「今の自分に言えるのは、保身は悪ではないということですよ。シビリアンコントロールというのはつまり、長いものには巻かれておけという文化のことです。上手く巻けない、巻かれようとしない要素は、その場で廃棄されてしまう、そういう文化、組織論のこと。ルフェーブル大佐は、残念ながら阻害要因となり得てしまった。だから前もって、円滑な組織運営のために排除された。それだけの話です」
「ドライだな、レーマン」
「自ら引き金を引いたあなたに言われたくありませんが」
レーマンの痛烈な皮肉に、ハーディはいっそう顔を歪めた。レーマンはそれを意にも介さずに、テーブルの上に放置されていたタブレット端末を手に取った。
「ところで中佐。このデータには裏付けが?」
「間違いない。ブルクハルト少佐も確認済みだ」
レーマンの言葉で、ようやく本題に戻った。プルーストは概要しか聞いていないが、そもそも聞いていたとしても理解しようとはしなかっただろう。
「あの戦いの結果、これだけの数のセイレネス素質保有者が現れた、というのは……にわかには信じ難い」
「だが、事実らしい」
あの戦いというのは、ヴェーラとレベッカが三体のナイアーラトテップを撃破殲滅した海戦のことだ。
士官学校襲撃事件の時にはすでに明らかになってはいたが、セイレネスは人間の脳、それもとりわけ深い論理層に作用する。その刺激によって、その人間に歌姫の能力が発現する可能性があることは、その当時からずっとブルクハルトが示唆していたのだが、先般の戦いに至るまでは、発現者の報告は全くのゼロだった。
そこで技術本部にて考え出された実験が、「セイレネス同士の衝突」であった。海戦において超兵器であるところの「ナイアーラトテップ」が登場してくる機会を待ち構えていた参謀本部および技術本部は、満場一致でヴェーラ、レベッカとナイアーラトテップの正面対決を決定した。その実験は無事に完了し、めでたく歌姫素質者が多数出現したという内容の報告書が昨夜送られてきたのだ。
「ですが中佐、いまいちよくわからないんですが、歌姫の発現者が十代の女子に限定されているというのは、偶然ですか?」
「ああ、私も気になっていた。まるで恣意的に見えなくもないが、それゆえのセイレネスなのかもしれん」
「はぁ……」
釈然としない様子のレーマンを見て、ハーディは前髪に手をやってから眼鏡の位置を直した。レーマンはタブレット端末の報告書をめくりながら、「中佐」と呼びかける。
「歌姫養成科の話は?」
「実現するだろう。もうとっくに予算は通っている」
「ずいぶんと手際が良い話ですね」
レーマンは呆れ顔で肩を竦めた。
「実験結果を受けて、報告書も待たずに予算案を提出しているからな。大統領府の動きも早かった」
「既定事項、ですかね」
「ああ、そうだ」
ハーディは断定する。レーマンは冷めたコーヒーを食道に流し込む。
「結論ありきの実証実験。必死にやってる当事者たちが気の毒です」
「言うな」
ハーディは何度かゆるゆると首を振る。
「汚れ仕事は誰かがしなければならない。そうであるなら、それは私の役割だ」
「あなたは責任感が強すぎます」
レーマンがピシャリと言った。ハーディは苦い笑みを見せる。
「ルフェーブル大佐はもっとみんなを頼っていましたよ、中佐」
「大佐は本当に大した人だった」
ハーディは溜息をついて、デスクの上で指を絡める。
「ヴェーラとレベッカを召喚しなくてはならないな」
「ですね。手配しておきます」
「頼む」
ハーディが言うと、レーマンは「了解」と短く応じて部屋を出て行った。
「昔から」
ハーディは立ち上がってドアと正反対――壁の方を向いた。
「私はいつもこうだ」
エディットの下にいた時は、それまでの人生の中で最も充実していた。孤独な狙撃手から拾い上げられ、腹心として存分に手腕を発揮できた。分不相応な評価すらしてもらえた。信じてもらえた。
なのに今はどうだ。エディットと同じ椅子に座っているのに、誰にも信じてもらえない。疑心暗鬼の中で何も出来ない。被害者意識と加害者意識の間で悶えているだけの、哀れな軍人だった。歌姫計画を進行させる役割だけしか与えられていないのに、それすら上手く行っていない。情けない。
ハーディは両目をきつく閉じる。涙がこぼれてしまいそうだった。こんなに虚しくて悔しいのはいつぶりかわからない。エディットを射殺した日、葬儀の日――その時にすら涙は出なかった。心は凍てついていたはずだった。なのに――。
何かを怨めたらどれほど楽だっただろう。国家、国民、軍、政府――それらに呪詛を叩きつけられるような人間だったら、どれほど楽だっただろう。
今の私にできるのは、逃げないことだけだ。私の今のこの立ち位置に、誰かが来てはならない。私と同じ怨嗟で苦しむ人があってはならない。誰かがそうならねばならないのだとしたら、私がそうならなければならない。それがエディットやヴェーラたちへの罪滅ぼしになるなんて思わないが、それでも何もしないよりは良いと思った。
ハーディは奥歯を強く噛みしめる。その拍子に両目から涙が溢れた。