それから一週間後、短い夏の終わりごろ――。
いつもの実験が終了するや否や、ヴェーラとレベッカはハーディの執務室へと召喚された。二人の歌姫は硬い表情のまま、プルーストに促されて室内へと入ってくる。プルーストはハーディを一瞥して形式的な敬礼をすると、そのまま無言で出ていってしまった。
ヴェーラとレベッカは冷めた目でプルーストを見送り、ハーディに向き直った。
「実はな」
ハーディはテーブルに置かれている紙媒体の書類を二人に示しつつ、ゆっくりと立ち上がった。ヴェーラたちは促されるままに応接用ソファに腰をおろし、その書類を手に取った。ハーディは自分のデスクに寄りかかって腕を組む。
「我々の戦力の回復が困難であることは承知のことだろう」
「一方でアーシュオンが戦力増強を続けていることも承知しているよ」
ヴェーラが平坦な口調でそう被せる。レベッカはヴェーラの左手の甲に自らの右手をそっと重ねた。
ハーディは眼鏡の位置を直しながら、淡々と述べる。
「我々は早急な戦力の補充が、それも強力な戦力が必要だと判断した」
「強力な……?」
二人の歌姫が同時に反応する。ハーディは頷いた。
「先般の戦いで、我々が得られたものがある。その資料にもあるが」
「セイレネスの素質者……!?」
一緒に書類をめくっていたヴェーラとレベッカが、異口同音に言った。レベッカが顔を上げてハーディを見る。
「どういう、ことですか?」
「見ての通りとしか言えない。あなたたちと同様に、セイレネスを使い得る者が大量に発生した。その能力には、程度の差はかなりあるものの」
ハーディは姿勢を変えることなく答える。
「あなたたちのセイレネスが、クラゲ――ナイアーラトテップとぶつかった。その結果として、素質者が大量に発生したと考えられている。あの海戦より前から、そのような予測はあった」
その言葉に、ヴェーラは薄く澱んだ笑みを浮かべて呟く。
「全部、そうなるようになっているんだね。都合の良い話だね」
ヴェーラはその白金の髪に、苛々と手櫛する。
「それでハーディ。本題はそこじゃないよね。これ、本題の前提条件でしょ」
「そうだな。こっちの資料を」
ハーディはデスクからタブレット端末を取り、ヴェーラたちの前に置いた。
「歌姫養成科?」
ヴェーラたちの声が揃う。ヴェーラは端末を奪うようにして取ると、次々とページを進ませた。レベッカもそれを追い、全ページをあっという間に読破する。
その結果、二人の口から出てきたのはただ溜息だけだった。
「まるで、さ」
しばらくして、ヴェーラが疲れたような声を発する。
「まるで、わたしたちの負担を軽減するために設立します、みたいな文書だね、これ」
「肯定だ、正直に言えば」
間髪をいれずにハーディが応じる。ハーディもまた、同じ印象を持ったからだ。
「だが、あなたたちが何を言ったところで、この流れは変わらないだろう」
「ならさ」
ヴェーラがその凍てついた空色の瞳で、ハーディを射抜いた。
「わたしたちが何を言っても変わらないっていうのなら、ハーディ、あなたの行動は非合理的じゃないかと思うけど」
「私は……」
ハーディは自席に戻る。そして両肘をついて指を組み合わせる。
「私はね、あなたたちに協力して欲しいと思っている。ことここに至った移譲、新たな歌姫の誕生も、軍への編入も、止めることはできない。そうでる以上、彼女たちを救えるのは、つまり、死なないように育ててあげられるのは、あなたたちしかいない」
ハーディの言葉が終わった瞬間、ヴェーラの瞳がギラリと光る。まるで飢えた肉食動物のようだと、ハーディは思った。野蛮で獰猛な輝きをヴェーラは纏っていた。
「言いたいことは理解できたよ、ハーディ」
ヴェーラは震える声で言った。
「わたしたちのため、ではなくて」
「私たちに続く子たちのために。そういうことですね」
レベッカが眼鏡を外した。レベッカにしては珍しく、その視線は鋭利な刃のようだった。ハーディはその新緑の瞳の少女を鋭く見下ろした。
「言ってしまえばその通りです」
「あ、そう」
ヴェーラは荒んだ微笑を見せて言った。
「そう、か。なら、従うよ」
ヴェーラはそう言って立ち上がると、レベッカに手を差し伸べた。レベッカはその手を取って立ち上がり、ハーディに向き直る。
「私も異論はありません。軍は、後からくる子たちを使い捨てにするんでしょう?」
「どうだろうか」
ハーディはレベッカと視線を交錯させた。
「セイレネスの素質者は、今のところはまだ金の卵と見られている。おいそれと消耗品扱いは出来ないのではないかと考えている」
「遠回しだね、ハーディ」
ヴェーラが目を細めて指弾する。
「数が揃い次第、戦列に並べて一定の消耗を前提とした戦い方を始めるのは間違いないのに」
「そういう選択肢もある、とは言える」
「ふぅん」
ヴェーラは鼻を鳴らす。
「ま、いいや。わたしたちはこの素質ある子たちを、死なないように教育する。それで良いんだね、ハーディ」
「イエス。頼めるだろうか」
「はははは!」
ヴェーラは声を上げて笑う。病的な表情だった。
「形式的なお願いをしたところで、罪悪感は消えないんだよ、ハーディ」
「ヴェーラ」
レベッカは小さく呼びかけたが、ヴェーラはその肩を抱いて、指の先に力を込めて囁いた。
「どうせわたしたちに拒否権なんてないんだ」
「……そう、ね」
レベッカはそう言うと、ヴェーラの腰に手を当てて退室を促した。ヴェーラは抵抗もせずに歩を進めたが、ふと足を止めてハーディを振り返った。
「ねぇ、ハーディ?」
ヴェーラの空色の瞳は、空虚だ。
「その椅子の座り心地は、どうなの?」
「私には――」
ハーディは天井を見上げてしばらく考え――。
「私には……重すぎる」
ようやく声を絞り出した。
「だよね」
開くドアを前に、ヴェーラは目を細めた。
二人はそれから無言で敷居をまたぎ、閉まるドアの向こうに消えた。
一人残されたハーディは、眼鏡を外すときつく両目を閉じた。