それから三ヶ月後、二〇九三年一月初頭――。
エディタは寮の自室に戻るなり、ベッドに倒れ込んだ。
「きっつい。年明け早々もきっつい……」
年末年始にはかろうじて休みはあった。だが、その間もエディタはジムに通い続けていたし、勉強にも励んだ。鍛錬を怠ることはなかった。だから休みボケのようなものは無いと思っていたのだが、それでも約一週間ぶりの教練は厳しかった。歌姫養成科という名前に反して、そのトレーニングは陸軍、海軍とほぼ同等のものを要求されていた。歌姫の戦い方は、気力と体力が最後の砦になることを、ヴェーラやレベッカが強く進言したためである。
どちらかといえば体力には自信のあるエディタですらこの状態なのだから、一般人の域を抜けない他のV級たちにはより一層厳しいものになっているに違いなかった。近接戦闘訓練や射撃訓練、などもカリキュラムに入っており、射撃はともかく近接戦闘訓練はエディタにとっても鬼門だった。そもそも何故歌姫に肉弾戦の訓練が必要なのかと疑問にも思ったが、それには誰も答えてくれなかった。
エディタは電子ブラインドのスイッチを押して、窓を暗転させる。高層階だから誰からも見られることはないが、こうしておくことで何か一種の安心感のようなものを得ることができた。
「はぁ……」
いや、いかんいかん。溜息などついている場合じゃないぞ、エディタ。
エディタはバッと身を起こすと、両手で頬をピシャリと叩いた。ヴェーラもレベッカも、常にもっと壮絶な戦いを繰り広げているのだから。こんなところで音を上げていては、いつまでもお二人の力にはなれない。エディタは強く頷くと立ち上がり、着替えを取り出した。
「風呂に入ろうっと」
エディタは着替えを手提げバッグに突っ込むと、そのまま最上階にある大浴場に向かった。
脱衣所の様子から察するに、今は閑散としているようだ。現在、ちょうど夕食時。ある意味穴場の時間帯であった。これをもう少し過ぎると、洗い場の順番待ちが発生するほどの賑わいを見せる。
手早く服を脱いで、エディタは浴場に突入する。案の定、数えられるほどしか利用者はいなかった。さっさと一通り身体と髪を洗い、浴槽に浸かる。
全身の疲労がお湯に溶け出していっているかのような、そんなジワリとした熱さが心地良い。エディタの故郷にも温泉はあったが、寮に備え付けられたこの天然温泉は、それに勝るとも劣らない快適さだった。これのおかげでホームシックにならずに済んでいる――のかもしれない。
「あらぁ、エディタじゃない。さっきぶり。こんな時間に珍しいね」
浴槽に埋まってぼんやり天井の水滴を数えていたら、至近距離から声がかかる。トリーネだ。
「ああ、うん。疲れがやばくて、どうにもならなくてここに来た」
「わかるぅ。あたしもフラッフラで、同じこと考えてた。でもさ、エディタでもきついんだ?」
「そりゃきついよ。無茶苦茶だ」
「だよねぇ」
トリーネはばちゃばちゃと水を弄びながら頷く。エディタは思わずトリーネの豊満な胸に視線をやってしまう。エディタはどちらかと言うとスレンダーなので、少しジェラシーを感じていなくもない。
「きついはきついんだけど」
エディタはそこから強引に視線を剥がして、また天井を見た。その間にトリーネはエディタの肩に頬を乗せていた。相変わらず距離感がおかしいなと、エディタは少し戸惑った。
「きついんだけど?」
「あ、うん。でも、私たちがどれほど苦しんだって、ヴェーラとレベッカのそれには全然及ばないんだ。だから弱音なんて吐いてはいられない」」
「生真面目ぇ」
トリーネは顔を上げて微笑んだ。その笑顔に裏はないことは、エディタは十分に理解していた。この三ヶ月の交流で、エディタとトリーネは自他ともに認める親友となっていた。
「でも、エディタのそんなところが、あたしは好きよ。好きなんだけどさ、でもさ」
トリーネは少し遠くを見るようにして呟いた。
「あたしには弱音の一つくらい吐いてくれたっていいと思うんだよ」
「でもそれじゃ」
「ヴェーラもレベッカも、あたしたちにじっと黙って耐えろ、なんて思ってないと思うよ。自分たちが歩いてきた道と同じ道を歩ませようとするなんて、あたしにはちょっと考えられない」
「私の弱音なんて、トリーネだって聞きたくないだろ?」
「聞きたいよ?」
トリーネは再びエディタの肩に頬を乗せた。
「完全無欠であろうとして、いつも肩肘張っている。そんなエディタが力を抜ける唯一の相手。いや、別に唯一じゃなくてもいいんだけど、唯一だったら嬉しいかなって思う。そんな相手にあたし、なりたいんだ」
トリーネはそう言ってエディタの肩にキスをする。エディタは露骨に身体を強張らせた。
「ちょ、ちょっと、トリーネ。今、なにを」
「キス」
「ど、どうして?」
「したかったから。無性に」
「そ、そういうのは、その」
「恋人同士でやれよって?」
「う、うん、普通はそうだろ?」
「士官学校でのあたしの恋人はあなただもん。ここを出たらまたちょっとめんどくさいんだけど」
すらすらと述べられた内容に、エディタは目を白黒させた。
「こ、恋人? いや、ちょっと待って?」
「あ、いや、ごめんごめん。私も別に百合ってわけじゃないんだ。ただ人肌恋しい時に思い浮かべるのはいつでもエディタだから、そのね。ちょっとホッとするっていうか、そういう話。深刻に受け止めないでね」
トリーネにしては珍しく早口だった。
「あたし、婚約者いるんだ。男のね。幼馴染からそのまま婚約者に昇格した、みたいな?」
「じゅ、十六で婚約者?」
「珍しくもないよ、エディタ。ま、士官学校出て軍の任務にも慣れたら、その次に進む感じかな」
「まだしばらく先か」
「そ。だからそれまではエディタと一緒にいるの」
トリーネはエディタの肩に手を回す。エディタは硬直したまま動けない。
「でね、エディタさんさぁ。少なくともあたし、あなたの頼みや弱音なら全部受け止められる自信と覚悟があるよ。だからね、見くびらないでほしいんだ」
「そんなつもりは」
「あなたは孤高の人にはなれない」
トリーネはピシャリと言った。エディタは何を言われたのか分からず、微妙な表情を浮かべた。
「あなたは孤高なんじゃなくて、不器用なだけなの。だから、あたしはあなたを利用して、あたしたち歌姫の関係性を上手く作ろうとしているんだ――ぶっちゃけちゃうとね。その結果、あなたはみんなをバシッと率いれるようになるし、みんなはあなたを頼れる人だと認識する」
「いっぱい考えてるんだな、トリーネは。私は自分だけで精一杯だ」
「だから、あたしがいるのよ」
トリーネは胸を叩いてみせる。ばしゃんと水面が音を立てる。
「まずは、エディタにはあたしを好きになってもらいます」
「すでに十分好きだけど……」
「嫁だと思える?」
「よ、嫁?」
「論理的な話よ。夫でもいいわよ」
「う、うーん。よくわからない」
「たとえばあたしが重たい病気になったら、どう思う?」
「心配する。入院とかなったら多分いても立ってもいられない」
「なら、あたしが戦死したら?」
「戦死……」
エディタの表情が曇る。
「切っても切れない言葉よ、戦死は。今の戦争が続くなら、あたしたち、どっちかが先に死ぬのよ」
「そんなのはイヤだ」
「うん、合格」
トリーネは微笑むと、エディタの左手を握った。
「イヤだよね。想像もしたくないよね」
「うん」
エディタはその手を握りなおす。水中で二人の指が絡まり合っている。
「でも、どっちかが先に死ぬの。あるいは同時かもしれないけど、死からあたしたちは切り離せない」
「私は自分が死ぬことには何の感想も持ってないんだ。だけど、トリーネやクララやテレサ、他の仲間たちの死って、考えるだけで具合が悪くなる」
「あたしも。それはあなただけじゃないよ」
トリーネはエディタの腰に手を回した。エディタは抵抗しなかった。
「あたしたちにできるのは、そういう悲しみを減らす努力をするだけ。そのために今の厳しい訓練がある。だけどそれと弱音を吐かないのは別。弱音を吐かないのは強さかもしれないけど、エディタのそれは、弱音を吐けないだけだと思うよ。それはむしろ、弱さなんだ」
「弱さ、か」
「だいじょうぶ」
トリーネはエディタの頬をつついた。
「あたしがいる限り、あなたは負けない。あなたは折れない」
「なぁ、トリーネ」
エディタはその美しい顔でトリーネを正視した。
「君はどうしてそこまで私を」
「言ったでしょ。好きだからよ。女とか男とかそういうのじゃなくて。誘蛾灯みたいなものなのよね、あなた」
「ゆ、誘蛾灯……」
「思わず吸い寄せされちゃう。思わず好きになっちゃう。意味も分からずっていうか、本能があなたを愛せって囁くみたいな」
トリーネはそう言って笑った。エディタは引きつった笑みを見せる。
「さ、そろそろ上がりましょ。茹でダコになっちゃうわ」
「そうだな」
エディタはトリーネと並んで浴槽を出た。
「あたしは、自由になったんだ」
「自由に?」
「そ。世間一般に言う恵まれた家庭環境ではあったから贅沢は言いたくないけど、とにかく窮屈でさぁ。このままダラダラと音楽続けて幼馴染と結婚して子供産んで……そんな人生かなってちょっとがっかりしてたところで歌姫養成科でしょ?」
トリーネは手早く着替えを済ませて頭の後ろで手を組んでいる。
「だから、この自由をあたしのこの後の人生で、最大限に謳歌したいわけ」
伸びをしながらトリーネは言い、エディタは「なるほどなぁ」と相槌を打った。