02-3-1:地平線上の134340

歌姫は背明の海に

 カティは紺色のジーンズに黒いタンクトップという軽装で、ソファに深々と沈んでいた。溜まりに溜まった疲労により、ついウトウトしてしまう。うたた寝と覚醒を小刻みに繰り返してしまうが、まだ午後八時にもなっていない。本気で寝るにはあまりにも早すぎた。

「遅いな」 

 先に一杯やってしまおうかなと、カティはエディットの写真に問いかける。

「しかし、強制休暇とはね。お優しい軍隊だ」

 カティは写真の中で微笑む美女を見る。それはしわくちゃの写真を修正してきれいに出力し直したものだった。被写体は顔を失う前のエディットである。その写真の隣には、火傷の痕も痛々しい中佐時代のエディットの厳しい表情の写真を置いてある。

 この数ヶ月、エウロス飛行隊は文字通り不眠不休の働きをしていた。ナイトゴーントによる散発的な空襲や、アーシュオンの強行偵察艦隊への対応、他はエウロスの急襲航空母艦リビュエによる海域哨戒任務などが立て続けに入っていたからだ。エウロスが動き回っている――それだけでアーシュオンに対する強力な抑止力になる。

 現実問題として、ナイトゴーントに確実に対抗できるのは、四風飛行隊の中でもエウロス飛行隊のみだった。他の三部隊、ノトス、ボレアス、ゼピュロスも超エースで固められているのは間違いないのだが、それでもエウロス飛行隊の異常な練度にはかなわなかった。軍司令部も超エース級の損耗を防ぐため、損耗率が明らかに低いエウロス飛行隊を優先的にナイトゴーントへの対応に回した。その結果、さしものエウロスでもヒューマンエラー起因の問題が多数発生し、立て続けに事故が起きるなど、良くない傾向が続いていた。

 カティにしてもそうだ。発熱によって倒れるという失態を犯したばかりだった。三日間寝込み、解熱して二日経った今でも、まだ回復しきったとは言えなかった。

「休暇を開けたら、また使い潰されるのか」

 カティはそんなことを呟いた。発熱する前日、エウロスの整備員が二人、事故で死んでいた。原因はほんの些細な確認漏れだったのだが、それが巡り巡って大きな事故になった。事故処理は倒れてしまったカティの代わりにマクラレン中佐が行ってくれたが、その事故はカティには大きなストレスになっていた。整備員もリビュエの乗員も基地の職員たちもカティにとっては大事な仲間だった。度重なる過労とストレスが原因で仲間を失ってしまったというのは、即ち隊長である自分の責任だ――カティは強くそう感じていた。

 エリオット中佐が事故後に、参謀部に怒鳴り込んだという報告も受けている。エリオットとマクラレン、両中佐がいなければ、今頃カティもまた事故の渦中にいたかもしれない。あるいは戦死していた可能性だってなくはない。

 はぁ、と、カティは大きく息を吐く。溜息はストレス発散に良いんだそうですよ、と、エリオットが言っていたので、カティは一人の時には意識して溜息を吐くようにしている。

 カティは「そうだ」と立ち上がると、コート掛けにかかっていた黒革のジャケットを羽織った。

 屋外はさすがに寒かったが、カティには少し心地よかった。よく晴れた夜空を見上げ、カティは星座を探す。

「ベテルギウス……オリオン、か」

 南の空に大きく鮮やかに輝いている星座を発見して、カティは呟いた。

「あいつと見た空に似てる」

 ――きっと何年経っても、冬の空を見上げては同じことを思うんだろう。

 寒空の下、やや感傷的になるカティである。その紺色の目が少し潤んでいる。

 オレンジ色の巨星、ベテルギウスは、いつ消え去ってもおかしくはない天体なのだと、ヨーンは言っていた。もしかしたら、もうすでにこの宇宙の何処どこにも存在していないかもしれない、とも。

「今、アタシたちが見ているのは六百年前の光、か」

 想像すればするほど、それは不思議な感覚だった。太陽の光ですら五分以上も前に放たれた光なのだという。でも、太陽が消えると重力の関係で即座に太陽系は崩壊するらしい。それも不思議な話だった。

「えと、冥王星は……」

 カティは携帯端末モバイルにインストールしてある星図のアプリケーションを起動する。そしてその場でぐるりと回って、「134340」という表示を探す。

「あそこだ」

 地平線の少し上くらいにいるらしい。だが、肉眼で見えるはずもない。場所が正確にわかったとしても。134340冥王星はあまりにも小さくて、遠い。いるとわかっていても、姿を見ることすらかなわない。ましてや声なんて届くはずもない。

「はぁ……」

 カティはまた溜息をついた。呼気が白い雲となって、藍色の夜空に消えていく。

「アタシが中佐だってさ、ヨーン」

 カティはさんざめく夜空を見上げ、自嘲気味な微笑を浮かべた。たくさん殺したら偉くなれる。最善を尽くした結果、より多くの成果を求められた。そしてそれに応え続けてきた。その結果として、瞬く間に中佐だった。だが、その環境を嘆きこそすれど、軍を辞めるという選択肢はカティの中には全く存在しなかった。

 ヴェーラとレベッカがこんなにも耐えているのに、自分だけ一抜けしようという気には到底なれなかったからだ。それどころか、二人を助けるためならば、自分はこの先何百人だって殺していける。

 そんなことを考えて、カティは自嘲する。

 と持てはやされてはいるが、その実体は魔女か悪魔だ。

 カティは携帯端末モバイルをポケットにしまい、もう一度冥王星のある方角を眺めた。人の営みでけぶる地平線は明るい。完全な闇に落ちることはないだろう。

 その時、少し強い風が拭いた。ジャケットがまくられて、カティの素肌を冬の風が撫でていく。

「寒いな」

 カティは身震いを一つすると、家に入ろうと玄関の方向へ踏み出した。

 ちょうどその時、参謀部の黒塗りの車が、家の前に到着した。

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