二〇九三年四月末――ヤーグベルテ統合首都では、気の早い桜が開花し始める頃である。
ヴェーラは仏頂面で、眼下に佇む新型巡洋戦艦デメテルを睨んでいた。ヴェーラのいる司令室からは、広大な秘匿ドックが一望できる。このドックは貫通爆弾ですら手が出せない巨大な岩盤の下に建造されているため、空は見えない。
「で、この巡洋戦艦って、メルポメネと比べてどうなのかな?」
ヴェーラの振り返った先には、デスクで方々のスタッフに忙しく指示を飛ばし続けているブルクハルト中佐がいる。そうしている間にも、ブルクハルトはタイピングの手を止めない。
声をかけられたブルクハルトは「よし」と呟いて立ち上がる。そして空中投影ディスプレイに表示されている巡洋戦艦デメテルのデータを右手で指し示す。
「理論値では七割ってところ、かな」
「七割……」
「理論値で、ね」
「はぁ……」
ヴェーラは苛々とした様子だった。髪の毛の先を指先で弄び、空中投影ディスプレイに視線を送る。ブルクハルトはデメテルの映像を眺めながら、どこか他人事のように言った。
「あいつらが出てこなければ、まぁ、戦えるんじゃないかな」
「あいつらが頻繁に出てくるから困ってるんだよ、教官」
ヴェーラは苦笑しながら、腰に手を当てる。
「ナイトゴーントと、イスランシオ大佐の亡霊。あいつらにはほんと、手を焼くんだよ。メルポメネですら厄介に思っていたのに、このデメテルじゃぁどう考えても力不足だよ」
「それもそうだね」
ブルクハルトは全くいつも通りの口調でその主張を肯定する。ヴェーラは大きく息を吐いて、わざとらしく首を振った。その様子を視界の隅で把握したブルクハルトは「そういえば」とヴェーラを近くに招き寄せた。
「なになに?」
「今朝方、ホメロス社から送られきたデータなんだけど、これが新型戦艦のスペックと外観らしいよ」
空中投影ディスプレイに映し出されたその威容に、ヴェーラは思わず「おおっ!?」と歓声を上げた。
「なんて美しい戦艦なの! ええと、名前は」
「セイレーンEM-AZ」
「いーえむ・えーずぃ?」
ヴェーラは首を傾げる。ブルクハルトは自分の端末でメールを確認しながら補足する。
「何の略なのかは知らないけど、そういう名前らしいよ」
「メルポメネ・マーク2とかじゃないんだ?」
「名前が代わるくらい大きなバージョンアップってことだよ」
ブルクハルトはそう言いながら、自分の端末にセイレーンEM-AZのコアユニットの制御プログラムを表示させる。
「概ねこのスペックで行くはずなんだ。物理武装はもちろんだけど、セイレネス方面の論理武装が大幅に強化されるんだ。正直僕にも難度の高いコードなんだけど、わかる?」
「うーん……」
ヴェーラは端末を借りると、即座にコードを読み解き始める。
「メルポメネ以上に洗練されている。それに、この部分って、まるごと艦体制御のモジュールに見えるんだけど」
「さすがヴェーラだね。その通りだ。そしてこれがセイレーンEM-AZのウリの一つかもしれないね」
ブルクハルトは空中投影ディスプレイに、シミュレータの映像を映し出す。そこにはその巨体からは想像もできないほどに軽快に動き回って、敵航空戦力を翻弄する戦艦の姿があった。
「セイレーンEM-AZは極論するとね、ヴェーラ単独でも制御できるんだ。メルポメネは艦の物理耐久に限界があったけど、セイレーンEM-AZの方はその問題をほとんどクリアしたんだ……ということらしい。だから彼らの言葉を信じるなら、ヴェーラが動かしたいように動かせる、という話だよ」
「わたし一人でできる……?」
半信半疑なヴェーラに、ブルクハルトは「うん」とあっさり肯定した。
「もちろん、君が一人でコレに乗るってわけじゃない。メルポメネ、そしてデメテル勤務の海軍兵士たちがそのままスライドしてくる予定になっている。平時及び通常戦闘時は彼らが主役さ」
「なるほどねぇ」
ヴェーラは額に手をやって、空中投影ディスプレイに映し出されたセイレーンEM-AZを睨む。
「でもすごいね、そのしくみは。いざって時には総員退艦させても戦えるんだね」
「おいおい、君がまっさきに退艦するんだよ、そういうときは」
「わたしが貴重な歌姫だから?」
「そういうこと」
「あははっ」
ヴェーラは思わず笑った。
「教官はそういうとこ、ほんっとドライだよね。普通はそういうわけじゃないよとかそういうフォロー入れるものだと思うけど」
「君相手にそんな気遣いは逆効果だ。違うかな?」
「はいはい。教官にはかなわないよ、ほんと」
だろ? と、ブルクハルトは目を細めた。ヴェーラは下唇を突き出して、大袈裟に肩を竦めてみせた。
「はは。それはそうと、これから一時間くらい時間は取れる?」
「今日は教官のために開けてあるよ。長くなると思ったから」
「ありがたいね。それならこのコードを見て欲しいんだ。コードレビューは済んでるんだけど、どうもまだ不安があってね」
「コレってなんのための?」
「戦闘力の落ちるデメテルをちょっとでも強化するためのプログラム。ホメロス社の論理レイヤにはかなり不安があったんで、こっそり組んでみたんだ」
「へぇ」
ブルクハルトはヴェーラを自席に座らせると、自分は手近な椅子を持ってきて隣に腰を下ろした。
ヴェーラは真剣な表情で画面に流れるコードを見つめる。表示される文字列は一秒たりとも静止しない。流れるようにコードを読んでいくヴェーラに、ブルクハルトは苦笑しつつ肩を竦めた。
「これ、なんてピーキーなの!? これがわたしの今までの戦闘データだよね。で、この数値を元にして、これ。あそびが全然ない」
「不安かい?」
「教官のチューニングに不安を覚えたことなんてないよ。わたしが使いこなせると判断した上でのコレなんでしょ? だったらわたしは乗りこなすだけだよ」
「そう言ってもらえるとプログラマ冥利に尽きるね。これからデメテルにコレを組み込むから、後は君が好きに調整してもいい。残念ながらそう遠くない未来に実戦で試してもらうことになると思うけど」
「遠い未来でいいんだけどなぁ」
ヴェーラはそう言って、栄養ドリンクを飲み始めたブルクハルトをジト目で見た。
「よし、ラストスパート」
「教官っていつ寝てるの?」
「それなりには寝てるよ。良い睡眠がなければ良いプログラムは作れない」
「でも、教官が寝てるのなんて想像できない」
「僕はマシンでも何でもないよ。風邪だってひくしね」
ブルクハルトはその間にも、フロアのスタッフたちの質問に答えたり指示を出したりしているのだ。ヴェーラの頭脳をしても、ブルクハルトの脳内処理系がどうなっているのかを理解するのは難しかった。
「ほんとに、教官がいなかったらセイレネスなんてどうやっても扱えなかったと思うよ、わたし」
「そうかな?」
ブルクハルトは一瞬だけヴェーラを見て、またモニタの方に視線を戻す。
「システムってのはね、ヴェーラ。特定の誰かがいなくなったとしても、ちゃんと何とかなるようにできているんだ。不思議なことにね」
「なんとかなるようにできている……の?」
「そ。だから、この人がいなかったらとか、そういう仮定にはあまり意味がないんだ。今はたまたま僕がいたから、たまたま僕がこの辺を仕切ってる。でも仮に僕が今、ストレス性の胃腸炎やらなにやらで倒れてしまったとしても、軍みたいな巨大な組織に於いてはね、システムってのは意外と滞りなく管理されてしまう。そういうものなのさ」
達観したように言い放つブルクハルトに、ヴェーラは唸ってしまう。
「でも、その、だったらね、教官。なんか寂しくないの? 唯一無二であることって、それだけで誇りとかそういうのに繋がるんじゃないかなって、わたし、思うんだけど」
「ははは! 個人レベルの虚栄心という意味なら、そうなんだろうね」
ブルクハルトはヴェーラの問いかけをやんわりと切り捨てた。
「残念ながら、僕は隅から隅までシステム屋なのさ。たとえ今、自分が死んだとしても、完璧に回り続けるシステムを構築しておきたい。誰もが管理できるように整備しておきたい。そんな具合の僕のシステム屋としてのエゴが、たまたま軍の利害と一致した。僕が今ここでこの仕事をし続けていられる理由ってのは、ただそれだけなんじゃないのかな」
「へぇぇ」
理路整然と並べられたその言葉に、ヴェーラは何と反応したら良いのかわからなかった。
「よし、と。デメテルのシステム、セットアップ完了。いや、長丁場だった。あとは再起動さえちゃんとしてくれればデスマーチ踏破だ。ここからが油断ならないんだけどね」
「まったく、教官がもうちょっとしょっぼい人だったら、わたしはもうちょっと楽できたんじゃないかなーって思うよ」
「逆だよ、逆」
ブルクハルトは心持ち得意そうに言った。
「システム管理者の能力と、現場の負担ってのは常に反比例するのさ」
「ってことは、教官がしょっぼい人だったら、わたしは今よりキツいってこと?」
「そういうこと」
「うげ……」
ヴェーラが露骨に顔を歪める。ブルクハルトはそんなヴェーラを見遣って、ニヤリとした笑みを見せた。
「だから君はもっと僕に感謝してもいいと思うよ」
ブルクハルトはかかってきた電話を取りながらそう言った。ヴェーラは「感謝していますー」と棒読みで応じ、席を立った。
「教官で良かったんだと思うけど」
ヴェーラはブルクハルトに微笑みかけ、そして部屋を出た。
――教官じゃなかったら、もっと憎めたと思うんだよね。
ヴェーラはそんなことを考え、ゆっくりと頭を振った。