二〇九三年五月、巡洋戦艦デメテルが進水して一週間後、薄暮の頃――。
「まったく! 次から次からぁっ!」
ヴェーラは数隻の防空駆逐艦、およびボレアス飛行隊を率いて、対空戦闘を繰り広げていた。数十機ものナイトゴーントが近海域に出現したナイアーラトテップによって展開されていた。いつもの波状攻撃戦略の一環である。
ナイトゴーントに対抗できる戦力は限られている。具体的にはヴェーラとレベッカ、そして四風飛行隊の一部の戦力だけだ。四風飛行隊はもちろんだが、ヴェーラとレベッカの負担はもはやとうに限界を超えていた。参謀部は甚大な予算を投入し、四風飛行隊全機への対セイレネス・システムである、オルペウスを配備しようとした。が、それは遅々として進んでいないのが実情だった。そもそもがオルペウスはデリケートなシステムなのだ。
ぶんぶんとうるさく飛び回るナイトゴーントを、ヴェーラは確実に叩き落していく。巡洋戦艦に過ぎないデメテルでは、絶対的な火力が不足していた。ブルクハルトによるチューニングがなければ、とうに戦闘不能に追い込まれていてもおかしくはなかった。全体の性能こそ急落してしまったものの、ヴェーラにとっては操作感は良好だった。メルポメネの頃は分厚い手袋を着けて精密作業をしているような感覚だったのが、今は素手でやっているのに等しい。狙ったところに思ったような攻撃ができ、必要最低限の領域に完璧な防御を展開することもできていた。全てがダイレクトでクリア――それはひとえにブルクハルトのチューニングと追加プログラムの賜物である。
「それでも、うざいものは、うざぁいっ!」
ヴェーラは苛々としながらも、四方八方から襲いかかってくるナイトゴーントに対処する。その時、東の方向に新たな機影を確認する。
「インターセプタだ! ボレアス飛行隊! あいつはわたしに任せて! みんなはこっちにナイトゴーントを近付けさせないで!」
すぐに「了解」が返ってくる。
さて。
ヴェーラは唇を濡らす。
デメテルから放たれた熾烈な対空砲火が一斉にF108+ISを包み込む。だが、通常攻撃で撃墜できるような敵ではないことくらいは、ヴェーラも承知している。
「イスランシオ大佐! あなたは死んだはず! なのになぜ、今、そこにいる!」
ヴェーラがセイレネスの出力を最大にまで上げて、その力を叩きつけた。その瞬間、ヴェーラの意識の中にイスランシオの表情が浮かび上がる。イスランシオは影のある冷たい微笑を浮かべていた。ヴェーラの背筋がゾクッと冷える。
『死という概念など、忘れた』
イスランシオは言った。その声はヴェーラの脳内に直接響き、ヴェーラの思考に澱を生む。
『俺は今、ここに在る。それがすべてだ』
イスランシオ機からの機銃掃射。ヴェーラは意識の腕を振ってそれらを跳ね返す。意識を赤く染めるような鋭い痛みが走ったが、それでも大したダメージではない。
「あなたはなぜヤーグベルテに敵対する! あなたの仲間や友人だっているでしょう!? 今ここにいるのは、あなたのかつての部下なんだよ!」
『仲間? 友人?』
イスランシオの冷笑が、またヴェーラの意識をあからさまに逆撫でしていく。
『そんな俗物的価値観など、とうに捨てた』
「それを俗物的と言うのか!」
『ああ。そこに刹那的という形容詞も追加しよう』
機銃掃射に続く近距離対艦ミサイル。巡洋戦艦であっても、対艦ミサイルが直撃したらひとたまりもない。ヴェーラは意識を集中して、全火力を対艦ミサイル迎撃に充てる。
『この論理層にこそ、辿り着きたかったのだ、俺は』
「そんなに良いものじゃぁないでしょうに!」
『ヴェーラ・グリエール。お前はなぜ、こんな物理層に固執する。刹那的で、本質として得られるものなど何もない、この層に、なぜ』
「大切な人がいるからだっ! 生きるのにそれ以上の理由なんているもんか!」
弾幕に次ぐ弾幕。イスランシオの機体を幾発かは掠めていく。しかしダメージには至らない。主砲の三式弾がイスランシオを襲う。通常の航空機なら間違いなく粉微塵になる直撃だったが、煙を吹くことすらない。
「あなたはいったい、そんなわけのわからないエゴで、何人殺せば気が済むの!」
『エゴのためだから、何人だって殺せるのさ』
反転上昇したイスランシオは、そのまま鋭く急降下してくる。弾丸の雨を降らせながら。
「だからっ! しつこいっ!」
全門、一斉射――!
イスランシオ機を包み込む爆炎。だが――。
「逃した、またしても!」
ヴェーラには見えていた。爆炎のさなか、まるでブロックノイズのように空間が歪み、F108+ISの姿が掻き消えてしまったのを。いつもと同じように。今までも数回に渡ってイスランシオには勝利してきているのだが、その度にこうして逃げられてしまっていた。
だけど……今回は、違う。
ヴェーラはセイレネスを起動させたまま、コア連結室の闇の中で眉根を寄せた。