ふと、エディタは視線に気が付く。モニタルーム内にいるブルクハルトがエディタを見ていた。ブルクハルトは小さく右手をあげて、「こっちにおいで」とジェスチャーでエディタを呼ぶ。
「失礼します」
エディタはおずおずとモニタルームの扉を開けて中に入る。ブルクハルトは自分の隣の椅子をすすめ、エディタを座らせた。それと入れ替わるようにして立ち上がり、部屋の奥にあるコーヒーメーカーでマグカップにコーヒーを注ぐ。
「君はブラック派?」
「いえ、あの――」
「砂糖多めだね、その顔は」
ブルクハルトはそう言いながら、スティックシュガーを五本ばかり引き抜いた。両手にマグカップを持ち、鼻歌でも歌い出しそうなくらいに気楽な表情で自席に戻ってくる。
「どうして砂糖多めだとおわかりになられたんですか?」
「ブラックかどうかの回答、言いにくそうにしてたよね」
「は、はい。そうかもしれません」
エディタの答えに、ブルクハルトは「うん」と言いつつコーヒーを一口飲んだ。
「最初の否定でブラックの可能性は消える。となると、ミルクか砂糖、あるいは両方という線が強くなる。でもね、ミルクだとしたらコーヒーミルク一つが普通。仮に二個使う人であったとしても、上官に対してわざわざ二個を主張するとはちょっと考えにくい。一個で我慢しようとするはずだ。ミルクと砂糖の両方を使う場合にしても、その場合はどちらかが口をついて出る可能性がある。でもそれもなかった。だから、砂糖多めだろうなって推測したわけだ」
理路整然と語られるネタバラシに、エディタはいちいち生真面目に「なるほど」と頷いた。ブルクハルトが仕草で促してやっと、スティックシュガーをコーヒーに流し込み始める。結果として投入されたのは四本だった。
「本当に君は真面目だね、エディタ。僕が君くらいの年頃の時は、空気なんて読めなかったよ。あ、読めないのは今も一緒だけど、当時はその発想すらなかったからね。だから僕には君たちは皆、とても窮屈そうに見えていて少し心配だ」
「そう、ですか」
「ま、君たちの自然がそれならそれでいいんだけど。で、本題。僕たち技術本部と君たち歌姫は、まだまだ付き合っていかなくちゃならない間柄だ。お互いざっくばらんにいくとしよう」
「は、はい」
「それで、さ」
ブルクハルトはまたコーヒーを飲んだ。
「さっきのハーディ中佐の話はどれも本当だ。ヴェーラの件については、僕としてもとても心苦しく思っている。ヴェーラについてはもうとっくに限界を超えているんだ。僕は何度もそのことを意見具申しているんだけど、じゃぁ代わりはいるのかと言われて突き返されている」
「国防の大義名分の前には、個人の人権なんて……簡単に無視されるんですね」
やや棘のあるエディタの言葉にも、ブルクハルトは動じない。温和な表情のまま、コーヒーの香りを愉しんでいるかのようだった。ブルクハルトはマグカップをデスクに置いて、エディタの額のあたりに視線を固定した。
「国民の人権は、国体あってこそ成立する。その国体がまず危機に瀕しているんだから、それを守らないと前提条件が崩れてしまう。だから多少の犠牲を強いても、国家国民のために国体を維持し続ける責任っていうのが、国や軍にはあると思うんだよ」
「国体……ですか?」
「そう。本当に危機に瀕しているかどうかは、そうだな、うん、僕の知るところじゃないけど」
事もなげに言い放たれたその言葉に、エディタはしばし硬直した。
「その点の考察はこの民主国家に於ける、多数の賢い文民の皆々様にお任せするとして、だ」
「しかし、中佐」
「いいかい、エディタ。文民統制は大前提なんだよ。ヤーグベルテの大原則。僕ら軍人は議会の決定には一切逆らっちゃいけない。その点に関しては、僕は思考停止している。無駄だからね」
そんなものなのだろうか――エディタはマグカップの中で揺れるコーヒーの黒い水面を見下ろした。
「でも、いえ、しかし中佐。その多数派の人々に薬まで使わされて使い潰されるとか、それに抵抗することすらできないとか、私たちの人権って」
「哀しいけど、これが民主主義なんだよ、エディタ。君にはまだないけど、僕ら軍人にも選挙権はある。ある意味では、自分たちで自分たちの運命を決めているとも言えるんだ」
「それは詭弁では――」
「ならね、エディタ。君はいっそ軍国主義のほうが良いとでも思う?」
「そうは、思いませんけど」
「なら良し」
ブルクハルトは頷いた。
「軍それ自体が自分たちのことを優先した国家なんて、古今栄えた試しはないよ。軍隊はあくまで民主主義を守るための剣であり鎧なんだ。僕らは軍に所属した以上、国家の従属物に過ぎなくなったんだ」
「しかし、教官。私は……」
「君にもここに来るか否かの選択肢は、いや、拒否権と言ったほうが良いか。そんなものはあったはずだよ」
ブルクハルトの静かな口調がエディタを硬直させる。エディタはごくりと喉を鳴らした。
「そして今だって、君の自由意志でここを去ることもできる。もちろん引き止めはあるだろうけど、君の自由は尊重される。君にはそうする権利もある。その行使に関しては、少なくとも僕は逃げているとは思わない」
ヴェーラのようになるよりはずっとマシだからね、と、ブルクハルトは小さく補った。
「それは、いえ、しかし……」
「それが君の意志であり、答えなんだ、現状のね」
ブルクハルトは壁にかかった時計を見た。古風なアナログ時計は、午後七時ちょうどを指し示していた。
「さて、本題に入ろうか」
ブルクハルトはマグカップを空にすると、ゆっくりと足を組んだ。
「僕がヴェーラたちに出会ったのは二〇八一年のこと。今から十二年も昔の話だ。士官学校襲撃事件の三年前だね」
ブルクハルトの言葉に、エディタは何度か頷いた。
「あの二人と、空の女帝こと、カティ・メラルティン。この三人は正真正銘の天才だった。だからこそ惹きあったのかもしれないし、もっと大きな力がそうさせたのかもしれない」
「大きな?」
「運命という言葉には僕はとても懐疑的だけど、ときどき無性にその言葉を使いたくなるのさ」
ブルクハルトはエディタの瞳を見つめる。エディタは蛇に睨まれた蛙のように、身動きが取れなくなっている。
「君は、エディット・ルフェーブルのことは知っている?」
「存じております。逃がし屋としてしばしば報道されていましたから」
「そう、逃がし屋。彼女はヴェーラたちの保護者でもあった。良い上司だったし、姉のようなものでもあった。ヴェーラもレベッカからはよく聞いていたけど、オフタイムに限って言えば、最高の姉妹みたいな関係だったって話」
そうだったんですね、と、エディタは相槌を打った。
「でもね、エディタ。やっぱり僕らは戦争をしている。作戦やら何やらを巡って、エディットとヴェーラたちが対立することも少なくはなかった」
ブルクハルトは穏やかな声でそう言い、少し遠くを見るような表情を見せた。
「ヴェーラと軍の間の溝が、修復不可能なところまで来てしまった作戦というのがあってね。わかるかい?」
「もしかして、ですが、アーシュオン本土に弾道ミサイルを撃ち込んだ、あの作戦ですか?」
「イエス」
短く答え、ブルクハルトは足を組み替える。マグカップを持ち上げたが、空になっていたことを思い出して、またデスクに置いた。
「あの作戦は第三課のアダムス大佐が指揮していたから、エディットなんかは完全に巻き込まれ事故でしかないんだけど、とにもかくにも、ヴェーラはあれで完全に参ってしまったんだ」
マーナガルム隊の彼のこととかさ――。
ブルクハルトは心の中でそう補足する。口に出す必要はないと考えたからだ。無論、ヴェーラとヴァルター・フォイエルバッハとの関係性については一切、公には発表されてはいない。
「敢えて言葉を選ばずに言うけど、君もヴェーラたちも、みな同じ人間兵器だ。君たちは大昔の戦争のように、その手で直接人を殺す。自分を擦り減らしながら、敵の顔を見ながら殺していくんだ。病まないはずもない」
「ええっと……」
エディタはブルクハルトの真意を読み取ろうと、その顔を半ば睨みつけた。だが、ブルクハルトの柔らかな表情の内側を見通すことはできなかった。
「とにかく僕が君たちに期待しているのは、ヴェーラとレベッカを支えるという事その一点に尽きる。あの二人の苦しみを少しでも請け負ってやって欲しい。ただ――」
「ただ?」
「セイレネスの呪縛にだけは囚われてはいけないよ」
「呪縛、ですか」
「強すぎる力なんだ、セイレネスは。力は人を狂わせる。力は人を束縛する。力は人を盲目にさせる」
「しかし、教官。それをおっしゃるなら、私たちはもう揃って囚われているのではありませんか。国を挙げて」
「そうかもしれないね」
ブルクハルトは少し沈んだ声で言う。
「責任感の強い人間ほど、この呪縛からは逃げられないのかもしれない。ヴェーラやレベッカみたいな、ね」
「逃げられないから、私たちで負荷分散をしようということですか」
「そういうことだよ」
事もなげに肯定するブルクハルト。
「対症療法でしかないじゃないですか」
「根治するのは不可能な病に侵されているんだ、僕も、君たちも、そしてヤーグベルテ自体も」
ブルクハルトの言葉に、エディタは息を飲む。
「そうと理解した上で、僕は君にお願いしているんだ。もちろん、セイレネス・システムを捨て去ることができるならそれに越したことはないさ。でも現実問題、不可能だ。だったら……というわけさ。そのうえで、僕は君たちにお願いしている。もちろん拒否権はあるさ」
「その拒否権を使えないこともご存知ですね」
「君にそのカードを切る勇気がないことは知っている、それだけだよ」
ブルクハルトは立ち上がった。
「コーヒー、もういっぱい飲んでく?」
「いえ、結構です。ありがとうございます」
エディタは立ち上がった。ブルクハルトはマグカップを受け取って、自分の端末に向き直った。話は終わった、ということだとエディタは理解した。
「それでは、失礼致します、教官」
「うん」
ブルクハルトは頷いて、横目でエディタが立ち去ったのを確認した。
「あの子の中では、僕はきっと詭弁と自己弁護を吐き散らかすマッドサイエンティストって立ち位置にあるんだろうなぁ」
ブルクハルトは二杯目のコーヒーを飲もうと立ち上がった。
「力の呪縛、か」
誰も彼も例外はなく。
「マッドサイエンティスト、か」
諸悪の根源は僕なのかもしれないなぁ――ブルクハルトはゆっくりと頭を振った。