硬直してしまったエディタを見て、ヴェーラは温度の低い微笑を顔に貼り付ける。
「ま、冗談はおいておくとして」
「趣味悪いわよ」
レベッカはブランデーのボトルを死守しながら抗議する。ヴェーラは面倒くさそうに右手をひらひらと振って、主導権をレベッカに譲渡する。レベッカは大きな溜息をついてから、そのバトンを受け取った。
「知っての通り、というか見ての通りなんですが。ヴェーラは冗談では済まされないくらいに深刻な状況にあります。本人を前に言うのもどうかと思いますが、強い希死念慮もあります」
「ま、事実だし? 薬がなかったらとっくに、かもしれないよ」
「……哀しいこと言わないでよ」
レベッカは眼鏡をずらして目頭を押さえる。
「わたしの力じゃどうにもならないんだよ。ベッキーのことは大切だし、哀しませたくなんかない。だけど、それとこれとは全く別の話なんだ」
「わかってるつもりよ、ヴェーラ。でも、あなたは私が守るから大丈夫よ」
「それこそ、きみがいなかったら、わたしはとっくにここにいないよ」
ヴェーラは前髪をそっと後ろに送りながら囁いた。その声は少し掠れている。
「ともかくさ、わたし、薬がないとどうなるかわからないんだ。飲んでいてでさえ、戦闘みたいな興奮状態になるといろんな制御をぶっちぎっちゃう」
「あ……」
エディタは思わず声を出す。
「この前のも、もしかして」
「ああ、見てたんだね」
ヴェーラはレベッカがテーブルの上にブランデーのボトルを置くのを見るや否や掠め取り、残り少なくなった紅茶の上に波々と注いだ。
「ナイアーラトテップと戦うと大抵ああなるんだ。さしずめ狂戦士だよね」
「そうね、狂戦士モードと言ってもいいわね」
レベッカが言葉を引き継いだ。
「ああなると、自分で落ち着いてくれるまでは私の言葉さえ聞こえなくなるみたいなんです。問題はその後で、こっち側に戻ってきた直後から激しい鬱状態に陥ります」
「限界ギリギリの薬を使っても、なかなか回復しないんだなぁ、これが」
そうなんですか、と発したつもりの声は、音にならなかった。息が抜けただけだった。エディタは声すら出せないほどにショックを受けている自分に驚いた。
そんなエディタを正視して、ヴェーラはまた紅茶風味のブランデーを飲んだ。
「政治の都合というか、大人の都合と言うか」
そう言うと、立ち上がってキッチンに行き、冷蔵庫を物色し始める。冷蔵庫をあさりながら、ヴェーラは「でも、嬉しいんだよ、エディタ」と言う。その手にはビールの缶があった。
「わたしたちの理解者が増えるのは本当に嬉しいんだよ、エディタ。エディットがいなくなっちゃった今、わたしたちと共苦できるのは、カティくらいしかいなかったから」
「でもこれからは」
レベッカが穏やかな視線をエディタに向ける。エディタはその憂いを帯びた美しい顔を前にして、息を飲む。
「これからはあなたたちのような、新たな歌姫が生まれてくる。はやく私たちを超えるディーヴァが現れてくれることを願っているの」
その言葉を聞いた瞬間、エディタの意識に二人の少女の姿が映り込んだ。内気そうな黒髪の女の子と、ストロベリーブロンドの髪の勝ち気な少女だ。エディタの記憶にはない二人の少女の姿だったが、それはやけにはっきりと印象に残った。
「どうしたの?」
「あ、いえ。なんか……」
「見えた?」
ヴェーラの問いかけに、エディタは曖昧に肯いた。ヴェーラとレベッカは顔を見合わせて、どこかホッとしたような表情を見せた。
「あなたはやはり力があるのね。この子たちはわたしたちがライヴのときに目にした子。数年後には多分、ここに来る。ひと目見て何故かそう確信したのよ、私たち」
「この子たちがわたしたちを超える歌姫であることを願っているし、そうなったらようやくわたしたちは解放されるんじゃないかなって思ってるんだ。だからその日が待ち遠しいんだ」
ヴェーラはビールの缶にそのまま口を付けながら言った。レベッカはエディタの左手を右掌で包み込み、その目を見つめた。
「エディタ、あなたには、その子たちを導いてあげて欲しい」
「じ、自分が、ですか?」
「ええ。あなた以外にはいない」
レベッカは静かに断定した。ヴェーラは無言で頷いている。レベッカはエディタを再びじっと見つめてから、落ち着いた口調で続けた。
「エディタ、そのためには、あなたにはセイレネスの何たるかを知ってもらわなければならないわ。先日見せた戦闘は、私たちの見ている世界の何十分の一かにすぎない。でも」
「次はきみに、あのグロテスクな世界を全部見せるよ。わたしたちが嵌っている深みに案内する」
ヴェーラは「んせっ」と声を上げて立ち上がると、ビールを片手にエディタの隣に移動してきた。エディタは両サイドをディーヴァに挟まれる形となる。エディタの本能は歓喜に震えているが、理性の方はそれどころではなかった。そして空いている右手で、エディタの左頬に触れる。今にもキスできてしまいそうなほどに顔が近く、エディタは顔が急激に熱くなってきているのを感じた。
「わたしたちには、殺す相手の顔がこの距離で見えている。死にゆく人の呪詛がはっきりと聞こえている。船なんか沈めたら、そりゃもう断末魔と罵詈讒謗のオーケストラだ」
ヴェーラはそう言ってからビールをテーブルの上に置き、エディタの膝に頭を乗せた。
「え、あ、あの……」
「嫌ならやめるけど」
「と、とんでもないです」
エディタは硬直した姿勢のまま、ヴェーラの顔を見下ろした。ヴェーラは微笑む。
「きみは、きれいだ」
「そんな……」
「きみには、きれいなままでいて欲しいなぁ」
ヴェーラの手がエディタの顔に触れる。
「核を落としたあの瞬間から、わたしたちはもう戻れなくなった。この世の地獄から」
「私たちが、これからは」
「ありがとう、エディタ。でも、やっぱりきみにはきれいなままでいて欲しい。あんなこと、もう二度となければ良いんだけど、どうかなぁ……」
ヴェーラの空色の瞳は、少し潤んでいるように見えた。
「ま、気を取り直して」
ヴェーラはむくりと起き上がると、エディタの肩に頭を乗せた。
「空気も澱んできたことだし、ここいらで一つ、昔話でもしようかな」
「昔話、ですか」
「そう。そんなに昔でもないんだけどね」
ヴェーラは苦笑を見せる。
「聞きたい?」
「は、はい。もちろんです。どんな話だって、全て聞きたいです」
「いい子だね」
姿勢を変えずにヴェーラは囁く。
「じゃぁ、馬鹿なわたしの恋の話でも。アーシュオンの飛行士を好きになってしまったなんていう、絵に描いたような馬鹿な話でも、どうかな」
ヴェーラはそう言って、密やかに息を吐いた。