気が付けば、エディタの意識は巡洋戦艦デメテルの上空数十メートルの所を漂っていた。それだけであれば今までの見学とさして変わらない。しかし、今回は明らかにいつもと違う。エディタの頭の中に無数の声が聞こえるのだ。ヤーグベルテ語だけではない。その数倍か数十倍、アーシュオンの言葉が含まれていた。ざわざわとした、波の揃わない囁き声が、エディタの意識を不愉快に撫でていく。
エディタは意識の目を水平線の彼方に向ける。エディタの能力では見通すことはできなかったが、その先にはアーシュオンの第八艦隊が揃っていた。彼らの声なのだ、と、エディタは直感的に悟る。アーシュオンの兵士たちはまだ知らない。これから何が起きるのかを。
頭痛がするほどに張り詰めた緊張の中、エディタの前に一つの圧倒的な気配が現れる。姿は見えないが、確実にそこにいるとわかる。その持ち主はつまり、ヴェーラ・グリエールその人だった。エディタたちはその気配に誘われるようにして近付いていく。
五人の歌姫が揃ったのを見届け、ヴェーラが重たい口調で宣言する。
『きみたちのセイレネスに向けて、わたしが受け取った情報をフィードバックする。ハンナ以外にね。エディタたちは覚悟を決めてくれ。逃げるなら今しかないけど。単にログアウトしてくれればいい』
その言葉に、エディタはトリーネたちの気配を探る。見えないが、彼女らの抱く感情はエディタには筒抜けだった。
『迷いはない、か』
ヴェーラが少し寂しげに呟いた。
『きみたちのその心意気に感謝する。あとで抱きしめてあげるからね』
ヴェーラの言葉に、エディタたちは意識の中で顔を見合わせる。少しだけ気持ちが上向いた。
『きみたちは――』
そんな五人を前に、ヴェーラは厳かに言った。
『きみたちはこれから地獄を見る。呪詛も聞く。だけどこれは、歌姫である以上、決して避けては通れないことなんだ。心も傷つくだろう。だから、もし今回のこれで無理だと悟ったなら、二度とセイレネスに近付いちゃいけない。そうなったら、わたしがハーディたちに上手く言うから、決して強がったりしちゃいけない』
「提督……」
エディタの消え入りそうな声が響く。
『うん、脅すようで悪いけど、これは脅しでも何でもないんだ。魂を削り、魂を殺されながら、わたしたちは歌うんだ。人を殺せば殺した分だけ、わたしたちの魂も殺されていく。そしてわたしは、人を殺す』
黄昏の時は終わり、世界はすっかり夜に落ちた。海と空の境界すら判然としない世界、ただの濃紺が視界いっぱいに広がっている世界。空の星は海にも落ち、無数のキラキラとした輝きで世界を彩っている。
『時間切れ。本当に覚悟を決めて』
ヴェーラは静かに告げた。
『恍惚に、酔え!』
ヴェーラの声が聞こえたその直後に、巡洋戦艦デメテルが主砲を一斉射した。呼応するようにして、防空駆逐艦らが対空ミサイルを打ち上げ始める。
地獄が、始まった――。
デメテルから放たれるその音は、十重二十重にも連なり、水平線の彼方へと吸い込まれていく。薄緑色の光が波紋となり、対空砲弾と共に海面に戦列な反射像を描きながら、空を渡っていく。
美しい――エディタたちは総じてそう感じた。しかし、それはほんの一瞬だった。
空の彼方で何十何百の光が弾けたその瞬間に、エディタたちの意識の中に、いくつものおぞましい光景が抉り込まされてきたからだ。
端的に言えば、それは断末魔だった。驚愕、恐怖、絶望、それら全てが包含された何か。その声は、音は、エディタたちの意識の中で乱反射し、その度に激しい痛みをもたらした。心の痛みなのか、身体の痛みなのか、エディタたちには判別することは出来ない。ただ悲鳴を堪えてのたうち回るのみだった。そして心の目を閉じることのできない状況の中、エディタたちの意識に、アーシュオンの兵士たちが無惨に打ち砕かれて死んでいくさまが映し出されている。手や足を失った者、原型すら留めぬほどに粉砕された者、生きながら焼かれている者……その表情や絶叫すら聞こえていた。
それら全てが、エディタたちの覚悟を、予測を、上回っていた。
今まさに殺す相手の顔が見える。しかし、それどころではない。その生命の持ち主の記憶まで見える。思い浮かべた大切な人や思い出、遺言――それらが全てまとめて流れ込んでくるのだ。
だが、ヴェーラは容赦しなかった。アーシュオンの第八艦隊は完全に虚を突かれ、ただの一撃で半壊していた。ヴェーラは生き残った艦艇に対しても一切の手心を加えなかった。確実に皆殺しにする――強い意志がそこにあった。投げ出された兵士たちにも、ヴェーラは攻撃を加えた。薄緑色の光が撫でるだけで、海を漂う兵士たちは肉片と化した。サメを始めとする海洋生物たちが嬉々としてそれを食らっていく。
「耐えられるはずがない、こんなの」
エディタは絶叫を飲み下しながら、呻いた。胸が激しく痛む。呼吸が苦しい。
地獄は終わっていない。かろうじて飛び立ったアーシュオンの航空機たちが、文字通り粉砕されていく。誰一人助からない程に、航空機は執拗に攻撃されていた。その度にエディタたちの中に、飛行士たちの記憶が滑り込んでくる。視覚、触覚、嗅覚、聴覚……とにかくすべての感覚器に、彼らの死が関連付けられた。
「もういい、もうやめて、もう、やめてください!」
エディタは叫んでいた。これ以上は私が壊れてしまう――エディタの中の冷静な部分がそう告げていた。
だが、ヴェーラはそれには応えなかった。あえての沈黙が、ヴェーラの思いを雄弁に伝えていた。
死神の乱舞は延々と続く。全く無分別に、全く無差別に、平等に、公平に、死が量産され続けた。
「グリエール提督! お願いです、もう、もういいじゃないですか! もう十分じゃないですか!」
『――それを決めるのは、わたしではないんだよ、エディタ』
ヴェーラの声には温度がなかった。寒気、否、怖気がするほどに深淵だった。そのあまりの闇の深さに、エディタの心が、その機能を停止した。