マーナガルム飛行隊の駆る三機の白皙の戦闘機、PXF001は、ヤーグベルテ第八艦隊の支配する海域に向けて一直線に移動していた。時刻は正午、太陽が嫌味なほどの熱エネルギーを送り届けてくる時分である。
『シルビア、フォアサイト。下を見てみな。M型だ」
「なんていう悪趣味な造形だ」
以前のE型ナイアーラトテップには、能面のような不気味さがあった。だが、それでもある程度の均整は取れていた。だが、このM型にはそれがない。ただの黒い楕円形の潜水艦なのだが、どこもかしこも歪で、不格好とか不調和とか、その類の否定的表現がなんとなく似合う。名状し難い――そう表現するのがしっくりくる。
「それにE型に比べると随分小さいな?」
『駆逐艦くらいのサイズらしいぜ』
そう言うと同時に、クリスティアンの機体が高度を上げ始めた。電探で敵機および敵艦隊を捕捉したのだ。フォアサイトがシルビアの機体から距離を取りつつのんびりと言った。
『強化プラスティックの投入すらケチったのかね、これぇ』
『エンジンだって解体寸前の旧型艦から移植したって話だしな』
「ふたりとも」
シルビアは武装の最終チェックをしながら言った。
「無駄話はおしまいだ」
『へい』
『はぁい』
敵機が多弾頭ミサイルの有効射程に入る。
「第三艦隊全飛行隊! 突撃! 多弾頭ミサイル、放て!」
五十機もの戦闘機から放たれたミサイルが、いくつもの少弾頭に分裂する。空間の熱量が跳ね上がり、やがてヤーグベルテ側から撃ち放たれた多弾頭ミサイルの弾頭と激突する。爆炎は空域を熱し上げ、陽炎と煙幕によって空が歪む。
シルビアたちはその猛る炎を突っ切り、乱気流の皮を強引に渡り切る。ヤーグベルテ第八艦隊の艦載機たちは、数こそアーシュオンと同等だったが、練度が違っていた。マーナガルム飛行隊がいる以上、ヤーグベルテの艦隊艦載機たちに勝機はない。
「艦隊は捨て置け! 制空戦闘にのみ集中――」
『ちょっと待て、シルビア! やばい、やばいぞ!』
「どうした、クリス」
号令を中断させられたシルビアは、仄かに苛立ちを浮かべながら機関砲を連射した。コックピット付近に直撃を食らったF107が火を噴いて墜ちる。
『間違いねぇ! エウロスだ! エウロスが来た! 空の女帝がいやがる!』
「なん……だって……!?」
エウロス飛行隊の大部隊ははるか南方の別働隊の方に出現したと聞いていた。だからシルビアは、この制空戦闘はアーシュオンの圧勝で終わることを信じていた。
真紅の機体を駆る空の女帝。そして女帝に続く黒塗りのエウロス飛行隊――!
『こっちのエウロスは全部で六機! 別働隊の方には空の女帝は出てきていないんだと!』
「くそっ、油断した!」
シルビアは舌打ちしつつ、極至近に迫った赤い機体を照準円に捕捉する。
「別働隊は囮だったってことか!」
赤い機体が視界から忽然と消える。レーダーに意識を送る暇もない。
「どこだっ!?」
その瞬間、シルビアはほとんど自動的に操縦桿を右に倒していた。直後、それまでシルビアがいた空域を機関砲弾の群れが切り裂いた。シルビアの体中の汗腺から汗が噴き出す。シルビアは呼吸を整えつつ、上下反転の姿勢で女帝機を探す。だが、見つからない。ニ秒もしないうちに再びロックオンアラートが鳴り始める。シルビアは直感を頼りに機体を海面スレスレまで降下させる。機体が生み出す衝撃波が、海面を叩き割る。女帝からの機関砲弾が、白波を穿つ。
「くそっ、どこにいる!」
空の女帝を視界に捉えられない。完全に手玉に取られている。再度のロックオンアラートに、シルビアは神経を逆撫でされる。
シルビアは機体を海面に対して垂直に立てるなり、オーグメンタを点火した。熾烈な火炎が海面を焼き、視界を覆い尽くさんばかりの水蒸気を発生させる。シルビアのPXF001は、まるでロケットのように打ち上がる。
待ってましたと言わんばかりのタイミングで、対空ミサイルが二機迫ってくる。シルビアは逃げる。ひたすら逃げる。フレアを撒き、逃げ続ける。ほとんど直感に頼ってシルビアは回避行動を取り続ける。機関砲弾が絶え間なく襲いかかってくるが、当たらない。それはもはや神業、奇跡と言っても差し支えのない激しい機動だった。
『やるじゃないか』
突如通信に入り込んできた声に、シルビアの頭の中が真っ白になる。これだけの戦闘をしながら、空の女帝には、相手の通信回線に侵入するような余裕すらあったということだ。
『だけど、そろそろ墜ちてくれ』
その途端、機体が機関砲弾の暴風に晒される。シルビアは上昇を止めない。燃え盛る太陽にひたすら迫り続ける。追ってくるのは空の女帝ただ一人。静謐な空を、白と赤、二機の戦闘機が引き裂き上がる。のしかかる加速度に歯を食いしばり、しかし、操縦桿から手を離すことはない。血液が背中側へ集中し、眼球が痛み始める。奥歯の方から妙な音が響く。
限界か――!
『シルビア、すまねぇ、遅くなった!』
「クリス!」
助かった!
シルビアは一瞬だけだが、確かに気を緩めた。その刹那、視界が大きく揺れた。右の翼の根本に機関砲の直撃を受けたのだ。
「くそっ、これでは!」
これ以上の空戦は無理だとシルビアは瞬時に判断する。
その途端、シルビアの視界が真っ赤に染まる。あろうことか、空の女帝が背面飛行で機体を寄せてきたのだ。お互いの姿は見えないが、彼我の距離は十メートルもない。
『勝負は次回に持ち越そうじゃないか、マーナガルム1。僚機に感謝しておけ』
「舐めた真似を!」
『これ以上やっても、あんたが無駄死にするだけだ。アタシはそういうのは嫌いだ』
「……ッ!」
完全な敗北だった。自分は生き残ったのではなく、殺されなかっただけなのだ――シルビアはその事実を認めた。認めざるを得なかった。何しろ今のシルビアは指の一本さえまともに動かせなかったからだ。恐怖と屈辱、それらが綯い交ぜになってシルビアを拘束していた。空の女帝の気にあてられたと言っても良いのかもしれない。
悪魔のように赤い機体は、颯爽と飛び去り、あっという間に視界から消えていった。
『無事か、シルビア』
右隣に並んだクリスティアンが気遣ってくる。
「なんとか、だいじょうぶだ。それより戦況は」
『散々だぜ。制空権は取れねぇ、M型は集中的な対潜攻撃を受けて何も出来ずに逃走。得られたものは何一つねぇな』
『まったくだよ』
フォアサイトが左隣に並ぶ。
『エウロスは全機無傷だし、こっちの方は全部で二十機近く墜とされたみたいだ』
「……エウロスめ」
戦闘領域のすべてをひっくり返す女帝。あらゆる常識を覆す真紅。しかし、アレを倒さなければならないのは私だ。私以外に、いない。シルビアは唇を噛む。そんなシルビアに、フォアサイトがすっかり警戒心を解いた声で言った。
『ナイアーラトテップといっても、M型の三隻や四隻では、艦隊相手では負けはしないが勝てもしない、という結果だってことがわかったしねぇ』
『そういうこったな』
クリスティアンが疲れた声で肯定する。
『さすがはクラゲ様ってことで、防御力は鉄壁だ。だが、突破力がねぇ。E型が空母だとしたら、M型は駆逐艦くれぇの位置づけだぁなぁ』
「なるほどな」
シルビアは母艦エルシャ・バインディングを視界に収めつつ、左の掌を右の拳で殴りつけた。
「くそっ、みすみす女帝の引き立て役になってしまったッ!」
『この事実はけっこう痛ぇな』
クリスティアンが珍しくも真面目な口調で応じた。シルビアはうつむいて両手のひらを見つめる。
「わかってる」
たったの数分間の攻防で得られたものは、焦燥と恐怖と屈辱だ。そしてアーシュオンのトップエースは、ヤーグベルテの女帝の足元にも及ばないという事実の提示である。
『まーまー、シルビア。今日は生還できたことで良しとしようよ、とりあえずさ』
「しかし、フォアサイト」
『あんたが今しなきゃならないのは、あたしたちに冷たいコーヒーをおごることだ。いいね』
「……わかった」
シルビアは首を振り、肺の中に停滞していた空気を思い切り吐き出した。