初戦は散々な結果に終わりはしたが、M型ナイアーラトテップはそれでもヤーグベルテにとっては脅威だった。大きな損害こそ出ないが、迎撃兵器の運用コストがかかりすぎるという問題もある。艦隊規模で最大五隻を迎撃できるところまでは来たが、アーシュオンはほとんど無尽蔵に同時多発的にM型ナイアーラトテップを出没させていた。
ヤーグベルテ軍首脳部も、アーシュオンの狙いが飽和攻撃にあるということは見抜いていた。これら超兵器を迎撃し、撃滅することができるのは、現時点ではまだヴェーラとレベッカしかいなかったからだ。四風飛行隊、とりわけ、カティ・メラルティン率いるエウロス飛行隊もその迎撃戦力として計上されていたが、さしものエウロスといえども無敵ではない。度重なる出撃による人的エラーも多発するようになっていた。ノトス、ボレアス、ゼピュロス飛行隊の損耗も著しく、すでに定数の半分以下となってしまっている。
M型が世に出てきてから三ヶ月、二〇九四年十月――。
士官学校では新年度が始まっていた。歌姫養成科第三期生が入学し、ようやく少し落ち着きを見せ始めた時分である。
一日の訓練のすべてを終えたエディタは、売店前のロビーにてのんびりと携帯音楽プレイヤーの空中投影ディスプレイを眺めていた。音楽を聴くでもなく、ただそのリストを見ては、頭の中で再生している。今日はそうやって時間を潰したい気分になっていた。
「あら、新曲ね」
突然降ってきたその声に、エディタは飛び上がらんばかりに驚いた。いつからいたのか不明だが、エディタの目の前に参謀部の軍服姿の女性が立っていて、エディタが浮かばせているディスプレイの文字を見つめていた。その容姿は端麗で、まるでヴェーラやレベッカのような、圧倒的な圧を持っていた。
「隣、いいかしら?」
「えっ、あ、は、はい。もちろんです」
エディタはその時になって、この女性将校の階級章に気付く。大佐だった。エディタは弾かれたように立ち上がろうとしたが、大佐によって肩を叩かれて、椅子に逆戻りする。
「あなたが立ったら意味がないじゃない」
「えっと、はい」
エディタの隣に腰をおろした大佐は、細く長い足を組んだ。そして上半身を捻ってエディタを覗き見る。
「そう緊張しなくていいわ。取って食べたりしないから」
大佐は前髪に手をやって微笑んだ。烏の濡れ羽色と表現するのにふさわしい漆黒の髪と、それによって一層引き立たされている白い肌が印象的だった。瞳の色は暗黒色というのがしっくり来る、深い黒褐色をしていた。エディタはその瞳に一瞬で引き込まれた。それはあまりにも蠱惑的な目だった。いわば、畏怖すべき美である。
「私はマリア・カワセ。大佐待遇ではあるけれど、所詮はホメロス社からの雇われ参謀だから、階級を気にする必要はないわ」
「えと、自分は――」
「エディタ・レスコ。知っているわ」
マリアは微笑んだ。エディタはその顔から視線を動かすことができなかった。ヴェーラやレベッカと同等、いや、それ以上にミステリアスなその佇まいから意識を外せない。
「あなたの役割は二人のディーヴァのメンタルケア。そのために第一、第二艦隊を兼務。激務ね」
「それは、はい」
エディタの声が掠れてくる。マリアはまた微笑む。
エディタは意識を集中して、マリアの本質を見抜こうとする。エディタのセイレネス能力の一つとして、読心術のようなものがある。その強度はヴェーラやレベッカほどではないが、それでも普通の人間相手にはそこそこの精度を以て察することができるところまで能力が向上していた。
だが、マリアはまた「ふふ」と微笑んで首を振った。
「私の心は読めないと思うわよ、エディタ。あなたの力ではまだ全然及ばないわ」
口調も表情も穏やかであったが、その言葉は紛れもない警告だった。エディタの掌がじっとりと湿度を帯びる。音楽プレイヤーの空中投影ディスプレイを無意識に落とし、エディタは喉を鳴らす。
「大丈夫よ、エディタ。怖がらないで」
「申し訳ありません」
「まぁ、どう考えても私のほうが不審人物。あなたの対応は間違えてはいないわ」
ところで、とマリアは話題を変える。
「これから時間は確保できる?」
「大丈夫です。もう帰るだけでしたから」
「よかった。じゃぁ、少し付き合ってもらおうかしら」
マリアはそう言うなり立ち上がり、エディタに右手を差し出した。エディタは反射的にその手を取って立ち上がる。マリアは流れるような動作で姿勢を変え、エディタの左手を握リ直し、手を繋いだ状態で歩き始める。
「え、あの、手……」
「どうしたの? 恥ずかしい?」
「それは、少し……」
候補生たちは未だ幾人かは残っていて、参謀部大佐の出現に少なからず興味を引かれている。当然エディタも注目されている。
「人肌も良いでしょ。トリーネ以外とは手も繋げない?」
「いえ、そのような」
エディタはトリーネの顔を思い浮かべて、首を振った。それとこれとは話が違う。それにトリーネはそんなことで気分を害したりはしない。
「トリーネとの関係も知っているわよ。でもあの子、婚約者はどうするのかしらね」
「それは……」
自分も気になるところです、と言いかけてエディタは言葉を飲み込んだ。マリアは暗黒の瞳でエディタを見て、口角を上げた。
「個人的に応援するわ、エディタ」
「き、恐縮です」
エディタはひっくり返った声でそう言って、マリアを笑わせた。ひとしきり笑ってから、マリアは本題を切り出した。
「さて、今日はちょっとシミュレータルームに一緒に行ってほしいのよ。壁に耳あり、なんていうから念のために」
「なるほど」
あの部屋ならそういう意味での安全性は確保されていると言える。ブルクハルト中佐は他人の話にはまるで関心がないし。
「ヴェーラとレベッカのことなんだけど」
マリアは周囲に人の気配がなくなったのを確認してから、囁くように言った。
「あまり気負いすぎないで。そもそも十八歳になるかならないかのあなたに、あの二人を任せようだなんて、参謀部もどうかしているのよ」
「自分には、結局まだ何も」
「いいのよ、当然だわ」
マリアは幾分か憤慨したように言った。
「軍も政府も、結局は何らかの対策を打ったというアリバイを作りたいだけだから」
「アリバイ……」
「そ。何らかのことをやったという事実だけを積み上げて満足する人たちが大勢いるのよ、どの社会にも」
マリアはエディタの左手を握り直した。エディタはその手を少し強く握る。
「だから私がここに来たの。あなたのためでもあるわ」
「私の?」
「だって、あの二人、とりわけヴェーラは、あなた一人の手に負える人じゃないの。彼女の抱える闇に打ち勝てるのはレベッカだけよ。二人はそのために二人でいるのだから。だからあなたは、二人が求めた時にだけ、二人を助ければ良い。無闇に首を突っ込むのは自殺と同じよ」
マリアはそう言って、シミュレータルームのドアの前に立った。自動的に認証機能が働いて、扉が開き始める。
「大佐はいったい、どういう……」
「ああ」
マリアはエディタと並んで部屋に入りながら頷いた。
「まだ言っていなかったわね」
マリアの暗黒の瞳がキラリと輝いた。