私はね、と、マリアは囁く。
「第一及び第二艦隊と、その指揮管轄権を持つ参謀部第六課。私はその間に挟まる、いわば調整役よ」
マリアは迷わずモニタルームの扉を開き、エディタを招き入れる。モニタルーム内にはいつものようにブルクハルト中佐がいて、何やら唸りながら作業をしていた。
「作業のお邪魔でしたか？」
「お気になさらず、大佐。シミュレータ使うなら一言ください」
「今日は使わないわ。ちょっとデリケートな話をしたいだけですから」
マリアは言いながら、入り口近くの椅子をエディタに勧めた。マリアも椅子を引っ張ってきて腰を下ろし、足と腕を組んだ。
「さて、本題なのだけれど」
少しして、マリアが口を開いた時、ブルクハルトがアイスコーヒーを持ってやってきた。
「今回はサービスしときます」
「ありがとう、中佐」
マリアはそれを受け取って、一つをエディタに手渡す。エディタは礼を言うと、まるで急かされたかのように一口だけ飲んだ。緊張で喉が完全に凝り固まっていた。そしてそのコーヒーはエディタ好みに甘かった。
「今年の入学者にS級が現れたというのは知っている？」
「ええ、いろんな教官から聞きました。確か、レネ・グリーグ？」
「いい記憶力ね。そう、レニーよ。彼女は候補生の中では圧倒的よ。あなたをも凌駕する、事実としてね」
「自分はV級ですし……」
「ええ、そうね」
マリアもコーヒーを口にする。
「とはいえ、それはセイレネスの素質の話。あなたのほうが経験値という意味では圧倒的に上。みな、あなたのことを信頼しているわ。ヴェーラも、レベッカもね。そして歌姫候補生に関する全てのことを、あなたにおまかせしたいと考えています」
「す、すべてのこと……！？」
エディタの声がひっくり返る。
「ええ。教官の中に、あなたにものを教えられる人はもう誰もいない。彼らにスケジューリングはさせるけど、実行するのはあなたよ、エディタ」
「いくらなんでも……。自分はまだ候補生です」
動揺するエディタを見て、マリアは微笑する。
「歌姫のことは、歌姫にしか理解できない。何も知らない、知ろうともしない大人たちに任せていたら、都合の良い人形扱いされて終わってしまうわ。そうならないように、自分たちの待遇は自分たちで作る。あなたには、その最先に立ってほしいと思っているの」
「しかし、私たちは、軍の――」
「過ちを繰り返したくないのよ」
マリアは静かな声音で言った。その暗黒の双眸がエディタの藍色の瞳を抉る。
「私はそのためにここに来た。私はすべての歌姫の味方よ」
「大佐はその、グリエール提督やアーメリング提督とは」
「私は理解者よ。あの二人のことは誰よりもよく知っている」
マリアは空になったコップを机の上に置き、「それはそうと」と緩やかに腕を組んだ。
「あなたはセイレネスをどう思う？ セイレネスを使って敵を殺す。その近似的体験はすでに経験済みと聞いていますが、そのことについてどう考えていますか」
マリアの静かな問いかけを受けて、エディタの肩が跳ね上がった。マリアは冷たい瞳でエディタを見つめている。
「セ、セイレネスは、恐ろしい装置だと思っています」
「それは、なぜ？」
「理解できないからです。自分のこの能力というものも含めて……」
「そうね」
マリアは目を逸らし、天井の隅を見た。そしてゆっくりとエディタに視線を戻す。
「あなたたちとD級の二人との決定的な違いはなにか、わかりますか？」
「それはおそらく、最初からそうであったか否か、ではないでしょうか」
「さすがね、イエスよ」
マリアは少し悲しげに微笑んだ。その時、ブルクハルトがモニタルームから出ていった。筐体の方の調整を行うつもりらしい。彼はマリアたちの会話には一切の興味を持っていない。
「正確にはね」
マリアは少し身を乗り出した。
「最初から制御がかかっていなかったのが、ヴェーラとレベッカ。あなたたちは途中で制御をはずされた、というわけ」
「せ、制御ですか？ しかし、そうなると、全人類がセイレネスを使えるようにできているというようにも聞こえます」
「ああ、全人類がそうというわけではないのよ」
マリアは微笑を浮かべたまま言う。
「たとえば生物学的な男性には発現しない。そしておよそ二十歳を過ぎてから発現することもレアケースだと思われている。その発言者のほとんどが、十四、五歳に集中する。もっとも、この状況が恒久的に続くのかと言うと、まだわからないけどね」
「確かに自分も十四の時に軍に検査を」
「そうね。軍のスキャナー部隊は手当たり次第にその年代の女子を検査しています。あなたはその頃からなにか他の人とは違う能力に気づいたのではなくて？」
マリアは目を細めた。
「え、ええ。主に相手の考えが先読みできるような気がするとか……気のせいと言われればその通りなのですが、最近では半ば確信を持っています」
「そう、あなたの場合は気のせいではないのよ。精神共感というのもまたセイレネスの一つの能力。テレパシーなんて表現するのがしっくりくるかもしれないわね。実際にあのシミュレータに乗っていると、頭の中の声がお互いに届くでしょう？」
マリアはそう言って微笑んだ。
「さっきあなたが私を読み取ろうとしたのも、その能力の無意識の発露よ」
「グリエール提督とアーメリング提督は、常日頃からこういう能力を？」
「そうじゃないわ。正確には、可能だけれど、していない」
「なるほど……」
「いくら仲が良くても、見せたくない顔の一つや二つ、持っているものよ」
マリアの言葉に、エディタは頷いた。自分だってトリーネにすべてを見せているわけでも、打ち明けているわけでもない。
「これは未だ、ヤーグベルテにも開示していない情報なのですが」
マリアは口角を上げる。エディタは思わず背筋を伸ばした。
「私たちホメロス社では、歌姫の素質のことを『セラフの卵』と呼んでいます。歌姫の歌声によって、そこに仕掛けられた制御が解除され、セラフの卵は孵化する――」
「セラフの卵？」
「ふふ」
マリアは口元を押さえて微笑う。しかしその双眸はエディタのがっちりと捉えて離さない。
「どこかのロマンチストが付けた呼び名です。多分、深い意味はないわ」
マリアは微笑を貼り付けたまま、愉快そうにそう言った。