ハーディが出ていき、ドアが閉まるのを見届けてから、ヴェーラはマリアにその空色の瞳を向けた。
「で、だ、マリア。きみは何者なの? わたしの能力が全く通用しないなんて、普通じゃない」
「そうですね」
マリアは頷いた。そして艶のある黒髪に軽く手をやった。
「初めまして、ヴェーラ姉様。おひさしぶりです、レベッカ姉様」
「やっぱりベッキーの知り合い、なんだ?」
「え、ええ。でも、でも、あれは」
「夢、ではないのです、レベッカ姉様。あの空間で姉様と出会ったのは、間違いなくこの私です」
マリアは微笑む。まるで聖母のように穏やかに。
「私もまた、歌姫と呼ばれる側の存在です」
「ちょっと待って?」
ヴェーラが顎に手をやった。
「仮にそれが本当だとして、わたしがここまできみの心を覗けない事実がある。ということは、きみはD級なんじゃないの?」
「当たらずとも遠からず、ですわ、ヴェーラ姉様」
マリアは嫣然と口角を上げる。ヴェーラは顎を引き、腕を組んで黙り込む。代わりにレベッカが口を開く。
「だとしたら、どうしてあなたは歌姫としてここにこなかったんですか?」
「私たちには各々役割というものがあります」
マリアは厳かに言う。
「役割?」
「そうです、レベッカ姉様。表面上の役割はともかく、私が私自身に課している役割。それは姉様方をあらゆる人間の悪意というものから守ることです」
「で、でも、D級歌姫が三人になれば、私たちの――」
「負担が軽減できる、と?」
マリアの暗黒の瞳がレベッカを捕える。レベッカは喉を鳴らしつつ肯いた。マリアは静かに首を振った。
「それをしても、結局は程度の問題です。いずれ飽和することは目に見えています。二人が三人に、三人があるいは四人になったとしても、結局は飽和します。我々が一気呵成にアーシュオンを攻め滅ぼすというわけでもない限りは。それにD級歌姫に関わる運用コストは甚大です。戦艦の建造費用にしても然り」
「ま、そうだよね」
ヴェーラは頬杖をつきながら、探るような目でマリアを捉え続けている。
「じゃぁ、質問変えるよ、マリア。きみの目的は? わたしたちの運用管理を行うというのは理解した。けど、戦力としての協力はしない。ホメロス社だかどこだか知らないけど、D級をそんなことのために派遣するなんて。それにヤーグベルテもよくそれを認めたもんだよ」
「次の世代のためです」
マリアは一旦言葉を区切る。
「姉様たちのすべての行為は、次世代のために必要だから」
「なるほどね」
ヴェーラが低い笑い声を漏らす。
「わたしたちは試作品っていうことか。データ収集のための実験体とか、そういうこと?」
ヴェーラの詰問に、マリアは沈黙で答える。ヴェーラとレベッカは顔を見合わせ、同時に首を振った。
「ならさぁ、わたしたちって単なる礎っていうこと? わたしたち自身は何も解決できないまま、いずれこの舞台から降りるんだ、みたいな?」
「願わくば」
マリアは小さく、だが、明瞭に言った。
「姉様方に安寧の日々を、と、私は」
「難しいだろうね」
ヴェーラは窓際に立つマリアを見ながら、ため息をついた。マリアはそのため息を背中で聞き、視線を窓の外に見える超巨大戦艦の威容に向ける。
「セイレーンEM-AZ。エクストラ・マテリアル・アルファ・オメガ。最先にして、最後。歌姫の、いえ、姉様方の希望の方舟となるべく設計された艦です」
「ふぅん」
ヴェーラは立ち上がると、マリアの隣に並ぶ。そして白銀の戦艦を眺めやりつつ、朗々と唱えた。
「不義をなす者はいよいよ不義をなし、不淨なる者はいよいよ不淨をなし、義なる者はいよいよ義をおこなひ、清き者はいよいよ清くすべし。視よ、われ報をもて速かに到らん、各人の行爲に隨ひて之を與ふべし」
ヴェーラはマリアの横顔に視線を移し、付け加えた。
「我はアルパなり、オメガなり、最先なり、最後なり、始なり、終なり」
「ヨハネの黙示録、二十二章十一から十三節」
マリアは素早く反応すると、思い出したように囁いた。
「我また新しき天と新しき地とを見たり。これ前の天と前の地とは過ぎ去り、海も亦なきなり」
「第二十一章一節」
今度はヴェーラが出典を当てる。
「でも、わたしだっていくらなんでも世界を滅ぼしたりなんかしないよ」
ヴェーラは乾いた声で言った。
いつの間にかヴェーラたち三人は、並んで窓の外を見つめていた。
「わたしは後に続く子たちのために、道を作れば良いんだね。わたしはあの子たちに、あらゆる可能性を示したい。なぜならあの子たちは、ただの人間なんだから。次世代のD級歌姫も含めて、ね」
「ヴェーラ……」
レベッカはヴェーラの整いすぎた横顔を凝視した。ヴェーラは視線だけをレベッカに向け、きゅっと口角を上げた。荒んだ微笑――レベッカにはそう見えた。
ヴェーラはまた窓の外に視線を移し、噛みしめるように問いかけた。
「ベッキー、マリア。わたしはわたしの道を生きていて、いいのかな」
その問いには、レベッカも、マリアも、明確には答えられなかった。
――引き金は確実に引かれ始めていた。