少女が絶命したまさにその瞬間に、エイブラハム市は文字通り吹き飛ばされた。ヴェーラが動いた時にはすでに、阻止限界点をとうに過ぎていた。いや、レベッカが語りかけたその瞬間には、少女の勝利は決まっていたのだ。
黄昏の頃のエイブラハム市の上空に、光の輪が閃いた。一瞬遅れて広がった金色の爆炎が、エイブラハム市を襲った。巻き上げられた建物や道路が、巨大な津波と化した。その黒灰色の波は、中心部から外縁部へとあらゆるものを破壊して突き進んだ。
「くっそぉぉぉぉぉ!」
その状況を目にしても、まだヴェーラは諦めていない。白一色の論理空間から、エイブラハム市の上空に視点の移動を完了させている。
『ヴェーラ、無茶しないで!』
「無茶でもなんでも、しなきゃならないんだ、今は!」
レベッカの言葉に乱暴に応じ、ヴェーラは周囲を見回す。弾幕が通じる手合いでもなければ、起爆してしまった以上もはや論理層は役に立たない。自分に残されているものは、セイレネスそのものの力だけだ。言い換えるなら、意志の力だ。
「ベッキー、手伝って!」
核の炎が驚くほど緩慢に拡がっていく。ヴェーラはそれを精神力だけで抑え込もうとしていた。
『無茶よ、ヴェーラ!』
「わたしは、やることをやってから後悔したいんだ!」
精神が焼ける。心が溶ける。ヴェーラの実体の方は、もしかしたら奥歯が欠けたかもしれない。だが、そんなことはどうでもよかった。今するべきことは、少しでも被害を減らすこと。そしてそれができるのは、ヴェーラたち歌姫以外にはいない。
『提督! こちらも手があきました!』
「助かる、エディタ! 手伝って!」
『はっ!』
時間はもうない。爆炎は最大域まで拡がった。都市はもはや焼け野原だ。
次に来るのは吹き戻しだ。拡がった爆炎を吸い込むように、爆心地へ向かって暴風が吹く。十万気圧の嵐の中のような様相を呈する。そんな中に巻き込まれれば、助かる人も助からない。
せめてそれだけでも押さえ込みたい!
ヴェーラはその旨を全員に伝える。だが、誰もが無言だった。ヴェーラは舌打ちする。
「きみたちの想いとか予測とか、そんなもの今はどうだっていい! 今はわたしに力を貸して! それだけでいい!」
ヴェーラの血を吐くようなその言葉を受けて、ようやくレベッカが反応する。
『私たちは無力ではないはず。やりましょう、みんな』
「ベッキー……!」
ヴェーラは隣にレベッカの気配を覚え、無意識にその意識の手を握りしめた。
『ヴェーラ、あなたに全て預ける』
レベッカの姿は見えない。だが、間違いなく隣にいた。
『エディタ、セイレネスを全て!』
『了解しました! 全員、聞いたな!?』
その途端、ヴェーラの認識力が急激に拡大した。人々の亡骸、断末魔、呪詛、苦痛、嘆き、絶望……ありとあらゆるネガティヴな情報が、一瞬の内にヴェーラの内側に流れ込んできた。
「うあああああああああああああああっ!」
ヴェーラはたまらず絶叫した。
負けない。絶対に、負けない。今は、負けられない!
ヴェーラは自分を鼓舞するかのように叫び続けた。
一人でも救う。救いたい。救わなければならない。一人でも、多く!
心がずたずたに引き裂かれる。意識が抉られていく。記憶が灼ける。心が
『ヴェーラ、押さえた! 押さえたわ! 吹き戻しが消えたッ!』
「……そう、か」
ヴェーラは燃え盛る大都市を呆然と見下ろした。黄昏の陽光が、焼かれる都市を嫌味なほど鮮烈に照らし上げている。
「エディタ、被害状況を……まとめて」
『承知しました。ハンナ班、至急対応して』
『了解です』
都市が一つ地図から消えたことは一目でわかった。エイブラハム市にはもはや人の営みは生まれないだろう。建物は根こそぎ破壊され、インフラも蒸発した。放射性物質にまみれ、その規模の大きさから除染どころの騒ぎでもないだろう。
『エディタ先輩、情報集まりました。でも、あの』
『どうした、ハンナ。報告急げ』
『あ、はい……。推定死者数、三十万と算出されています』
「えっ……!」
ヴェーラが言葉を詰まらせる。
「さ、三十万って言ったのか、ハンナ」
『こ、肯定です、グリエール提督』
「……くそっ!」
みすみすやらせてしまったっ……!
ヴェーラは眼下の地獄絵図を見て、三十万という数値を思い浮かべる。都市の人口の四分の一以上が、この一瞬で消し飛んだ。そう言われても納得せざるを得ない惨状が、確かに目の前に広がっていた。
『ヴェーラ、あなたのせいじゃない』
レベッカの掠れた声が届く。ヴェーラは眼下を這い回る赤い人間の群れを見ながら首を振る。
「ああ、そうだよ。わたしのせいじゃない。こんなこと。だけど、わたしの力がもっとあれば。わたしがもっと冷徹であれば。わたしはさっさと彼女を殺し、被害をもっともっと抑えることができていたはずなんだ」
ヴェーラは意識の中で髪を掻き毟る。そのどす黒い感情は、エディタたちにすら伝わっていた。
『ヴェーラ、いますぐセイレネスからログアウトして』
「……わかった」
ヴェーラはレベッカに言われるがままに、意識をコア連結室に引き戻した。そしてそのまま無言でセイレネスから離脱し、椅子から立ち上がった。
その直後、ヴェーラの携帯端末にレベッカからの音声着信が入る。ヴェーラは無言で通話ボタンを押したが、唇を噛んだまま何も言わなかった。
『あなたの責任なんてないわ、ヴェーラ。ひとっつも、ない』
開口一番にレベッカは強い口調でそう言った。ヴェーラは無言のまま、闇の中に佇んでいる。
『私があんな無駄なことをしなかったら、もしかしたら』
「無駄とは言いたくないよ、ベッキー。きみは正しかった。きみの気持ちに嘘はなかった。本音、本心から導かれた行動を、わたしは無駄とは言わない」
ヴェーラは噛み締めるようにしてそう応じた。
「わたしはきみたちのやり取りをただ見てたんだ。手を下さなかった。その時点で、あれはわたしの罪になった」
『そんなことは!』
「きみには綺麗なままでいて欲しいんだ。心の底から、そう思ってる」
『そんなっ!』
レベッカの声が大きくなる。
『私の罪でもあるわ! 私が――』
「ごめん、ベッキー。今のわたしには、きみに言うべき言葉をうまく探せない」
『ヴェーラ……!』
ヴェーラは通話を強制終了し、携帯端末をポケットにしまった。そしてコア連結室の扉を開け、硬直した。ドアの向こうの廊下の壁に、マリアが背を預けて立っていたからだ。
「ずっと、ここにいたの?」
「ええ」
マリアはその暗黒の瞳でヴェーラを見つめた。まるで蛇に睨まれた蛙のように、ヴェーラは身動きが取れない。
「わたしを責めるために?」
「まさか」
マリアは静かに首を振る。
「状況は把握しています、ヴェーラ姉様。姉様は八十五万人を救った。それが事実です」
「三十万人を死なせたというのも事実だよ」
「いいえ」
マリアはまた首を振った。
「姉様があの時あきらめてしまっていたら、文字通りエイブラハム市は全滅していたかもしれません。それにまだ分析中ではありますが、あの一帯には取り立てて高い数値の放射性物質は観測されていません。セイレネスの干渉による非核化が発生したのかもしれません」
「そうなんだ……」
ヴェーラは少しだけ表情を緩めた。
「ですから、姉様に罪なんてありません。あれら全てはアーシュオンの罪です。姉様は失われていたはずの数十万の生命を救った。讃えられこそすれど、咎人として責任を問われる理由などどこにもありません」
「マリア、でも……!」
「誇りをお持ちください。ご自身の行いに対する誇りを。さもなくば失われた命が浮かばれません」
マリアの両手がヴェーラの肩を掴んだ。そこから伝わる温かさがつらくて、ヴェーラはたまらず落涙した。、
「ねぇ、マリア。教えてよ。わたしは何のためにここにいるの? わたしはいったいどうして、こんな力を持っているんだろう? どうして普通の一人の女ではいられなかったんだろう?」
ヴェーラの空色の瞳が揺らいでいる。マリアはその瞳を真正面から受け止め、そしておもむろにヴェーラの背中に手を回して抱きしめた。
「残念ながら、私にはその問いに答えるための権限がありません。でも、姉様はここにいて良いのです。ここにいて欲しいのです。私も、レベッカ姉様も」
「わたしは、つらいんだよ、マリア」
ヴェーラもマリアを抱きしめる。マリアはゆっくりと頷いた。
「私は姉様、あなたと共にあります。何があっても」
抱き合った二人は、しばらく無言だった。
やがて、ヴェーラは身体を離し、マリアの頬に触れた。
「きみはいったい、何者なの?」
「私は――」
マリアは暗黒の瞳を伏せることなく、ヴェーラを凝視した。ヴェーラはその内面を覗けない視線を受けて、奥歯を噛みしめる。マリアは小さく息を吐く。
「私は、あなたの味方です、姉様」
そう答えたマリアの顔は、そこはかとなく哀しげだった。