エイブラハム市の壊滅から三ヶ月後、二〇九五年四月。ヤーグベルテ統合首都に於いては、未だ初春の頃である。エイブラハム市の復興は近隣諸都市の協力で急速に進んでいた。
そんな折、ヴェーラとレベッカは中将への昇進を果たしていた。これにて名実ともに一個艦隊の総司令官として認められた、ということになる。ヤーグベルテの艦隊は一部の例外を除き、中将がトップに立つことになっている。
「三十万人も死なせておいて昇進とはね。この国はまったくどうかしてる」
帰宅するなり、ヴェーラは軍服のジャケットとマントを脱いでソファに深々と座り込んだ。レベッカは空いてるソファに投げ置かれたそれらの衣服をハンガーに掛け、自らも上着を脱いだ。そこでレベッカははたと気が付いて、ヴェーラのジャケットのポケットを探った。
「忘れてるわよ、薬」
「あっ」
ヴェーラは慌てて立ち上がると、レベッカから半透明のピルケースを受け取った。そして中身を一時に口の中に放り込む。レベッカは急いでキッチンに行って水を持って戻ってくる。
「水の準備をしてから飲みなさいよ」
「ベッキーが持ってきてくれると信じてた」
「もうっ!」
ヴェーラは水を飲み干してそのままキッチンに行き、グラスを手早く洗って水切りスタンドに置いた。ヴェーラは戻ってきてレベッカの斜向かいのソファに身体を沈めた。レベッカはその様子を見て、足を組み、頬杖をつく。その表情は少し暗い。
ヴェーラは空になったピルケースを起用に指先で回転させながら、呟いた。
「薬が効いているうちは本当に楽なんだよ。難しいこと考えられない感じがして」
「そういう薬だものね。それでもあなたはすごくよくやってる」
「ありがと。きみのおかげだよ」
ヴェーラは小さく息を吐いて首を振った。
「薬が必要なくなる日はきっと来ないね」
そうだろうなとレベッカも認めざるを得ない。ヴェーラの精神は、もう手がつけられないほどにボロボロなのだ。セイレネスによる共感能力のあるレベッカには、それが痛いほどよくわかっている。ヴェーラは対症療法で、心の力を限界ギリギリのところまで高めて、それでなんとか持ちこたえているに過ぎないのだ。何か一つでも支えがなくなってしまったら、ヴェーラは容易に壊れてしまうだろう。
「ベッキー、あのさ」
「どうしたの?」
「きみとカティには本当に感謝してる。毎日、これでもかってくらい」
「急になに?」
「最近、お礼言えてなかったなって」
「私は当たり前のことをしているだけよ。私がこうしていられるのも、あなたがいるから。あなたのおかげよ」
レベッカはメガネのレンズを拭きながらヴェーラを見る。少し鋭い視線がヴェーラを捕える。ヴェーラは少し悪戯っぽく言った。
「きみってさ」
「う、うん?」
「本当にかっこいいよね」
「か、かっこいい……?」
「ハンサムっていうか。昔から思ってたんだけど、きみメガネ外すとめちゃめちゃハンサム」
「メガネつけてたら?」
「女教師」
「……あのね」
レベッカは眉間をつまみながら首を振った。
「それはそうとして、ベッキー先生。わたし、おなかすいた」
「あなたの先生でもお母さんでもないわよ、私」
メガネを掛け直し、レベッカは流れるように立ち上がるとキッチンへと向かい、冷蔵庫を開ける。
「あらら。ヴェーラ、悲報よ。使えそうな食材が何もないわ」
「えーっ」
「最近忙しかったから、二人で買い出しとか行けてなかったものね」
「わたしたちの買い出しって、毎回オオゴトになるからイヤなんだよね」
「まぁね」
レベッカはキッチン台に肘をついて少し思案する。
「ピザとかどうかしら?」
「おっ、ピザ! ピザいいね!」
急にテンションを上げたヴェーラに、レベッカは思わず破顔した。
「あなたのその『ピザいいね!』、久しぶりに聞いたわ」
レベッカの巧みなものまねに、今度はヴェーラが吹いた。
「似てる!」
「そりゃね。何年一緒にいると思ってるのよ」
「もう婦々みたいなもんだしねぇ」
「プラトニックだけどね」
レベッカはキッチンから戻ってくると、またソファに腰を下ろした。ヴェーラは自分の携帯端末でピザ屋を表示させながら、何気なく訊く。
「一線超えたい?」
「あなたの心を大事にしたいわ」
レベッカは直接的には答えなかった。
「きみはもっと強引でも良いと思うよ」
「あなたと添い遂げられるだけでも私は十分なの」
「嘘つき」
ヴェーラは目を細めてレベッカを見る。レベッカは目を逸らし、膝の上で両手を小さく握る。
「それじゃ」
レベッカは意を決したように立ち上がると、ヴェーラの隣に移動して身体を密着させた。ヴェーラはピザ屋に注文を投げ、注文完了の画面を確認すると、携帯端末をテーブルの上に移動させた。そして左腕でレベッカの腰を引き寄せ、その右の頬に時間をかけて口付けする。
「ヴェーラ……?」
「唇がいい?」
「ううん」
レベッカが今度はヴェーラの頬と首にキスをした。ヴェーラは笑う。
「流れでどうにかなっちゃいそうだ」
「どうにかしたいわ、本音を言えばね」
「でも、ピザ来ちゃう」
「なんてね」
レベッカはヴェーラの太ももに頭を乗せ、ヴェーラの美しい顔を見上げた。ヴェーラはその頭を軽く撫でる。
「ベッキー」
「なぁに?」
「きみがさ、もし、いろんなことに耐えられなくなりそうだったら」
「あなたを押し倒しても良い?」
「もちろん」
ヴェーラは幾分真剣な声で頷いた。
「その時はわたし、きみを全力で愛するよ」
「愛してくれてるのは知ってるわ」
「プラトニックな意味じゃなくてさ」
「楽しみ」
レベッカはヴェーラの太ももに触れながら言う。
「でもそこまで追い詰められなかったら、ダメなのね」
「普段使いもありだよ?」
「誘惑しないでよ。私、コロっといっちゃう」
「ずーっと我慢してるんだもんね、きみ」
「知っててそう言うんだから、あなたズルい」
レベッカは唇を尖らせる。ヴェーラがレベッカの頬に触れる。
「ヴァリーがさ、どうしてもね。だからそんな状態できみを愛しても、きみに申し訳がなくて」
「そうよね」
「ごめん」
「いいのよ。でもそうね、これからも一緒にお風呂に入ってくれるならチャラにするわ」
「取り引きが下手すぎだよ」
ヴェーラはそう言って笑う。
「なんかさぁ、こうしてまったりやってるとさ」
「今、エディットのこと考えたでしょ」
「うん」
ヴェーラは一瞬天井を見上げた。
「今にも、あー疲れた、お酒お酒! とか言いながら帰ってくるんじゃないかなぁって、思ったりする」
「そうね。この家にはまだエディットがいる気がするもの」
レベッカはあの日のことを思い出す。赤く染まった雪の日だ。エディットが永遠に失われてしまった、目の前で命を奪われたあの日。あの時あの場所に居合わせていなかったら、今でももしかしてその死を受け入れられていなかったかもしれない。否定のしようのない惨劇が、埋めようのない喪失が、ヴェーラとレベッカの心に穴を開けていて、それは未だに塞がっていない。
その時、テーブルの上に置かれたヴェーラの携帯端末に着信があった。
「マリア?」
訝しみながら、ヴェーラは通話を開始する。
『こんばんは、ヴェーラ姉様。ご自宅にいらっしゃいますか?』
「うん。どうしたの? 緊急?」
『今、近くまで来ているのですが、少し立ち寄っても良いですか? お時間は取らせません』
「どういう?」
『仕事の話ではありません。おいしいロールケーキが手に入ったので、一つどうかなと』
「仕事の話じゃないなら大歓迎だ。おいでおいで」
『ありがとうございます。数分で着きます』
そして通話を切って五分後、玄関先にピザとロールケーキを持ったマリアが現れた。
「ピザのデリバリと門のところで会ったので受け取ってきました」
「ありがと」
ヴェーラは屋内にマリアを導き、待ち構えていたレベッカがマリアのジャケットとマントを受け取った。
「自分で」
「あなたはお客様だから」
レベッカは頑として譲らず、マリアは少し困ったような表情でヴェーラを見た。
「ベッキーの頑固さは折り紙付きだよ、マリア。知ってるでしょ」
「まさかこんなところでも頑固とは思いませんでした」
「まぁ!」
レベッカが目を吊り上げるが、ヴェーラとマリアはその様子を見て笑った。
「さ、まぁ、そこら辺に座ってよ、マリア」
ヴェーラはさっそくピザの箱を開けながら気楽に言った。マリアは遠慮なくソファに座り、ヴェーラを手伝った。その間にレベッカはロールケーキを冷蔵庫に移動させている。
「すぐ帰りますね」
マリアは食事の用意を終えると立ち上がろうとした。が、ヴェーラの視線に制される。
「一緒に食べようよ。ピザでも何でも追加注文すりゃいいし」
「でも」
「ね、ベッキー。いいよね」
「もちろん」
「ってわけで。きみに特に用事がないなら、ピザパーティに参加して」
ヴェーラはマリアの暗黒の瞳を見つめて微笑んだ。