08-3-3:底の見えぬ願望

歌姫は背明の海に

 思い当たるフシはなくもない――ヴェーラはそう言い残すと、それきり何も言わず何も応えず、自分の執務室に立てこもってしまった。

「ヴェーラ、どうしたのかしら」

 仕方なく、レベッカとマリアは、その隣のレベッカの執務室へと場を移す。中将の執務室としては信じがたいほど狭く質素な佇まいの一室だったが、レベッカとしてはお気に入りだった。何にせよ、中将以前は独りになれる場所にとことん不自由していたからだ。

 レベッカは自分のデスクチェアに座り、マリアに空いている丸椅子を勧めた。マリアは椅子に座りかけ、「やっぱり良いです」とレベッカの背中側にある窓のところに立った。

って何?」
「恐らく動揺されているのだと思います、あんなことがあったので」

 マリアは遠回りに「わからない」と答えた。レベッカは頬杖をついてマリアを振り返る。

「嫌な予感がするの」
「嫌な予感、ですか?」
「そう。あの時、ミサイルが飛んできた時に、確かに感じたのよ、ヴェーラから」
、ですか」

 マリアは静かに応じた。その暗黒の瞳がレベッカを穿うがつ。レベッカはその視線を真っ向から受け止めて、背筋を伸ばして頷いた。

「ASAとセイレネス・システムが深く関わりがあることが正しいとして。もしかしたらASAの人たちの発動トリガーって、私たちの想い……いえ、願いなのかもしれない。だって知っているでしょう、マリア。あの子、ヴェーラの心の中は――」
「ヴェーラ姉様の無意識の願望の表れが、あの……?」

 マリアは眉根を寄せる。レベッカは頷いた。

「あの子の想いが人々を、セイレネス・システムを通じて動かしている。そう考えるとね、私、怖くてたまらない」
「ヴェーラ姉様の破滅願望がASAを動かす……」

 マリアは顎に手をやって考える。ありえなくはない――。が何かを仕組んだのか、あるいは、が何かを目論んでいるのか。

「彼らはヴェーラ姉様の操り人形だとでも?」
「操ってる本人はそうと知らないんだけど、あるいは」

 マリアはハッとする。レベッカの内と外に、ヴェーラの意識を見たからだ。セイレネスの増幅器アンプリファイアを通さなくてもはっきりと視認できるほど、ヴェーラのセイレネスは活性化していた。レベッカもそれには気付いていて、その感触の一つ一つを確かめるように感じている。

「ヴェーラは孤独なのよ」
「レベッカ姉様だっていらっしゃるではないですか」
「そうじゃないの」

 レベッカはメガネを外してデスクに置いた。

「そうだけど、そうじゃない。あの子もわかっている。わかっているけど、自分ではどうしようもないのよ」
「でも、だったら私たちは何をすれば」
「わからない」

 レベッカはマリアの手を取る。マリアは腰をかがめ、レベッカを真っ直ぐに見つめた。

「まさか、セルフィッシュ・スタンドが?」
「あなたも知っての通り、あれはあの子の孤独の歌。ものすごく人々に受け入れられたけれど」
「ヴェーラ姉様の心の闇にまで思い至る人が――」
「ええ」

 レベッカは沈鬱にうなずいた。しかしマリアは首を振る。

「それは人々に求められる領域ではないと思います、私は。だって、ヴェーラ姉様とアーシュオンの飛行士の間に何があってどんな感情が芽生えたかなんて、誰も知らない……」
「それでも、よ」

 そういうものなの。レベッカは子どもにさとすように言った。

「それでも伝わってほしいって、あの子は本当に思っているの。笑いながら手を振るよりも、みっともないほど泣きわめきたい。この言葉を生み出したときのヴェーラの思いや痛み、後悔、無力さへの嘆き」
「そんなこと」

 マリアはレベッカの右手を両手で包む。

「当事者以外には」
「それでもなのよ」
 
 レベッカはヴェーラの気配を感じながら、その想いを代弁し続ける。

「結局、私たちは孤独なのよ、マリア。誰かのために戦ったって、感謝なんてされない。誰かのために傷付こうが、誰も癒やしてなんてくれない。実態がどうであれ、私たち張本人はそう感じざるを得ないし、そう感じたくなくても結局そう思ってしまう。だから私たちは私たちの間で、結局は傷を舐めあって誤魔化していくしかない」
「待ってください、姉様。カティは? カティ・メラルティンという存在は――」
「カティはね、私たちなんかよりもずーっと大きな悲しみの中に生きているの」

 レベッカは大きく息を吐いて、背もたれに体重を預けきった。マリアはレベッカの白い喉をじっと見つめている。

「カティがいてくれなければ、私もヴェーラもとっくに壊れていたと思う。私たちよりも壮絶な境遇の人がいるって、カティはその存在で教えてくれた。でもね、マリア。不幸や苦悩は相対論じゃないの。誰かよりマシだから。誰かのほうが辛いから。そんな理由を踏み台にできるほど、人間の心は都合よくできていないの」
「でも、レベッカ姉様。でも、私たちは……そんな中でも生きなければ」
「ならない?」

 レベッカが言葉を奪う。普段は眼鏡に覆われている視線が、ダイレクトにマリアに突き刺さる。

「生きなければならない――その言葉は誰のためのもの? 私たちは私たちの生き様まで、誰かのためを思って作り出さなければならないの? 顔も知らない。名前も知らない。当然その人生も価値観も知らない。そんな人たちのために。その人たちだって、私たちのことをうわべしか知らない。そこから生み出された幻想に逸脱すれば糾弾し、認めない。でしょう? 私たちは弱音を吐かずに生きていかなければならない――したり顔でそんなことを言うそんな人たちのために、私たちは歯を食いしばって血を吐いて生きていく。それが当然なの?」
「姉様……」
 
 マリアの顔が曇る。

「私が悲しい、では、だめですか?」
「マリアが?」
「私はレベッカ姉様のことを愛しています。ヴェーラ姉様のことも、愛しています。私には私の役目ロールがある。それは時として姉様方を傷つけるものになってしまうこともあります。申し訳ありません。でも、私は、その度に苦しんでいます。姉様方にはいつでも幸せでいて欲しい。いつでも笑っていてもらいたい。もっともっと私に優しくして欲しい。私を愛して欲しい。そう思っています。だから、姉様方が傷付いたら。姉様方が泣いていたら。少なくとも私はとても悲しいです。まして姉様方が今の姉様方でいられなくなるなんて、私、私は……」

 マリアの目尻から涙がこぼれる。

「私は、悲しみたくありません。私は、傷付きたくありません。姉様方が傷付くことで、私は泣きたくありません。姉様が失われるようなことがあってもなりません。私のために。だから、姉様方は生きなければならないのです」
「勝手、ね、マリア」

 レベッカは立ち上がると、マリアの隣に立って、その腰に手を回す。

「勝手ですとも」

 マリアはレベッカによりかかるようにして身を預ける。

「姉様が生きることを苦痛に思うのも勝手です。生きることに疑問を持つことも勝手です。多くの人々を嘆くのも勝手です。ですから、私も勝手に姉様方を想います。私は姉様方を愛しています。何度でも言います。愛しています。ですが、私のこの想いを裏切れるほど、消えてしまいたい、あるいは、消してしまいたい。そう思われてしまうのであれば、私にはもう止められません」
「マリア……」
「不幸や苦悩が相対論ではないように、愛することもまた相対的なものではありません。私はヴェーラ姉様もレベッカ姉様も愛しています。そしてこの想いは、愛は、なにものとも比較されて良いものでは、ありません」

 マリアはレベッカの胸に顔をうずめながらそう言った。その拳はレベッカの肩を叩いている。レベッカはマリアの華奢な身体を抱きしめて、その黒髪を撫でた。

「レベッカ姉様。私は姉様方の苦悩を理解しきれているとは思っていません。ですが、それと同様に、私がどれほど姉様方を愛しているのか、姉様方には理解できていないと思っています。ですから信じてください。私を」

 マリアの暗黒の瞳が極至近距離でレベッカを捕える。レベッカは視線を動かせなくなる。

「マリア、ありがとう。でも、その言葉を必要としているのは私じゃなくて」
「いええ、レベッカ姉様も、です」
「それは――」
「受け止めてください、どうか」

 マリアはレベッカを見つめる。

 至近距離で見つめ合う二人は、やがて同時に微笑んだ。

「あなたは……無条件に優しいのね、マリア」
「私自身、わからなくなります」
「わからなく?」
「私のこの感情も、想いも、全て論理で創られたものなのではないか。私は計画に従って粛々と物事を進めるために、姉様方に自分自身をも騙して取り入っているのではないか……。そんなことを考えて恐ろしくなります」

 マリアはおこりのように溜まった想いを吐き出す。レベッカは再びマリアを抱きしめる。

「すみません、姉様」
「あなたの優しさは本物よ。たとえあなた自身が疑問に思っていたとしても、私たちは本物だと受け止める。それでいいんじゃない? あなたの論理は冷たいものじゃないわ」
「姉様……」

 私は……にすぎないんですよ?

 マリアはレベッカに見せないように、前髪の奥で落涙した。

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