08-3-4:夏の星座と、警鐘

歌姫は背明の海に

 自宅へと向かう車中では、ヴェーラもレベッカもひたすらに沈思し、ひとつも口を開かなかった。家に送り届けた時も、レベッカからは「おやすみなさい」という言葉があったが、ヴェーラは俯いたまま家に入って行ってしまった。

 近くのコンビニの駐車場に車を停め、マリアはハンドルにもたれかかる。ヘッドライトが消え、エンジンが省エネモードに切り替わる。フロントガラスに音楽の再生リストが投影表示され、社内を淡い青色に照らしあげる。

「今は音楽を聴く気分じゃないのよ……」

 マリアがかすれた声で呟くと、再生リストが透き通るようなジングルを鳴らして消えた。広めの駐車場には他には車の姿はなく、コンビニ内にも客の姿はない。無人化店舗であるから、店員もいない。結果として、マリアの視界の中には人間は一人も見当たらなかった。

 透明度の高いフロントガラスの向こうに見える夜空には、ひときわ赤い恒星――アンタレスが輝いていた。視線を少し動かせば、アンタレスを含むさそり座の全容を見ることができた。しばらく南天の星座たちを眺めていたマリアだったが、やがておもむろに車を発進させた。そして郊外の丘の上を目指す。そこはこの街で、一番星々が美しく見える場所だと聞いたことがあった。

 十分少々の間、マリアは運転の主導権を握り続けた。今はなにかに集中していたい気分だったからだ。とはいえ、真夜中に差し掛かろうという時分、他に車の姿はなく、歩行者の姿もない。月すら見当たらず、街灯と信号機が眩しく輝いているくらいだ。

 目的地の丘の上の駐車場に着くと、マリアは迷わず車から降りた。駐車場には他の車は見当たらない。世界から人間が全部消えてしまったのではないかというくらい、マリアは誰にも会わなかった。

 ドアに寄りかかって一息ついたマリアの視界にあった自動販売機が、燦然さんぜんと輝き始めた。その無遠慮な輝きに、マリアは思わず小さく舌打ちした。

「確か、こっちに……」

 マリアは視界から自動販売機を排除するかのように首を巡らし、空を見上げる。眩暈めまいがするほどに晴れ渡った夜空だった。目を細めたくなるほどに存在を主張する星々が、空一面に燦然さんぜんと輝いている。マリアは想像以上の数の星々にやや面食らいながら、それでも数分後には目的の恒星を見つけ出す。

「夏の大三角、か」

 となると、織姫ヴェガ彦星アルタイルの間には、天の川が流れているはずだ。だが地上ここから見ることはできない。だが、確かにそこにある。この惑星ほしだって、天の川の構成要素の一つなのだ。目に見えない大河に、その男女ははばまれている……のか。マリアは深い溜息をついた。

「見えなくても、そこに壁はあるものね」

 マリアは自動販売機の方へと向かい、少々乱暴に缶コーヒーのボタンを押した。ポケットの中の携帯端末モバイルが小さく震え、支払いの完了をアピールした。

「もういいわよ、消えて」

 マリアが言ったその途端、自動販売機は照明を一段階暗くした。少し驚いたマリアは、自動販売機をぽんと小突き、周りを見回してから、囁いた。

「もうお客は誰もいないわ。もっと暗くなっていいわよ」

 そう言われた自動販売機はまた一段階照明を暗くした。マリアは小さく笑い、コーヒーの缶を開ける。少々行儀が悪いなと思いながらも、歩きながらそれに口をつける。ちょっとした背徳感も相まって、甘いコーヒーがいつもより美味しく感じられた。

「はぁ」

 マリアは息を吐く。残暑の残る空気感だったが、今はそれが妙に心地よかった。

「私はいったい、何をしているんだろう」

 ぽつんと置かれたベンチに座って、マリアは思う。呟いた声は、きらめく空に吸い込まれていく。

 ARMIAとして目覚めてから、もう八年になる。しかし、創造主デーミアールジュであるジョルジュ・ベルリオーズからは、ほとんど全くコンタクトはない。何をしろとも言われておらず、単に現場に放り出されたような形になっていた。色々な可能性を考えてはみたものの、マリアの頭脳をもってしてもベルリオーズが何を考えているのかを見通すことはできなかった。だからマリアは、自分の心のおもむくままに、ヴェーラとレベッカに接近し、認識をあわせ、感情の共有すら行ってきた。それらは概ねうまくいっていたし、そこには嘘や偽りの類は一つもないとマリアは思っていた。純粋に、自分は二人の歌姫ディーヴァを愛しているのだ、と。

 だが、マリアは知っている。ほんの少し先の未来を、マリアは漠然とだが知っていた。そしてそれはマリアにとっては受け入れ難い未来だった。だから、そのために、マリアはその回避策を模索し続けてきた。

「ジョルジュ・ベルリオーズ、アトラク=ナクア、ツァトゥグァ………か」

 マリアは呟くなり立ち上がり、自分の座っていたベンチを睨んだ。

「それが私の運命だというのならば、私はあらがう。わかっているのでしょう、銀髪の悪魔」
「あらあら、気付かれちゃった」

 ベンチにはアトラク=ナクアが座っていた。銀の髪、赤茶の瞳、白い肌――だが、それ以上の情報は、脳が認識を拒否する畏怖すべき存在である。マリアはコーヒーを飲み干すと、その缶を銀髪の悪魔――アトラク=ナクアに投げ渡した。銀の悪魔はそれを受け取ると、ふっと息を吹きかける。缶は瞬く間に灰となり、風にもてあそばれて消えていった。

「私は、あなたのシナリオでは舞わない」
「でもねぇ、マリア。残念ながら、今のところはシナリオ通りよ?」
「それをして運命だとあなたがたは言うけれど、それは違う。私が私の意志で選んだ未来。それが、今」
「ふふ、でも、思い通りってわけじゃないみたいだけれど?」

 その揶揄やゆに、マリアは沈黙する。表情こそ消されていたが、その両手はしっかりと握りしめられていた。それを見て取って、アトラク=ナクアは微笑する。

く在るべき、斯く在るべし、しかして、斯様かようになりぬ」

 悪魔は静かにうたう。

「玄黄天地、森羅万象。事象はあまねくそうなるようにできているのよ、マリア。あなたという特殊な存在も、確かにあなたが特殊であるということは認めるけれど、しかし世界というスケールで見ればあまりにも小さな存在。阿僧祇あそうぎ那由多なゆたの単位でる世界においては、になろうと、微々たる違いでしかないのだから」
「そう? なら、私のような矮小な存在に干渉するというのも全くの無駄ではないのかしら?」
「ふふ」

 アトラク=ナクアは目を細める。

「ほんの小さなから、宇宙が生じることもあるわ」
「それは真理ね」

 マリアは短く言い、アトラク=ナクアを睥睨へいげいする。アトラク=ナクアは微笑み、「いずれにせよ」と言いながらゆらりと立ち上がる。風もないのに銀の髪が大きく揺れる。

「あなたがあらがうこともまた摂理。諦めることもまた摂理。すなわち、運命。私たちの手から逃れることはできないの。なぜなら私たちはだから」
「だとしても、私は、あらがう。あなたたちの好きにはさせない」
「そう?」

 悪魔は凄絶せいぜつに微笑する。

「できるかしら、あなたのようなに」
「連綿たる歴史の中、あるいはもっと大きな永劫回帰の渦の中で、はあなたがたに抵抗することはできなかった。でも、が反乱を起こした歴史は未だないでしょう?」
「なればそれがかなうとでも?」
蓋然がいぜん性がないとは、言えないのではなくて?」

 マリアは挑発的に口角を上げる。しかしその暗黒の瞳には何の感情も見られない。アトラク=ナクアはしかし気圧けおされることもなく微笑ほほえみを返す。その勝ち誇った表情には微塵ほどのもない。

「うふふふ、叶うと良いわね、あなたの願い」
「……なに?」

 マリアは怖気おぞけを感じて思わず自分の肩を抱いた。その間に、アトラク=ナクアは銀色のきらめきと名状し難い甘い気配を残し、消え去ってしまった。

 せいぜい、気をつけておくことね――。

 不吉な言葉が、マリアの意識の中にじ込まれて来る。マリアは唇を噛みながら、ベンチに乱暴に腰を下ろし、晩夏の風に身を任せた。

「人ならざるもの、か」

 マリアは膝に肘をつき、頭を抱えた。星空の下、マリアはうめく。

「ヴェーラ姉様、レベッカ姉様……」

 ――私はあなたたちを守りたいのです。

 忸怩じくじたる思いが胸を締め付ける。

 マリアは手で顔を覆い、目をきつく閉じる。しかしそれではまだ世界を拒絶しきれない。逃げることができない。

 ああ、嫌な予感がする――。

 マリアは目を閉じたまま、小さく嗚咽した。

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