10-1-1:年の瀬、その報せは。

歌姫は背明の海に

 二〇九五年も間もなく終わろうかという頃、レベッカはまだ慣れてもいない新居の窓から、雪がしんしんと降る様子を眺めている。通りも庭もすっかり雪に覆われていた。雪は窓や街灯の明かりを受け、青白く世界を照らしている。通りに人の姿は見えず、行き交う車もまた、まばらだった。今夜は大雪になるらしく、そんな日に好きで出歩こうという人間はほとんどいない。

 レベッカにしても今は数日の休暇中だった。アーシュオンの動きさえなければ、このまま平穏に年末年始を過ごせる予定だった。しかしレベッカにはその休暇は重たい。何もすることがないし、何をする気力もなかったからだ。

「ハッピー・ニュー・イヤー……そう浮かれる人々を笑えないわね」

 レベッカは窓から離れ、ソファに腰を下ろした。はす向かいのソファには、マリアが座っていて、ジンジャーエールを口にしていた。

「あら、ワインがあったと思うけど」
「今日はなんか、飲む気になれなくて……」

 マリアは溜息をついて、自身の携帯端末モバイルに視線を戻す。

「こんな状況なのに、多くの人が画一的に年末年始を満喫しているのかと思うと、なんだかやるせないですね、姉様」
「平和な世界なら、大いに結構なのよね」

 平和な世界なら――レベッカは小さく唇を噛んだ。

「うんざりだわ」
「ええ」

 マリアは頷いてレベッカの隣に移動する。

「あなたは私のことが大好きなのね」
「はい」

 マリアはレベッカの肩に頭を乗せて、躊躇することなく肯定する。

「姉様がヴェーラ姉様を愛しているのはもちろん存じています。でも、それが私が姉様を愛してはならないことにはならないと思っています」
「……応えてもらえなくても?」
「応えてもらうために愛しているわけじゃありません」

 マリアは囁く。レベッカはマリアの頭に手を触れて、その黒髪を少しだけでた。

「あなたのことは好きよ、マリア。でも」
「わかっていますから」

 マリアは念を押すように、少し強い口調でレベッカの言葉をさえぎる。レベッカはしばらく沈黙した末に、またマリアの髪を撫で、その肩を抱いた。

「姉様、溜息が増えましたね」
「そりゃ増えるわよ」
「昨日の記事のことですか?」

 マリアが言うと、レベッカは首を振る。

「冷酷な指揮官、レベッカ・アーメリング。過日の大損害は、艦隊司令官が新人を見捨てた結果だった――だったかしら?」
「全く正確ですね」
「思いなんて、伝わらないものね」

 レベッカの嘆息に、マリアは二度頷いた。そしてソファに座り直した。テーブルの上の空のグラスにジンジャーエールを注ぎ、レベッカに手渡す。

「誰も彼もが他人事ひとごと歌姫セイレーンの庇護の下であるからこそ、クリスマスだのハッピー・ニュー・イヤーだのを祝えるというのに、それさえ忘れて。ともすればISMTインスマウスのような兵器で焼かれるかもしれないのに、それさえ他人事ひとごと。この戦争に対する当事者意識を持つこともない。ヤーグベルテは広すぎるのよ」
「責任をすべて軍……いえ、軍すら、姉様個人に押し付けてますし。危機意識が足りないんですよ」
「そうね」

 レベッカはジンジャーエールを口にしながら頷く。

「あの八都市空襲のみならず、頻発する島嶼占領、沿岸部への攻撃……これだけされておきながら、人々は未だに自分事として捉えていないわ」
「でも、それがこの民主国家の世論なのですよね。結局、安全地帯にいる人間が好きなことをわめく。安全地帯のほうが多数を占めるわけですから、当事者ではない人間の声のほうが大きくなり、民主国家に於いてはそれが大衆の意見となり、同時に政治に於ける正義となる」
「救いようがないわ」

 レベッカはまた溜息をついた。

「それに民間人だけじゃないでしょ、当事者意識がないのは」
「査問会――申し訳有りません。私の力が及ばず」
「いいのよ、それは」

 レベッカはマリアの顔に視線を固定する。

「あのお歴々に聞く耳を持つ人はいないわ。わざわざクロフォード提督が不在の時を狙って査問会を開くのだから、底が知れるわ」

 レベッカらしからぬ毒舌に、マリアは思わず目を細めた。

「クロフォード提督が唯一の良心ですか」
「そう言ってもいいわ。もっとも、クロフォード提督が善人だとは到底思えないけれど、ね」
「善人ではない、ですか?」
「そうよ。私利私欲のない人間ともいえるんでしょうけど、それだけに裏表ははっきりとあるわ」
「なにかの目的のためには手段を選ばない、とかですか?」
「そんなところね」

 レベッカはクロフォードの飄々とした表情を思い浮かべ、苦笑する。レベッカはマリアの言葉に込められた自虐的なとげに気付かなかった。

「もっとも、今の私たちにとって、唯一の有力な味方。あ、カティのことを忘れていたわけじゃないわよ?」
「メラルティン大佐は絶対的な味方ですから」
「そう。絶対的な、味方なの」

 レベッカは力を込めて頷いた。

「それにしてもこの戦争状態の継続は、ヤーグベルテとアーシュオンが示し合わせているかのようね。互いの政治家や軍人が、自分の地位や権力を守りたいがために続けているシーソーゲーム。だから延々と終わらない。戦略的な勝者も敗者もない」
「手を引く者がいるのかもしれませんよ」

 マリアの言葉を受け、レベッカは流れるように腕を組んだ。

「ヴァラスキャルヴ陰謀論、か」
「そもそも――」

 マリアは少し早口で言った。

「今や世界のありとあらゆるものがジークフリートに支配されていると言っても良いのです。その生みの親たるヴァラスキャルヴが全てに関与していたところで、驚くには値しません」

 言葉を選びながらマリアは言う。その暗黒の瞳は、レベッカの表情をくまなく観察していた。レベッカはマリアの視線を受け止めつつ、「そうねぇ」と息を吐いた。

「そもそもね、マリア。歌姫計画セイレネス・シーケンスにしても、あのジョルジュ・ベルリオーズが噛んでいるんでしょう? だったらたとえが出てきたとしたって、今さら驚いたりしないわ」
、ですか」

 マリアはレベッカに気取られぬように息を吐いた。

 その時、テーブルの上に放置されていたマリアの携帯端末モバイルが、無機的な電子音を立てて着信を伝えた。マリアは三次元表示をオンにして通話を開始する。

 テーブルの上にハーディの上半身が三次元表示される。

「どうしました、ハーディ中佐」
『グリエール提督が意識を取り戻しました』

 無駄なく端的に情報を伝達するハーディ。その声は極めて平坦だった。

「なんですって!?」

 レベッカとマリアの声が重なった。レベッカは腰を浮かせ、マリアは前のめりになってハーディの映像に近付いた。

『すでにプルースト中尉を向かわせています。至急準備を』
「私の車でも――」
『落ち着く時間が必要でしょう』

 ハーディの隙のない言葉に、マリアは「それもそうか」と納得する。今はレベッカの手を握っていることこそが大事なのだと、マリアは考えた。

「ありがとうございます、中佐。良い判断だと思います」
『恐縮です、大佐』

 ハーディはそう言うと「では」と言い残して通信を終了させた。

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