10-1-3:レネとレベッカ

歌姫は背明の海に

 レベッカは携帯端末モバイルもてあそぶ。マリアは電話をしながら何処いずこかへと去っていく。レベッカとヴェーラの会話の内容を把握したマリアは、何の疑問を差し挟むこともなく、後の処理はすべて任せろとレベッカに伝えていた。

 間もなく午後七時になろうかという頃になって、レベッカは看護師に案内されて病院の裏口から出た。すぐそこにはプルースト中尉の運転する参謀部の車が付けていた。

「ハーディ中佐に追い出されましてね」
「そうですか」 

 レベッカは上の空で答えた。その手は未だ携帯端末モバイルいじくっている。なんとなくそこに表示されている連絡先一覧を眺めて、なんとなくそれをスクロールしていたレベッカは、不意に「あ」と声を上げて指を止めた。そして発信ボタンを押して携帯端末モバイルを膝の上に乗せた。

 程なくして発信先の相手が電話に出る。

『レネですが……』

 いぶかしむような声に、レベッカは苦笑する。まだ相手は音声通話のままだった。

「レベッカ・アーメリングです。顔を見せてもらえるかしら?」
『あ、映像通話……』

 レネはそこに来て、初めて音声通話ではなかったことに気が付いた。数秒と経たずに、レネの上半身がレベッカの携帯端末モバイルの上に現れる。レネは慌てた様子で髪を結んでいた。

「あら、後ろにいるのはマリオン?」
『あ、はい。アルマもいます』

 レネは振り返って手招きをした。すると画面の中に黒髪の少女と、髪がピンク・青・黒に染め分けられた三色頭の少女が姿を見せる。ふたりともコンクリートででも出来ているかのような硬い表情だった。

S級ソリスト揃い踏みね。同室だったものね」
『肯定です』

 レネは緊張の抜けない声で応じた。

『今日はレネだけにお誘いなのだけれど。マリオン、アルマ、ごめんなさいね』

 レベッカの言葉に二人の少女は何やら聞き取れない言葉を残して画面から消えた。緊張で舌がもつれていたのかもしれないとレベッカは思った。

『閣下、それで、その――』
「今から出てくることは可能ですか? もう食事はとってしまったかしら?」
『いえ、今から用意をと』
「ちょうどよかったわ。マリオンとアルマには謝っておいてもらえる? あなたは今から私と食事に」
『し、承知いたしました』

 そもそも断れるはずがないじゃないかと、レベッカはここにきて反省した。ちょっとしたパワハラ行為だとも思って少しだけ反省する。

「急な誘いのおびに美味しいものをごちそうするわ」

 レベッカはそう言って通話を終える。プルーストの運転する車はすぐに士官学校の寮に乗り付け、レネを拾う。レネは休暇中であるにも関わらず、しっかりと士官学校の制服を着用していた。その姿を見て、几帳面な彼女らしいとレベッカは微笑んだ。

「中尉、レストランに」
「了解です」

 レベッカの言葉にプルーストは頷き、何処かへと連絡を入れた。やり取りの意味が分からなかったレネが、隣に座るレベッカを見る。

「あの、とは?」
「色々あった、思い出のレストランなの」

 エディットと出会い、そして別れた場所だ。あの別離わかれから、早くも五年になる。それだけの時間が過ぎたにも関わらず、あの瞬間の記憶は脈絡なく生々しくフラッシュバックする。レネはと言えば、レベッカのその言葉だけで事情を理解し、それ以上の追及はしなかった。

 レストランの扉を開けると、フロアマネージャーが恭しく出迎えた。レベッカは一瞬後ろを振り返り、通りを挟んだ向こう側にジョンソンが立っているのを確認した。レストランのバーカウンターにはタガートがいた。二人はいつでも影のようにヴェーラとレベッカを守っている。

「緊張しなくていいわよ」
「し、しかし」

 レネは唾を飲む。孤児院育ちで決して裕福な生活をしてきたわけではないレネには、このレストランは内装の一つに至るまでが眩しかった。

「意外とリーズナブルなのよ、ここ」

 VIPルームへと導かれながら、レベッカは隣を歩くレネを見た。レネは硬直した表情で前を見ている。

「私たちが一般フロアで食事というのももう難しくて。だからなんか無駄に緊張させてしまったらごめんなさいね」
「い、いえ、だ、大丈夫です」
「ちっとも大丈夫そうじゃないわ」

 レベッカは苦笑して、レネの右手を捕まえる。露骨に強張ったレネに、レベッカはたまらず笑った。

「とって食べたりしないわ。ジンジャーエールで乾杯しましょ」

 部屋に到着するとすぐに、ジンジャーエールが運ばれてきた。注文するまでもなく、マネージャーが気を利かせたのだ。二人ははす向かいの位置に腰をおろした。向かい合わせだと距離が遠い、と、レベッカが主張したからだ。

「お腹が空いているでしょう? 好きなものを注文してちょうだい」
「はい……って、どれも高ッ!」
「心の声が漏れているわよ」
「えっ!? ええっ!?」

 目を白黒させて動揺するレネの顔を見て、レベッカは我慢しきれずに吹き出した。

「あなたについての報告書とはだいぶ印象が違うわね。うん、猫はかぶらなくていいわ。今あなたを査定するつもりなんてないから」
「でも、あ、いえ、しかし、あの」

 赤面してうつむくレネ。レベッカは眼鏡を外してテーブルの上に置いた。精悍とも言えるその引き締まった視線を受けて、レネは頬を紅潮させた。

「一対一では初めましてね、レネ・グリーグ。ああ、そうだ。レニーって呼んでもいい?」
「えっ、あ、はい! 光栄です、提督」
「この席では提督はやめて。閣下も禁止。ベッキーでいいわ」
「べ、ベッキーですか? いや、しかしそれは」
「どうして? 歌手としての私のことはみんなベッキーって呼んでるって聞いているわよ」
「それは、その、いえ、やはり対面では」

 レネはメニュー表を握りしめながらレベッカを見つめている。褐色の瞳がレベッカを真っ直ぐに捉えている。というより、レネの視線をレベッカが捕まえていた。レネは視線を逸らすことが出来ないのだ。レベッカを前にすると多くの女性が同じような状態になる。

「それじゃ、レベッカでいいわ」
「レベ、レベッカ……さん」
要る?」
「呼び捨ては私には」
「ふぅむ、真面目ね。昔の私みたい」

 レベッカはそう言うと、レネからメニュー表を受け取って、適当にいくつか注文した。メニュー表自体が注文端末になっている。初見殺しの注文方法だとレネは思った。

「それじゃ、乾杯」

 レベッカの不意の乾杯の音頭に、レネは慌ててグラスを持ち上げた。

 料理が運ばれてくるまでに間に、レベッカはいくつか他愛のない話題を振り、レネは几帳面にそれに答えた。レネは幼少期から七ヵ国語を操る天才少女として、テレビやネットでもちょっとした有名人だった。また理工系にも非常に強く、セプテントリオ崩壊後に孤児院に引き取られてから受けた学力検査では、十歳にして修士レベルの知識を有していることが証明されていた。

 だが、レベッカが話す限り、レネは自分からそれに言及することはなく、またレベッカに問われても鼻にかけた様子は一切見られなかった。S級ソリストという高いセイレネス適性を有していることについても、レネは特別だとは思っている様子はなかった。周囲との関係を良好に築いていると評価される所以ゆえんは、そのあたりにあるのだろうとレベッカは分析した。

「あなたが未成年でよかったわ」

 何杯目かのジンジャーエールを飲みながら、レベッカはしみじみと言った。

「私、お酒がまるでダメでね。すぐに酔って潰れちゃうの」
「そうなんですか!」

 レネはまた目を丸くする。ほとんど金色とも言える褐色の瞳は、くるくると表情を変える。レベッカは額に手を当てて首を振る。

「ひどいものよ。ヴェーラやカティはザルみたいにお酒に強いのだけど。うらやまましいわ」
「メラルティン中佐は確かにお酒に強そうですが、グリエール提督がお酒を嗜むとは存じ上げませんでした」
「あの子、お酒大好きなのよ」

 微笑みながら、レベッカは明るい色のテーブルフラワーに視線をやった。

「さて」

 レベッカはジンジャーエールを飲もうとしていたレネを見る。

「本題に入ろうかしら?」
「あ、はい」

 レネはグラスを置いてかしこまった。レベッカは眼鏡を掛け直す。

「レニー。あなたはヴェーラ・グリエールについて、どう思っていますか?」

 その問いかけに、レネはテーブルに視線を落とす。五秒ほど沈思した後、レネは視線を上げてレベッカを見た。

「どう思うかという抽象的な問いへの答えとして、適切か否かはわかりかねますが……」
「うん?」
が、衝動ではなくて苦悩の末の選択であったとするのなら、それもまた一つの意志の力だと思います」

 明確な言い切りに、レベッカは興味を引かれる。

「その行為の末に、嘆き悲しむ人がいるのだとしても?」
「セルフィッシュ・スタンドを創られた方が、それを想像することができなかったとは、私には到底思えません」

 レネは「あくまで推測に過ぎませんが」と前置きをして続ける。

「グリエール提督は現在もなお昏睡状態であると聞いております。が、仮に……亡くなっていたとしても、あるいは回復されるにしても、グリエール提督の意志は成し遂げられる。あの方はそれすら計算されていたのではないかと」

 はきはきと言葉を積み上げていくその少女に、レベッカは確かに好感を覚えた。

「では訊くけれど、レニー。ヴェーラの意志というのは何なの?」
「それは……戦場に出たことのない自分が言っても良いのかわかりません」
「言ってください、レニー」

 レベッカはレネの躊躇を一刀両断にする。レネはそれでも数秒間の逡巡しゅんじゅんを挟んだが、やがて意を決したように頷いた。

「グリエール提督は、国民に目を覚ませと。そうおっしゃりたかったのではないかと思うのです。私たちはただの兵器ではない。傷つくことも死ぬこともあると。そう言いたかったのではないかと。同時に、その、皆の知るヴェーラ・グリエールは、仮面の人ペルソナ似すぎないのだと。本当のヴェーラは、こんなヴェーラの姿を望んではいないのだと。そういう――」
「あなたの慧眼には感服しました」

 レベッカは静かな声音こわねで割り込んだ。

「ところでレニー。あなたは今話したような内容を、ルームメイトたちに披露したことはありますか?」
「アルマとマリオンですか? いえ、ありません。他の誰にも」
「オーケー。それでいいわ。この話は私たちの間だけのものとしましょう」

 レベッカの言葉にレネは頷き、「承知いたしました」と応じた。

「皆が皆、あなたほどの洞察力と感受性を有していれば、こんな世界変わってしまうのにね」
「私は――」
「私に対して謙遜は不要よ、レニー。そういうの、好きじゃないの」
「申し訳有りません……」
「あと、難しいかもしれないけど、こういうプライベートな時はそこまで緊張しないでほしいわ。まるで私がいじめてるみたいに思えてしまうわ」

 レベッカはメニュー表を広げてデザートのセクションを眺めて唸る。

「ケーキ食べる余裕ある?」
「まだ大丈夫です」

 レネは正直に答えた。ここのメニューはどれも味は絶品だったが、いささか物足りなさを感じていたところだった。レベッカは目を細めて微笑み、メニュー表からまた注文を追加した。

「さて、と」

 レベッカはテーブルの上で指を組み合わせて、天井を見上げた。レネははす向かいのレベッカを緊張した面持ちで見つめた。

「あなたにもう一つ、重大な秘密を暴露するわ」

 レベッカとレネの視線が合った。

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