レベッカはそれからしばらく口を噤み、じっとレネを見つめた。レネは唾を飲み込んでその視線を受け止め、テーブルの下で落ち着かなく指先を動かした。
「あの、提督?」
レネがいよいよ焦れてきた頃になって、レベッカは小さく息を吐き出した。
「ヴェーラが、目を覚ましたわ。さっきね」
端的な事実の通告に、レネは目を見開く。その反応を見てレベッカは一つ頷いた。そして過程をいくつも飛ばして、結論だけを告げた。
「イザベラ・ネーミアという提督が新たに着任します。私と同じ、D級です」
「D級が新たに……。なるほど」
レネはそれだけで状況を理解した。レベッカの視線を真っ直ぐに受け止め、しかし疑問は口にしなかった。レベッカもレベッカで、レネが何を言わんとしているのかを理解していたが、それに関する追加の説明をする気は今はなかった。
「あなたへの――」
そこでレベッカはジンジャーエールを一口飲んだ。
「あなたへのお願いが一つ、あります」
「はい」
レネは強く頷いた。そして鋭い表情を見せつつ、言う。
「ネーミア提督をお守りすること、ですね?」
「その通り」
レベッカは満足げに肯定する。この子はどれほどの洞察力があるのだろうかと、レベッカは内心舌を巻いていた。
「お願いできるかしら?」
「もちろんです」
レネは努めて落ち着いた声で応じた。その表情にはやや誇らしささえ見えたように、レベッカは思う。
「詳細は後日連絡します。ところでレニー、年始は実家に帰ったりするの?」
「いえ、実家はセプテントリオで……」
「ああ、ごめんなさい!」
レベッカは思わず声を上げ、小さく頭を下げた。レネは「いえいえ」と右手を振る。
「お気になさらないでください。もう過ぎたことですから」
「過ぎたことと言っても、心に刺さった棘は抜けることはないでしょう?」
「それは、そうですね」
レネは少し躊躇してから肯定した。
「であるにも関わらず、あなたはその素振りを見せない。それは強さよ」
「それは外面の話です」
「ええ」
レベッカは気持ち目を細めた。
「人は誰も外と内を持つものですもの。あなたも、私も、ヴェーラも、みんなそう。私から見えているあなたが、本物のあなたであるだなんて思っていないわ」
「D級は人の心を見抜けると聞いていますが」
「それはあなたもでしょう」
レベッカの素早い切り返しにレネは一瞬たじろいだ。
「あなたも他人の感情、あるいは考えを読み取る力を持っているはずです」
「それは、ある程度……錯覚のようなものです」
「錯覚ではないのよ、それは」
レベッカは努めて口角を上げた。美しい形の唇に、レネは一瞬魅入られる。
「それこそが高位の歌姫の能力。もっとも、私やヴェーラですら言葉なしでのコミュニケーションというのはできなかったけど。完全に理解し合うことはできなかった、とも言えるわね」
「そう、なのですか? お二人でも」
「別の人間だもの。同じ経験をしていても感じ方は違う。同じ未来を見ていても選ぶ道は違う。そこに至るまでのロジックを完全に理解しようと思ったら、同じ人間にならなければならないわ」
レベッカはメニュー表を広げながらそう言った。レネはレベッカの内側に強い感情の流れを感じた。端的に言えば怒りだ。
「提督……じゃなかった、レベッカさん。グリエール提督のあの事件のことでご自身を責めていらっしゃいますか」
「ええ。責めてるわ。隠してもしょうがないから言うけど」
「論理じゃないんですね」
「ええ、論理の話じゃないの。責めても仕方ないことは理解してる。おそらく避けられなかった事件だったことも理解している。でも、それでも私の愛する人があんなことをしでかしてしまったことについて、私は自分を責めずにはいられないわ」
レネは頷いた。レベッカは首を振る。年端も行かぬ少女に私は何を言っているのか――そんなことも思ったが、レベッカから見てレネは十分に大人でもあった。それほどまでにレネという少女は理知的で大人びていた。
「枝豆食べる? ブランド物らしいわ」
唐突にメニューを見せられたレネは勢いを殺されてつんのめった。
「え、ええ。いいですね」
「はい、注文っと」
レベッカは慣れた手付きで注文を完了するとメニュー表を閉じた。
「レネ、あなたが良ければだけど。士官学校に来る前ってどんな生活をしていたの?」
「孤児院です」
レネは端的に言った。
「セプテントリオから奇跡的に救出された私は、すぐに孤児院に引き取られました。思い出したくないことばかりです、孤児院の記憶は。天才少女! とか、なんか持て囃されていたようですが、それは孤児院の看板代わり、あるいは隠れ蓑にされたようなものです」
「隠れ蓑?」
「……虐待ですよ」
レネは右手で唇を噛んだ。レベッカは眉根を寄せる。
「それは――」
「もちろん、暴力も性加害もありました。職員からもそうですが、年上の入所者からも。みんな見て見ぬふりでした」
「そんなことが」
「底辺に追いやられた人間たちは、そんなふうに人知れず足蹴にされて、あるいは消費されて生きているんです」
レネの表情は硬い。レベッカはじっとレネを見つめる。
「でも私には歌姫の力が生まれた。どうやって見つけたのか、軍の人が来てくれて、私の身辺調査や施設の調査をしました。施設はそこで厳しく指導されて、結果資格取消になったんじゃなかったかと思います。私が出た後の話なので詳しくはわかりませんが」
「そうなんですね。調査部の仕事ですね。確かに戦災児童収容施設に良い噂はあまり聞きません」
「良いところなんてほとんどないです。マリーやアルマだって、つらかったって」
「ああ、S級のルームメイトですね」
「はい」
レネは頷く。
「でもそれ以上に、私は嬉しかったんですよ、レベッカさん」
「嬉しかった?」
「歌姫の能力を得たことで敵を殺す機会が与えられたことです」
「軍の誘いに乗ったのは復讐が目的ですか?」
「はい」
レネは迷いなく頷いた。
「私の幸せな生活、優しい家族、友達。そういうものを一瞬で根こそぎ奪ったアーシュオン。どん底を経験させてくれたのもアーシュオンです。私には彼らを許すことができません。殺されたみんなのためにも、そして苦しんだ私のためにも」
レネの明褐色の瞳がレベッカを見据える。
「復讐なんてつまらない、とおっしゃいますか?」
「いいえ」
レベッカは首を振る。
「復讐は復讐の連鎖を生むし、どこかで断ち切らなければならない。私はそう思っています。けれど、それをあなたがしなければならないなんて、私には言えません。そんなのは外野の身勝手で無分別で無思慮な意見です」
「ありがとうございます。大人にそう言っていただけたのは初めてです」
レネはようやく微笑した。レベッカも表情をわずかに緩めた。
「正直に言えば、とにかく闇雲にアーシュオンが憎いと思っていたんです。あの『セルフィッシュ・スタンド』を聞くまでは」
「セルフィッシュ・スタンド……」
「あれ、ヴェーラ・グリエール提督とアーシュオンのエースパイロットとの間の歌ですよね」
「それは――」
「あの頃のニュースと歌詞で、私はすぐに気が付きましたよ」
レベッカの声に重ねるようにして、レネは強い口調で言った。
「あの歌は恋の歌で、別れの歌です。底知れぬ無念を秘めた歌です」
「S級というのはまったく伊達ではないわね」
「もう何百回も聴きました。コーラスまで完璧です」
「す、すごいわね」
レベッカは両手を上げた。ここに至ってようやく、二人は本当に打ち解けた。
「あの歌はね、ヴェーラとマリアの合作なのよ。クレジットにはマリアの意志を反映してヴェーラの名前しかないけど」
「マリア……というのは参謀部のカワセ大佐のことですか?」
「そ。私が寝てる間にできていたの。でもあの夜のことは思い出したくもないわ」
レベッカは演技じみた動作で両肩を抱いた。レネは枝豆を口に運びながら笑う。レベッカに初めて見せる十代の年齢相応の笑顔だった。
「というか、思い出せる記憶がないんだけどね」
「酔っていらっしゃった?」
「そうなの。コップ一杯も飲まなかったと思うんだけど。起きたら半裸でね……」
「は、半裸……!?」
「酔うと脱いじゃうのよ、何故か」
「それは、まずいですね」
「まずいのよ……」
レベッカは眼鏡を外して、眉間に右手をやった。
「ああ、私の酔っぱらい話はこの辺にしましょ。つまらないもの」
「あのレベッカさんの意外な一面を聞けて、私はとても楽しいです」
「脱ごうか?」
「酔っ払ってからにしてもらえますか?」
「酔おうか?」
「やめておきましょう」
レネは笑いながら両手を振った。レベッカも声を上げて笑い、レネの肩を軽く叩いた。
「頼りになるわ。ありがとう、レネ。ここに来てくれて」
「私のためにやってきたら、たまたまお役に立てただけの話ですよ」
「今度マリアも交えてプライベートでお話ししましょ。軍人として、というより、人としてとてもあなたに興味を持ちました」
「カ、カワセ大佐とプライベートで、ですか?」
「怖い?」
「す、少し……」
レネは首を竦めてみせる。
「彼女は鬼教官?」
「課題がとにかく多くて」
「あははは! マリアらしいわ。あの子、自分が完璧だから他人にもそれを求めるのよね」
「め、迷惑です……」
「伝えとくわ」
「それはやめてくださいっ」
「じゃぁ、甘受する?」
「その選択が現状の最適解かと思います……」
そうね、とレベッカは同意して、最後にレネの分と合わせてデザートセットを注文した。
「お腹いっぱいだった?」
「別腹です」
レネはそう言って笑った。
この子になら。
レベッカは目を細めて、微笑んだ。レネはやや緊張した顔でその微笑みを受け取った。
この子になら、ヴェーラを任せても良い。間違いないわ――。
レベッカはそうして、安堵の息を吐いたのだった。