ヤーグベルテのV級歌姫を仕留めてから半年後、二〇九六年十月――。
シルビアは硬いデスクチェアに深々と身体を沈め、指を組み替えてはため息を繰り返していた。つけっぱなしになっている空中投影ディスプレイには、新型のナイアーラトテップ、通称I型の立体図が表示されていた。
外観的にはクラゲであるが、その動きはどちらかと言うとタコのようだった。そのためE型、M型に比べ、圧倒的に機動力が高い。速度自体も異常とも言えるものがあり、それを目にしたシルビアたちも揃って度肝を抜かれたほどだ。だが、その機動性は、格闘戦のためのものではなかった。
「水中型ISMT……か。I型のダブルミーニングだな」
シルビアが呟くと、デスクの前にある応接セットの方からけだるげな声が上がった。
「特攻兵器」
それはフォアサイトのものだ。フォアサイトの向かい側のソファにはクリスティアンが足を組んで座っており、コーヒーを飲んでいる。二人は全くやる気のない姿勢と表情で、伝統的なボードゲームに興じていた。クリスティアンがビショップの駒を手にしながら言う。
「うちはそこまで追い詰められているのかねぇ。なぁ、シルビアさんよ。この前の人間ミサイルといい、そのタコ助といい、さ」
「でもさー」
フォアサイトがクイーンを動かす。
「ろくに訓練を受けさせていないのに、有力な歌姫を乗せた重巡を仕留めたわけだし? 交換レートとしちゃ十分にアリだとは思うよ」
「そうじゃねぇよ、フォアサイト」
それから二人は無言で三手ずつ戦局を進めた。クリスティアンが次の手を考えながら言う。
「素質者、だっけ? アーシュオン版歌姫ってやつ。ともかく、そこらの一般人を拾ってきたってわけじゃねぇだろ? 限りある才能ってやつだ。そんなのを使い捨てにし始めたら、そりゃもう亡国の色が見えてきたっていうことだぜ? 歴史が証明してらぁ」
「ロマンチストだね、クリスは」
「ばーか、リアリストなんだよ」
クリスティアンたちは更に二手進める。
「チェックメイトだ、フォアサイト」
「ちぇー」
フォアサイトは心底つまらなさそうな反応を見せた。
クリスティアンはコーヒーを一口飲んで大きく息を吐いた。
「特攻兵器なんて、俺は認めねぇぞ。百何十年前のヤーグベルテのお家芸じゃねぇか、自殺攻撃なんてなぁ。その結果どうなった」
「さぁねぇ?」
フォアサイトは肩を竦める。
「憲法を失い、教育方針を失い、軍隊を失った。それだけじゃない?」
「それをな、国を失うって言うんだよ、フォアサイト」
コーヒーを飲み干し、ソファに座ったまま伸びをするクリスティアン。フォアサイトは頬杖をつきながら欠伸する。二人の様子を黙って見ていたシルビアだったが、やがてちらりと壁の時計に視線を走らせ、すっかり冷めたコーヒーを飲み干した。
「その議論はいずれどこかでするとして。クリスもフォアサイトも、情報部経由で何か聞いていないのか?」
「俺たちの出撃保留について、か? 何もねぇなぁ」
「おなじく」
二人は即答し、チェスのセットを片付け始めた。フォアサイトは手を動かしながら「それどころかさ」と続ける。
「艦隊戦力ももう何ヶ月も動いてないよね。イザベラ・ネーミアだっけ。そいつの戦い方に恐れをなしたんだと思うよ、司令部は」
「俺もその見方に賛成。せっかくヴェーラ・グリエールが退場してくれたってのに、その後釜に座ったのがイザベラ。冷血な合理主義者ときた。ヤツの登場でヤーグベルテの歌姫艦隊どもが一気に練度を上げちまった感があるよな」
「だな」
シルビアは短く同意する。
「イザベラの登場のおかげで、これまでの戦略的飽和攻撃は通用しなくなった。レベッカは健在で、イザベラはヴェーラを凌駕する力を持っている。そのうえ、二人のD級歌姫の戦略も例の第六課主導で劇的に変わってしまった。更に悪いことに、せっかく明けたV級の穴が、もう塞がってしまった」
シルビアは椅子をくるりと回して窓の外を見た。数百メートル向こうに真上からの陽光に照らされたシルビアの純白の愛機が見える。その向こうには見慣れない青紫色の戦闘機が駐機されていた。
「一年後にはS級なるクラスの歌姫が加わるらしい。V級も予定通りなら二人追加される」
「マジかよ」
クリスティアンとフォアサイトのげんなりとした声が重なる。
「暗殺計画とかは?」
「無論動いている。が、歌姫の暗殺は現実的ではない。成功見込みがなさすぎる、というのが上層部の統一見解だ」
「戦場のことは戦場でどうにかしろ、か。日和見主義の将軍様たちらしい話だ」
クリスティアンが歯に衣着せぬ物言いをする。フォアサイトが髪を掻き上げながら他人事のように言う。
「これでD級が出てきたりしたら目も当てらんないね」
「だな」
クリスティアンとシルビアが無駄なく同意した。
「ところでさぁ、シルビア」
「なんだ、フォアサイト」
「あんたの心の問題は、解決したの?」
フォアサイトのストレートな問いかけに、シルビアは一瞬言葉に詰まった。
「したとは、言えない」
絞り出すようなその回答に、フォアサイトは声を上げて笑った。
「正直者は生き残れないよ、この国じゃ」
『ヴァリーはスパイなんかじゃなかったし、銃殺されるほどのことなどしていなかったと私は信じてる」
「でもさぁ、シルビア。ヴァリーがオルペウスの研究レベルを一段階引き上げたのは間違いないみたいだけど?」
「それは、そうかもしれないが……」
シルビアの顔が曇る。フォアサイトは「よいしょ」と立ち上がる。
「死んだ男を諦めるってのは多分とっても難しいとは思うんだけどさ。それに引きづられて奈落にまっさかさま……なんてなったら、さすがのヴァリーだって浮かばれないんじゃないのかねぇ?」
フォアサイトの言葉を背中に受けながら、シルビアは目を閉じる。そこには反論の余地はなかった。ただ耐えてやり過ごすくらいしか、できない。
「あたしからの忠告だよ、シルビア。今はね、あの空の女帝。あいつをぶっ殺すことだけを考えるんだ」
「んだんだ」
クリスティアンが二杯目のコーヒーを準備しながら頷いた。
「次こそなんとかできねーと、俺たちの沽券に関わる」
「そうだが――」
シルビアは唇を噛む。
シルビアは知っている。空の女帝が恐るべき相手だと。そしてシルビアは空の女帝を恐れていた。恐れさせられていた。ヴァルターは彼女と互角に戦えた。しかしシルビアたちは三人合わせても、空の女帝に及ばない――間違いなく。
「あ、連戦連敗中の俺らが言うのもアレだけどさ、大丈夫だ。何事にも突破口はきっとある」
シルビアの苦悩を吹き払うように軽く、クリスティアンが言った。
その時、ドアに備え付けられている入室認証装置が、ピピッという神経に触る電子音を発生させた。シルビアは慌てて立ち上がり、デスクの前に出た。フォアサイトとクリスティアンはのんびりと首を巡らせる。
ドアが開いたそこには、軍帽を目深にかぶった将校――ヒトエ・ミツザキ大佐が悠然と腕を組んで立っていた。