16-1-1:二度目がないと思っている?

歌姫は背明の海に

 あの戦いで受けた被害は甚大――その一言に尽きた。クロフォードが育て上げた虎の子の第七艦隊は事実上潰滅させられ、バーザック提督以下第八艦隊は文字通り全滅した。その結果、ヤーグベルテ海軍は第一、第二艦隊を除いては完全に機能不全に陥ってしまった。現在、クロフォードを中心として第七艦隊の再建に向けた動きはあるものの、結局は生き残りの寄せ集め集団だ。プロセスは遅々として進んでいなかった。

 そんな折、二〇九七年十月のある日のことである。

「アーシュオンもおとなしいからまだ良いけどさ」

 ワインを飲みながら、イザベラが言った。場所はレベッカ邸の広々としたリビングである。イザベラは相変わらず仮面サレットをすっぽりと被っているため、口元以外の表情を見ることはできない。いつもはそのまま流してある長い栗色の髪は、珍しくも頭頂部でまとめられていた。

「でもさぁ」

 イザベラはレベッカのグラスにブドウジュースを注ぎながら億劫そうに言う。

「何だかんだ言って、アダムスの野郎の思い通りになったというのが許せないな」
「それは、そうね」

 レベッカは屋外の物音に気がついて立ち上がる。その直後、インターフォンが鳴った。マリアが到着したのだ。珍しくも約束の時間から三分ばかり遅刻していた。

 玄関ドアを解錠すると、すぐにマリアが入ってきた。秋物のロングコートを脱ぎながら、「すみません」と小さく頭を下げる。

「忙しいのはわかってるから」
「今飲み始めたところだよ」

 二人はそれぞれに言う。マリアはコートを掛けると、レベッカに促されるまま、二人掛けのソファ、レベッカの隣に腰をおろした。

「……もうすでに一本空いているように見えますけど」
「あはは」

 イザベラは笑いながら、マリアのグラスにワインを注ぐ。マリアは「いただきます」と早速それに口をつけた。喉が乾いていたのだ。

「しっかし、二人は本当にいつも密着してるよねぇ」
「お姉様を愛していますから」

 しれっとした顔でマリアは言う。無論、イザベラは二人がもうすでにであることを悟っている。しかしレベッカは隠しているつもりだったので、頬を赤くして両手を振る。

「ちょっとマリア、誤解を招くような――」
「誤解、ですか?」

 マリアの意地悪な問いかけに、レベッカは口をパクパクさせる。

「まぁまぁ」

 イザベラは笑いながらまたワインを喉に流し込む。

「今度はわたしも混ぜてくれよ」
「まぁ!」

 マリアの目があからさまに輝いた。レベッカは一心不乱にブドウジュースを胃の中に送り込んでいた。

「なんてね。二人の恋路の邪魔はしないよ」

 イザベラは鼻歌でも歌いそうなほどに上機嫌に言った。そして「ああ、そうだそうだ」と手を打った。

「今日、最終検査だったんだよね」
「ええ。明日、配属ですからね」

 マリアは携帯端末モバイルを取り出して、空中投影ディスプレイを展開する。

「三名とも想定通りでした。レネ・グリーグはS級ソリストで最終確定。全てに於いて優秀ですね。訓練でも実戦支援でも、というのはすでに姉様方もご存知の通りですが」
「うん」

 イザベラは頷く。

V級ヴォーカリストのロラ・ロレンソ、パトリシア・ルクレルク。二人は幼馴染という間柄なのですが、それゆえに連携が非常に良く取れていますし、メンタルも極めて安定しています。セイレネスの出力のゆらぎ幅が極端に少ないというのが特徴ですね。能力的にはエディタよりは劣りますが、ハンナよりは上となる可能性が、ジークフリートによって示されています」
「なるほどね」

 ジークフリート、か。イザベラはグラスを空にして、またワインを注ごうとした。が、マリアにボトルを奪われる。マリアは微笑みながらイザベラのグラスに赤い液体をいだ。

「ただ、その、レネ専用戦艦となるはずのヒュペルノルがいまだ完成しておりません。したがって、しばらくはレネ・グリーグに関しては、パトリシアの重巡ポルックスを共同運用するという方針です」
「え? とすると、パトリシアが戦えないじゃないか」
「そうですね。しかし、予算不足が続いていて、なかなか」

 マリアは疲労を滲ませた声でそう言って、グラスのワインを一息で空にした。マリアらしからぬ行動に、レベッカは思わず目を丸くする。

「戦艦不足は痛いですが、これでD級ディーヴァが二名、S級ソリスト一名、V級ヴォーカリスト六名。戦力としてはだいぶ分厚くなったかと」
「そう、だねぇ」

 イザベラは腕を組んで、テーブルの上に並べられたクラッカーの隊列を眺めた。

「まぁ、これでようやく機動的な戦術展開も可能になった、のかな」
「まだよ、イズー。レニーだって実戦経験はないのだから」
「とは言ったってさ、エディタだってもう立派な指揮官だよ。十回以上も艦隊指揮をっているんだ。やっぱりあの子は指揮官向きだったんだ」
「そうだけど、でも、他の子は」
「過保護だよ、ベッキー」

 イザベラは手をひらひらさせながら言い放つ。二人の視線が険しく交錯する。イザベラはその中でも悠々と長い足を組み、右手の人差し指を立てた。

「次の作戦では、最初からエディタを先頭に立てる。エディタにレニーを使ってもらう」
「また、そんな勝手なこと!」
「いい考えだろう、マリア」

 イザベラはマリアを伺った。マリアは険しい表情で携帯端末モバイルに送り込まれてくるメッセージを読んでいた。オフタイムとはいえ、マリアには処理すべき事案が山程あった。

 こりゃまったく聞いてないな――イザベラは少し笑い、それからレベッカを見た。

「確かにさ、レニーは事実上初陣だ。だからリスクは大きい。戦艦でもないしね。だけど、S級ソリストは強力な戦力ユニットだ。それを上手く扱えないなら、エディタは落第だ」
「シミュレータじゃないのよ? コーラス対策だってまだ万全とは言いがたいじゃない」
「エディタはもう育成枠じゃないんだよ、ベッキー」

 イザベラはクラッカーの上にカニ味噌クリームチーズを乗せて口に運んだ。

「お! 美味しいね、これ」
「カティが教えてくれたのよ」
「へぇ」

 イザベラはテーブルの上のシャパンクーラーの中で出番を舞っていたボトルに手を伸ばし、慣れた手付きで開栓した。

「これと合うよ、絶対。カティもほんと、歩くおつまみレシピだよね」
「歩くおつまみレシピ……」

 レベッカは小さく吹き出した。そして取り繕うように咳払いをする。

「カティは普通の料理だって上手じゃない」
「でもおつまみバリエーションは、たぶん本が出せるくらいはあるよね」
「エウロス飛行隊隊長手作りレシピ集! みたいな?」
「売れると思うよ」

 イザベラは笑いながら言う。レベッカは呆れたように肩をすくめてみせた。それと同時に妄想もする。カティが飛行士パイロットを引退したら、という妄想だ。料理研究家のカティなんて本当に最高。美人だから動画映えもするだろうし。本人は恥ずかしがり屋だけどカメラ慣れはしているし。そんな平和な日が来たらどんなに幸せだろう――と。

「ベッキー? おーい、ベッキーさーん」
「え、あ、ん? なに?」
「まったくもう。いきなり妄想の世界に旅立たないでよ。お疲れ気味なのはわかってるけどさぁ」
「幸せな妄想くらいさせてよ」
「現実だって希望に溢れているじゃないか、今は」
「希望?」

 レベッカは眉根を寄せる。

「エディタもレニーも、わたしたちにとってはになり得るじゃないか」
「でも、だったらどうしてそんな危険にさらすような」
「自ら輝けるものじゃなければ本当の希望とは言えない。そこに転がってるだけのものをさして希望だなんて言えない」
「だからって……」

 レベッカは不服そうに呟いて、ブドウジュースを一口飲んだ。イザベラはクラッカーを追加で一つ食べてから、一息ついた。

「来年にはD級ディーヴァも二人控えてる。マリオンとアルマだっけ。次期司令官候補だ」
「たぶん、そうなるんでしょうね。私たちに引退が許されるのなら、だけど」
「許されるのなら、か」

 イザベラは冷めた微笑を浮かべる。マリアは携帯端末モバイルをため息混じりにしまい、レベッカと顔を見合わせた。

「わたしたち二人が、この国を永遠に守れるなんてそんなバカなことがあるはずもない。世代交代は行われるべきで、それが健全な組織ってもの」
「でも、今、この国は」
「ヤーグベルテは確かにもう何十年か、ずっと危機に瀕している。と、言われている。でもさ、見てごらんよ、人々の危機意識のなさ。当事者意識のなさ。わたしたちのを享受して、いや、これは耽溺たんできしていると言ってもいいし、そのうえをドラッグ代わりに使ってさえいるんだ、この社会は総じて。そんな彼らもわたしたちは守らなくちゃならない――国家を守るための軍人だからね。でも、彼らに当事者意識が芽生えてこないうちは、たとえわたしたちが十人、二十人いたところで、この国の危機的状況は変わらないと思う。政治に都合よく利用されるだけの、ね」

 イザベラはほとんど一息でそう言い切り、シャンパンを二口飲んだ。その酷薄な雰囲気を目の当たりにして、レベッカの腕に鳥肌が立った。例えようのない不快感が指先から駆け上がってきたのだ。

「ベッキー、マリア。わたしたちにはたぶん、時間なんてそんなにないんだ」
「どういうこと、イズー」

 硬い声音で尋ねるレベッカ。イザベラは口角の右端を吊り上げた。

「わたしにがないとでも、思ってる?」

 その言葉に、レベッカとマリアは同時に全身を緊張させた。

「わたしはね」

 満足気にイザベラは言う。

「この世の中が大嫌いなんだ。わたしは、アーシュオンは嫌いだ。だけど、ヤーグベルテのことはもっともっと嫌いなんだ。軍人も文民もない。そのことごとく全てが大嫌いなんだ。彼らはわたしたちに戦争をさせる。セイレネスを操ることを強要し、そしてわたしたちがそれをすること、彼らの望むものを与えることを当然のことだと考えている。わたしたちが味わい続けている苦痛を知った上でもなお、ね」
「イ、イズー……」
「わたしたちは命を削って戦っているわけでしょ、ベッキー。だけど、わたしたちに本心本音から感謝するような人間は本当にごくごく少数にすぎない。そして誰もわたしたちの死をいとうことなんてない。悲しむ者もいない。墓の前に花もない」
「そんなことは!」

 レベッカは首を振る。

「私たちのファンだっているし、クワイアの子たちにだって――」
「わたしたちを一人の人間だと考えている人がどれほどいようかね。わたしたちは崇拝アイドライズを求めているわけじゃないだろう? 少なくともわたしは、偶像ではなく人間として見られたいと思っていた」
「それは」

 レベッカはグラスを置いて立ち上がった。マリアとイザベラの視線がレベッカの顔を追う。

「難しいことよ、とても」

 所在なくうろついてから、レベッカはなんとなく冷蔵庫を開けた。そしてビールを二缶取り出した。

「イズー、私たちだけじゃないと思う。そういう想いを抱いているのは」
「主体の一般化を求めているわけじゃないよ、ベッキー」

 ビールを受け取りながらイザベラはピシャリと言った。だがレベッカも退かない。

「たとえあなたがどんな理論をこねくりまわそうが、あなたがどんな怒りや悲しみを抱えていようが、わたしはは許さない。絶対に。二度と、あんなことはさせない」
「それでもする、と言ったら?」
「どうしても避けられないと言うのなら、まずは私にそのを教えなさい、ヴェーラ・グリエール」
「……ヴェーラ、ね」

 イザベラは「ふふ……」と病的に笑った。

「わかったわかった。良いよ。オーケー。はちゃんと相談するよ、ベッキー」
「……絶対よ」
「でも言っておくけど、わたしは思い込んだら絶対に止められないから」
「だとしても、よ」
「了解」

 イザベラは座っているレベッカの背後に移動すると、レベッカを抱きしめた。

「わたしだって、きみを愛しているんだ。マリアには悪いけど」
「いいんですよ、お姉様」

 マリアはビールの缶をテーブルに置きながら微笑む。

「レベッカ姉様が癒やされるなら、私はなんだって受け入れます」

 深淵の瞳に二人を映し、マリアは少しだけ目を細めた。

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