16-2-2:an end

歌姫は背明の海に

 そこは頭が痛くなるほどに、真っ白な空間だった。イスランシオは目眩を覚えて額に手をやった。何度訪れても慣れることのできなかったその空間で、イスランシオはを待っていた。

 あらあら――。

 の炎のようなものがそこに現れる。それはやがて人の姿に変わる。銀の髪がふわりと揺れる。だが、それ以上の特徴は、イスランシオには認識することができなかった。

「やっぱり、負けちゃったわね、イスランシオ」
完敗ディフィーテッド

 イスランシオは肩を竦めてみせた。二人は腕を伸ばせば触れられるほどの近さで立って、お互いに感情のない瞳で見つめ合っている。

「それで、あなたはもう満足したの?」
「十分だ」 

 ――アトラク=ナクアの艶っぽい問いかけに、イスランシオは薄く笑みを浮かべて答えた。アトラク=ナクアも嫣然と微笑み、頷く。

「そう」

 その唇の赤さが、イスランシオの意識にねじ込まれてくる。イスランシオは首を振る。

「そもそも俺には確固たる目的などなかった。あいつに、ヘレンに会えるのなら、もうどうだっていいことだ。何であってもな。遊びの時間は有意義に楽しませてもらった」
「あら、そう。そうなのね。でも、セイレネスで変わる世界を見届けなくって、良いの?」
「どうでも。死のない世界なんざ、何をしたって虚ろなんだからな」

 限りある生命だからこそ、輝きがある――今となってはイスランシオはそう確信していた。戦闘機に乗っていてもなんらの昂揚感を得られなかったことに、あのと呼ばれるまでに至ったカティ・メラルティンと戦ってもなお、何の感慨も抱けなかったことに、イスランシオは激しく失望してもいた。

「色即是空が真理なのであれば、結局何もしなくても同じ。俺はとっくに引き時だったっていうことさ。俺の役割はもう終わったんだ」
「空即是色が真理なのかもしれないわよ? あなたには見届ける資格も権利もあるけれど、いいのかしら?」
「俺にとっては色即是空が真理だった。それで十分だ」
「そう?」 

 つまらなさそうにアトラク=ナクアが呟く。イスランシオは無表情なまま、アトラク=ナクアに背を向ける。

「仮にお前の言う空即是色こそがこの世界の真理だったとしても。俺はカティに世界を変え得る材料を与えたつもりでいる」
「そうね。そう。でも喋りすぎたわね、あなたは」

 それはとがめる口調ではあった。だが、アトラク=ナクアの纏う気配に殺気立ったものはない。イスランシオは背を向けたまま、感情の欠落した声で尋ねる。

「止めなかっただろう?」
「面白そうだったからよ」

 アトラク=ナクアの明快な答えに、イスランシオはようやく微笑を見せた。

「なるほど、悪魔らしい」
「悪魔ですもの」

 艶のある声で答えるアトラク=ナクア。

「それじゃ、そろそろ」

 アトラク=ナクアはイスランシオに近付いて前に回り、その右手を両手で包み込んだ。

「ギンヌンガの奈落へと、ご案内するわ」
「好きにしろ」

 イスランシオはその触れ合った手を見つめ、ぶっきらぼうな反応を返す。

「どのみちこの世に未練などない。彼女ヘレンのいない世界になんてな」
「あら、あなたの愛は死をも超えるほどだったのね」
「むしろそれにより想いは強くなったさ」

 ヘレンに会える保証などどこにもない。だが、にいる限り二度と会えないのは間違いないのだ。であるならば、もはやここにとどまる理由もなかった。アトラク=ナクアはまた妖しい微笑を浮かべ、イスランシオの目を見つめた。

「行きましょう、イスランシオ。会えると良いわね、ヘレーネ・アルゼンライヒに」
「ああ」

 そうだな、と、イスランシオは頷く。自分の手が透け始めているのを見て、イスランシオは悪魔の赤い目を見た。

「悪魔よ、お前は本当に蠱惑うつくしいな」
「契約満了」

 アトラク=ナクアはイスランシオの背中に手を回した。イスランシオの姿が目に見えて薄れて、光となっていく。

「ありがとう、エイドゥル・イスランシオ。楽しかったわ」
「後はカティたちがどうにかするだろうさ」
「無責任ね」
「人間ってのはそういうものだ。次世代を信じて託す。それが健全な世界というものだ」
「それは希望?」
「……かもな」

 イスランシオはふと遠くを見るような目をして、そして完全に光と化して消えた。

 独り取り残されたアトラク=ナクアは、しばらく目を閉じてたたずんでいた。 

「ジークフリート……いえ、ジョルジュ・ベルリオーズ。あなたの理想の世界は、どうなるんでしょうね」

 瞬間――世界が闇に落ちた。

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