二〇九八年五月――。
ヤーグベルテ三隻目の戦艦となるヒュペルノルが進水した。ヒュペルノルは唯一のS級歌姫、レネ・グリーグの専用戦闘艦である。
このハードウェアの追加により、イザベラ・ネーミア率いる第一艦隊は戦艦を二隻保有することとなり、海域制圧力の大幅な増強に成功した。ヒュペルノルはいわば廉価版セイレーンEM-AZという位置付けである。性能も大きさも一回り小ぶりではあったが、それでも全長五百五十メートルにも及ぶ超巨艦である。
ヒュペルノル、そして旗艦セイレーンEM-AZが並走するその威容は、否応なしに指揮を上げた。もちろん、マスコミも飛びついた。
また、長らくレネとパトリシアが共有していた重巡洋艦ポルックスが晴れてパトリシア専用艦となったこともあり、戦略戦術の幅が拡大した。V級が駆る重巡および軽巡、計四隻によるコーラスもまた、無駄なく扱えるようになった。
「運用コストは悩ましいところですが」
並走する戦艦ヒュペルノルを見ながら、マリアが言った。督戦席に座るイザベラは、戦闘を前にしながらのんびりと紅茶を飲んでいる。今はさすがにブランデーは入っていない。
「ちょっと物足りないね」
「さすがにアルコールはご遠慮ください、姉様」
「はは、わかってるさ」
イザベラは肩を竦めてから、艦橋の窓の外に見える戦艦ヒュペルノルの白銀の艦体を見た。
「訓練航海なんてものに憧れるよ」
「実戦でのコストすら議会で叩かれるじゃないですか、姉様。いわんや訓練のコストをや、ですよ。血税がどうのと国防費に文句をつける、自称国民の代弁者たる方々が認めたりなんてしないでしょうね」
「うんざりするね」
イザベラは紅茶を飲み干して、小さく溜息をついた。マリアは携帯端末を取り出してしばらく情報のやり取りをしてから、イザベラの方に顔を向けた。
「研修もなしにOJTを強要されるなんて、会社勤めしたことある人ならどれだけ無茶なことを言っているかわかると思いますけどね」
「違いない。けど、そうであってもわからん人はわからないね」
イザベラはティーカップの底を眺めて頷いた。マリアは苦笑する。
「彼らの自己中心的で狭い世界観を腐しても仕方ありません。治るものでも、ありませんから」
「ふふ、今日はいつになく辛辣だね、マリア」
「そうですか?」
マリアは目を細める。暗黒色の虹彩が鋭く光る。
「そんなことより、姉様。アーシュオンの次の出方が気になります」
「次の?」
「新型戦艦が配備されたということは、確実にアーシュオンの耳に入っています。となれば、もはや従来の編成では来ないでしょう」
「ああ、そうだね。それはわたしも考えていた」
イザベラはカップを置いて腕を組む。背もたれに身体を預けて天井を見上げた。
「うーん」
唸りながらティーポットで紅茶を注ぐ。
「マイノグーラを超えるような、何か新しい超兵器とかさ、考えられるよね」「……ですね」
相槌を打ったマリアは、その途端に軽い眩暈を覚えた。
超兵器……なんだろう、この強烈な不快感は。私が知らない内に、アーマイアが何かをしでかしたのか。だとしたら、アーマイアは私たちの協定を侵したことになる。裏切りだ。
「マリア? マリア?」
「あっ、は、はい。なんでしょう?」
取り乱した様子を隠しきれなかったマリアを見て、イザベラは仮面の奥で眉を顰めた。イザベラの記憶の中では、マリアが動揺を見せたことは一度とてない。
「きみは何か情報を掴んでいたりはしないの?」
「参謀部としては、何も」
「きみ自身としても?」
「私、ですか?」
マリアは微笑を浮かべて首を傾げた。
「私としても特にどのコネクションからも情報は入っていませんが、可能性としては新兵器の投入は十分に考えられるかと」
その間もマリアは胸の内側を満たす冷たい違和感に苦しんでいる。アーマイア……彼女が何をしてこないとも思えない。しかし、協定を反故にしてくるとは、マリアは思いたくなかった。マリアがその手の内を読めない唯一の相手、それが彼女自身でもあるアーマイアだったからだ。
「どうにも引っかかるんだ、わたしは」
頬杖をついたイザベラは、鋭い声で言う。右手に持ったカップはもうすでに空だった。
イザベラの視線ははるか遠い水平線に向けられていた。イザベラはすでに敵を察知していた。
「敵艦隊、レネ・グリーグ大尉の最大射程距離に入りました」
「了解した」
索敵班班長から上がった報告に頷くイザベラ。ここまではイザベラの見立て通りの展開である。
そこにエディタから通信が入る。
『提督、現時刻を以て戦闘行動を開始します』
「うん、そうしてくれ。任せる」
『承知致しました』
メインモニタに映る白銀の妖精ことエディタの顔は、もはやすっかり歴戦の将校だった。その判断には根拠と自信があり、その決断は時として非情だった。実戦経験の数からいってもエディタはもはや提督レベルの艦隊運用能力を有していると、イザベラは評価している。
「ところでエディタ。きみは何か感じているか?」
『感じています』
唐突で抽象的なその問いかけにも、エディタは迷いなく応じてくる。イザベラは頷くと、メインモニタにレネを呼び出した。モニタの中央部にエディタとレネが並んで映し出される。
「レニー、きみは?」
『歪んだ音が明瞭に聞こえてきています』
「やはりそうか」
イザベラは腕を組んで数秒間黙考してから立ち上がる。そしてマリアの肩に手を置いた。
「今回はわたしも連結室に入る。嫌な予感が消えない」
「承知しました。行きましょう」
マリアは頷くと、共に艦橋からコア連結室に直通するエレベータに乗り込んだ。
「珍しいね、見送りとはね」
「いえ、なんとなく――」
「気になることがあるのかい?」
イザベラの瞳が仮面のバイザー越しにマリアを値踏みするように見据える。マリアは平静な様子をキープしつつ、「いえ、特に」と首を振る。イザベラはあっさりと頷いた。
「きみの情報と頭脳が頼りなんだ。よろしく頼むよ」
「はい」
エレベータのドアが開くと、イザベラは右手を上げて一人で出ていった。取り残されたマリアはドアが閉まるのを見届けてから腕を組んで壁に背を預けた。
アーマイア、あなたは何をしているの。姉様に何を見せようというの?
マリアは問いかける。すると、すぐにマリアの心臓が跳ねた。マリアは思わず胸を押さえてうずくまる。
――理の必然を。
錯覚では済まされない、明瞭な応えがあった。頭の中でマリア自身の声が反響している。
ア、アーマイアなの?
――私はあなただし、あなたは私でしょう?
揶揄するような言葉が返ってくる。マリアは鳥肌と不快感を押さえつけながら、必死で首を振る。
そうじゃない。あなたはあなた。私は私。
――滑稽ね。でもあなたがそう思いたいというのならそれを敢えて否定する理由もないわ。真理がどうあれど、ね。
エレベータの動きは信じられないほど遅い。時間が数百倍にも引き伸ばされているかのようだ。
アーマイア、あなたは何を創ったの。
――そうね、悪趣味なゲテモノ、とでも言おうかしら? あなたたちが形容しそうな表現で言うなら。きっとイザベラなら気付くでしょうね。
悪趣味な? そんなものをいったい何のために。
――あなたの大切な姉様の目を覚まさせるため。喝を入れるため、と言っても良いかしら?
声が遠ざかる。マリアは「待て」とその声を追う。しかしそれ以後、アーマイアからの応えはなく、時間感覚も元に戻ってしまう。
「くそっ!」
エレベータの中で拳を握りしめて、マリアらしからぬ言葉を吐き出す。その時だった。
『どうしたの、マリア。きみらしくないね』
「えっ……!?」
不意に聞こえたイザベラの声に、マリアは思わず反応してしまった。普段なら絶対にしないミスだった。それだけ、アーマイアとの直接対話がマリアを動揺させていたと言える。
『やっぱりだ。薄々そうとは思っていたんだけど、きみはセイレネスを通さなくてもわたしたちの声が聞こえているんだね。すさまじい感度だ』
「あ、あの、姉様――」
『不便だね、セイレネスは。嘘がつけないから』
その言葉にマリアは身を固くした。艦橋に到着して開いた扉が、マリアを乗せたまま閉まってしまう。
「今の私の――聞こえていたのですか、姉様」
『盗み聞きしたかったわけじゃない』
気まずそうな肯定の言葉に、マリアは唇を噛む。
『でも、おかげでわたしはきみをもっと信頼できたよ。きみ自身はわたしが信じていたように、わたしとベッキーのことを一番大切にしてくれている。それだけで十分だ』
「姉様……」
『アーマイアというのは、あのアイスキュロス重工の技術本部長、ローゼンストックのことだろう?』
「肯定です」
マリアは観念する。
「申し訳ありません、姉様」
『謝る必要はないよ。きみもわたしたちと同じなんだ。その出自を責めるつもりもなければ、きみの役割にケチを付けるつもりもまったくない。いま、わたしが関心を持っているのは、アーマイア・ローゼンストックがわたしに何を見せたいのかっていうこと』
「私もです、姉様」
マリアは溜息混じりにそう言った。イザベラは声のトーンを一段下げる。
『何が出てくるかは置いておくにしても、今回の敵は明らかに何かが違うってことがハッキリした。それだけでも十分な収穫だ』
「はい、姉様……」
『こんな場所でしょげるのはきみに似合わない。無事に帰ったら、浴びるほど飲もうじゃないか。ベッキーが怒っちゃうくらいにさ』
イザベラの軽口に、マリアはようやく表情を緩めた。
「ありがとうございます、姉様」
『お安い御用。それじゃ、わたしは本気モードに入るから。諸々任せるよ、マリア、いいね?』
「了解。お任せください」
マリアは胸に手を当てて大きく息を吐くと、今度こそ艦橋に戻った。