レベッカ邸にて、イザベラは事の顛末を話して聞かせていた。今日はマリアは不在で、久しぶりの二人きりの時間だった。レベッカはイザベラの斜向かいのソファに浅く腰掛け、眉間に皺を寄せている。
「それが本当にそうだったとすると、アーシュオンはとんでもないことを……」
それは極めて常識的な感想だとイザベラは思う。手にしたグラスをテーブルに置き、ソファに身体を沈み込ませる。
「マリアも同じものを見たと言ったんだ。だから多分、間違いない」
「そう、ね……」
レベッカは同意する。オレンジジュースの入ったグラスを手に取り、飲まずにまたテーブルに戻す。
「イズー」
「うん?」
レベッカはイザベラの仮面を指さした。
「それ、家の中では外してもいいのよ?」
「うん? ああ、コレか」
イザベラは顔の半分以上を覆い隠している仮面のこめかみ部分を軽く叩いた。
「四六時中つけてるからさ、全然気になってないんだよ。それにさっすがにドギツイよ、今のわたしの顔はさ。さすがのきみでもドン引きだよ」
「それでも――」
「わたしもね、見せたくはないんだ」
イザベラは乾いた声でそう言って、またグラスを持ち上げて、中の琥珀色の液体を一気に喉に流し込んだ。レベッカとしてもそう言われると何も言えない。レベッカは勿論、今現在のイザベラの顔がどうなっているか知っている。わかっていても背筋が凍る、そんな惨憺たる顔だった。
「そうそう」
イザベラは立ち上がるとコート掛けのそばに置いてあった、自分の大きなカバンをあさりはじめる。
「聞いたかい、ベッキー」
「な、何を?」
「断末魔特集。雑誌の企画さ」
「……って、なにそれ!」
レベッカが思わず大きな声を出した。歌姫の断末魔が一種一つの合法ドラッグとしてのニーズがあることは周知の通りだ。勿論、流通経路自体は合法というよりは脱法だったし、軍としてもやんわりと音源の無断採取を断る声明を出していた。だが、そこには拘束力はない。つまり、やりたい放題という現状がある。
イザベラは昨今すっかり数を減らしている紙媒体の雑誌を取り出した。
「ご丁寧にも紙媒体で音源の付録つきだ。そんだけ売上が見込める――需要があるコンテンツってことだよね、わたしたちの断末魔は、さ」
イザベラから手渡されたそれを見て、レベッカが視線を尖らせた。その表紙には、今回戦死したC級歌姫たちの顔写真と共に、『歌姫断末魔特集!』という文字が踊っていた。
「ここ数十年で最も売れた紙媒体になるだろうってさ。週刊誌のくせに大増刷が決定していて、電子の方だってすごいことになってる。ダウンロードランキングは発売二日目にして書籍全体で月間第一位だ。トップになったってことは、これからもっと耳目に触れて、もっともっと加速するだろうね」
「そんな! だって、この子たちは……死んだのよ」
「だからこその断末魔だよ」
イザベラは冷たい声でとぼけてみせた。そこには静かだが深い怒りがあった。
「死人に口なし。死者に人権なし。嘘か真か検証のしようのないことまでびっしりと書き連ねられている。プライベート、がっつりとね。関係者や友人がペラペラ喋ってるってことになってるけど、実態はどうだか」
「……ひどい」
震える手で雑誌をめくるレベッカ。その唇は戦慄いていた。
「軍はなにも?」
「うん」
イザベラは二杯目のウィスキーに口を付ける。
「参謀本部、情報部ともに問題ないっていう見解。ただ、使用料だか権利料だかみたいなのは請求するって。査問会で聞いたし、そういうことになるんだろうね」
「それって!」
レベッカが目尻を吊り上げる。
「軍が使用を認めますって、お墨付きを与えるようなものじゃない!」
「わたしに怒らないでよ。こんな不愉快なことはないんだから」
「そ、そうね。ごめんなさい」
レベッカは雑誌をテーブルの上に放り投げた。レベッカらしからぬ行動に、イザベラは「おおう」と声をあげる。
二人はしばらく無言で飲み物を胃に流し込む作業を行っていたが、やがてイザベラはグラスを置いて、腕を組んだ。
「わたしはとにかく、うんざりしている。ヤーグベルテにもアーシュオンにも、とにかくうんざりしている」
「イズー……」
「わたしが育て、わたしを慕ってくれたかわいい部下たちがたくさん死んで。それだけでもわたしは……悲しくて仕方がないんだ。わたしは」
イザベラは天井をじっと見上げた。
「あの子たちを死なせているのはわたしだ。わかってる。でも、わたしはこの国のことを思って戦っている――いや、思っていると無理矢理に信じて戦っている。犠牲だって割り切れないなりに割り切っている。歯を食いしばってね。なのに!」
イザベラはレベッカに視線を移す。
「査問会ではそれを徹底的に糾弾されるんだ。わたしは他の誰にもできないことをしているのに、だよ」
「わかるわ、イズー」
レベッカは頷いた。イザベラも「うん」と応じた。そしてウィスキーをまた飲み、喉を湿らせる。飲んでも飲んでも全く酔いが回らない。イザベラの頭はいつになく明晰だった。
「最期の声すら、こんな下衆なものに使われるんだ。あんなものを快楽のために使おうとする馬鹿者たちは勿論、それをさらに利用しようとする軍なんて、ましてやクソッタレだ」
イザベラの脳内は罵詈雑言でいっぱいになっていた。
「わたしたちは何も与えられることはない。ただ、奪われるだけだ。骨の髄までしゃぶり尽くされて捨てられる、ただの嗜好品だ。歌姫は、それ自体が性的な嗜好品と言ってもいいんだ、現状。わたしたち個人の想いも気持ちも、この国の連中はまるで無視だ!」
「全員が全員そうだとは言えないわよ、イズー」
「そりゃそうだよ、百パーセントの民意なんてありえない。だから反対意見があることを反証にはできないよ、ベッキー。それに反対意見を言っている団体だって、わたしたちの存在をダシにして、自分たちの主張を叫びたいだけだ。政権批判に繋げたいだけで、わたしたちに寄り添うつもりなんてさらさらないさ」
「で、でも」
レベッカは胸の前で指を組む。
「私たちは軍人なのよ、イズー。文民統制の下で国防のための力を振るう。私たちの力は確実にこの国を守るわ」
「守ってどうするっていうんだい、ベッキー。その先に、わたしたちには何が残る? 彼ら国民は、わたしたちのために何かしてくれた?」
イザベラの詰問に、レベッカは背中に冷たい汗を覚える。
「わかってないよね、ベッキーは。どうして彼らをそこまで弁護しようとする? 国民も、議会も、わたしたちを偶像扱いする一方で、必殺の特攻兵器のような扱いで使い潰してくる。わたしやエディタはともかく、C級歌姫たちには人権なんてない――奴らはそうとさえ主張するんだ」
怨嗟の込められた低い声で告げられたレベッカには、イザベラを見つめ返すことしかできない。
「そしてそこにきて、アーシュオンの生首だ。わたしは今でもアレを錯覚か何かだったのだと思いたい。でもあれが、本当に薬漬けの生首だったのだとしたら、この世界はもう終わっている。いや……終わったっていい」
その吐息とともに、苛烈なほどの怒りが噴き上げていた。感受性の強いレベッカは、見事にその怒気に中てられてしまう。レベッカは恐れた。イザベラがまた自らに火を放つのではないかということに。
レベッカは苦労して視線を動かし、テーブルの上の空のグラスを睨んだ。胃の辺りが熱くなるほど、レベッカにも怒りが伝染していた。
「わかる、あなたの怒りは伝わってくる。だけど、イズー。私はそれでも、人々が私を必要とするというなら、それに応え続けると思うわ。その動機、立場、主張……それはどうであったとしても、彼らはおしなべて弱者。私が守ってあげないとみんな死んでしまう」
「その程度なら、みんな死んでしまえばいい!」
吐き捨てるイザベラ。
「わたしはもう彼らを守ろうだなんて考えない。わたしたちの死すら利用するような連中に、わたしは敬意を払うことなんてできない。議会にもうんざり。そんな彼らを選んだ国民にもうんざりだ」
「あなた自身に失望しないなら、それでいいわ」
レベッカはつとめてゆっくりとした口調で言った。イザベラは虚を突かれたように口を閉ざした。
「わたし自身に?」
「そう。あなたにはまだできることがあるから」
「失望してる場合じゃないってことか」
「そういうこと」
レベッカは頷いた。イザベラは仮面をコツコツと叩く。
「ベッキーは」
イザベラはワインを開栓けながら唇を歪める。
「誰が為に戦うんだい?」
「国のためよ」
レベッカは迷いなく答えた。しかしイザベラは懐疑的に肩を竦めた。
「こんな国のために?」
「こんな国でも、私たちが長い間暮らした国よ。私たちには力がある。アーシュオンに対抗する力を持ってるのは、唯一私たち。だから、彼らを守るのは私たちの責務なのよ」
「責務ときたか」
イザベラは赤い液体を喉に流し込む。
「ならさ。その先にあるのは何? わたしたちへの全面依存じゃない? 薬物の中毒者のそれのような、執拗な要求が生まれるだけじゃない? わたしたちが良かれと思ってする行為は、つまりそういう連中を生み出すという行為にほかならないんだよ、ベッキー」
「なら、どうしろっていうの、イズー」
胸の奥が急速に凍りつくような感覚を覚えるレベッカ。それほどまでに、イザベラの声音の温度は低かった。
イザベラは「ふっ」と鼻で笑った。
「わたしはもう、十分に耐えた。そして、十分に待ってやった」
さらに温度を下げた口調で、イザベラは言った。
そのイザベラの威容を前に、レベッカは言葉を見失い、呼吸すら忘れた。