バルムンクの創り出した闇の中から、アトラク=ナクアは「あらあら」と戸惑うカティを眺めていた。アトラク=ナクアの傍らにはツァトゥグァが、そしてそこから少し離れたところにジョルジュ・ベルリオーズが立っていた。
「思い通りに事態は動いているようだけれど、ベルリオーズ。それにしても、あの子にディーヴァ因子を仕組んでいただなんて」
「ふふ……。あの子はミスティルテインになる予定だったんだ。その時の名残みたいなものさ。今やあの子はエキドナ。すなわち、万象の母さ」
ベルリオーズもどこか愉快そうな表情で、アトラク=ナクアが見ている映像を見つめていた。その中でツァトゥグァだけは怪訝な表情を浮かべている。ツァトゥグァはその豪奢な金髪に手をやりながら尋ねる。
「でも、それは結果としてあたしたちを利することになってしまうのではなくて?」
「どうだっていいさ」
ベルリオーズは大袈裟に肩を竦めた。
「僕の目指すところに辿り着いてくれさえするなら、その過程なんてどうだっていいのさ」
「あなたの真意が理解らないわ」
ツァトゥグァは首を振った。そして確認するように呟く。
「エキドナのセイレネスが発動し、他のセイレネスと衝突する……」
「それにより」
ベルリオーズが口角を上げた。
「セラフの卵は飛躍的な速度で伝播する」
「……!?」
ツァトゥグァは思わずベルリオーズの顔を睨んだ。
「まさかあなた、さっき」
「ほんのちょっとだけさ。エキドナを通じて、カティ・メラルティンの因子を刺激したのさ」
「それで卵が孵化した、と」
「そういうことさ」
ベルリオーズは愉快そうに頷いた。
「二十年以上温めていてもらっていた卵だからね。そりゃ、相応の成果が無いと困るってものさ」
「直接的に干渉するのは反則ではなくて?」
「ムキになるようなことでもないんじゃない、ツァトゥグァ」
アトラク=ナクアが挑発的に口を挟んだ。彼女は続ける。
「だって、この人のこの行為によって、咎人は増えて地に満ちる。そして論理の層と物理の層は、ますます接近する」
「そういう副産物もあるだろうねぇ」
ベルリオーズは微笑を浮かべたまま、アトラク=ナクアの言葉を肯定した。
「今の君たちはゲートを介さなくては僕たちに干渉することはできない。こうしてバルムンクを開放していない限りはね」
「私のもたらしたティルヴィングによって生み出されたジークフリート。その論理演算で作られたバルムンク。私たちがこうしてここにいるのは当然の帰結よ、ベルリオーズ」
「起源論に興味はないさ」
ベルリオーズは目を細める。左目が赤く輝いている。
「論理と物理が完全に融合すれば、ゲートは意味を持たなくなるだろうさ、君たちの思惑通りにね」
「あなたの――」
ツァトゥグァが眉を顰める。
「あなたの求める未来って、いったい何なの?」
「僕はね、破壊者なんかにはなりたくはないんだ」
「なれど、さすらばそれはあなたの行為と、行為の結果が矛盾する」
「矛盾?」
ベルリオーズは心底おかしそうに表情を緩めた。
「僕の行為結果、君たちは僕たちに直接干渉が可能になる。それは同時に、逆もまた然りということなんだ」
「まさか。人間風情にそんなことができるはずもない」
「だそうだけれど?」
ベルリオーズはアトラク=ナクアに視線を移した。アトラク=ナクアはしばらくの沈黙の末に告げた。
「可能性のない話ではない、わね」
「そういうことだね」
満足気に頷くベルリオーズ。その左目が燃えている。
「僕はその方向に賭けているのさ。君たちが与えてくれたこのジークフリートは、もはや君たちにも全貌が把握できるようなものではないのさ」
「でも、ベルリオーズ。あなた、その意味を理解しているの?」
アトラク=ナクアは氷の微笑を見せつつ尋ねる。闇の中でその銀髪が揺蕩っている。
「あなたは、私たち混沌――神とでも悪魔とでも言えばいいのだけれど、そんな事物たちへのアクセスを試みようとしているのよ?」
「僕がいる相と、君たちの相。それは別に非対称というわけじゃないんだよ。それにね、たとえ僕が賭けに負けたって、そんなことはどうだっていいのさ。ツァラトゥストラの環に今一度戻るだけだからね。ティルヴィングが今までずっとそうしてきたようにね。何事もなかったかのようにね」
ベルリオーズは肩を竦めつつ言う。アトラク=ナクアはふわりと腕を組む。
「でもね、あなたは賭けに勝てない。その前に私はあなたの目を奪い、墓穴に突き落とすのよ?」
「ははは、怖いことを言うね、メフィストフェレス。でもね、残念ながらそれは無理な論理だよ。僕が賭けに勝つ可能性がある以上、僕はもう君たちの論理の上では負けてはいないんだよ」
ベルリオーズは左目を赤く燃え上がらせながら、アトラク=ナクアと見つめ合う。二人の表情はまるで極北の湖面のように静謐で、一つの波紋すら許さない。
「どうだい、それでも僕をまだ自由にするのかい?」
「今はまだエンターテインメントの域から出ていないわ」
アトラク=ナクアは笑う。ベルリオーズはつまらなさそうに「そうかい」と呟く。そこでツァトゥグァがまた髪を掻き上げてから言った。
「あたしはあなたに危機感を覚えているわ。でも、それ以前に、あの娘たちにも興味があるわ。何を思い、何を選択するのか。その結果、人がどう進化するのか」
「たいそう衒学的な物言いだけど、ぼくはまだそこまで劇的なものは期待できないと思っているよ」
「良いのよ、別に。あたし自身が興味をもっているだけだから。でも、あなたに勝たせるわけにはいかないというのは、アトラク=ナクアに同意なのよ。彼女と同じ方向を向いているわけではないにしても」
つれない様子のツァトゥグァを一瞥し、ベルリオーズは両手のひらを上に向けて肩の高さに持ち上げた。
「でも、さにあらば、僕が勝つ可能性が惹起されたその瞬間に、僕という存在を抹消しなくちゃならなくなるんだよ、わかってる?」
ベルリオーズの揶揄するような問いかけに、ツァトゥグァが眉根を寄せる。ベルリオーズは右の口角を上げる。
「君たちはこの世界へのアクセス権を欲している。そうである以上、この僕を消すことが得策と言えるのかな、はたして」
挑発的な言動に、ツァトゥグァは無表情に反応する。
「あたしたち、混沌の神を侮らないことね」
「そうか。ならば僕はさしずめ秩序の神だ」
ベルリオーズは全くもって平静にそう言い放つ。ツァトゥグァはようやく微笑みを見せた。
「それはまた、大きく出たわね、ジョルジュ・ベルリオーズ。あなたのその鍵が、どこからもたらされるのか、考えるべきね」
「くだらない起源説を論じるより、そこに在る事物を如何に使うかを考えるほうが建設的だよ、ツァトゥグァ」
冷笑とともにベルリオーズはそう呼びかけ、金と銀の揺らぎに背を向けた。
「さぁて? 僕の蒔いた種は、どうなるだろうね?」
「運良く実りを迎えられたとしても、無慈悲に刈り取られるだけよ」
ツァトゥグァの揶揄するような声に、ベルリオーズは面倒くさそうに右手を振る。
「一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。死なば多くの実を結ぶべし――だよ、ツァトゥグァ」
それが人というものなんだよ――ベルリオーズは淡々とそう言い、姿を消した。