そこまでして、命を捨ててまでして、いったい何が得られるというのですか――エディタが掠れた低い声で尋ねる。イザベラは髪を後ろに払った。
「何も」
「それではっ!」
エディタは腰を浮かせる。
「ディーヴァを失えば、ヤーグベルテはっ!」
「それはいいのよ、そんなことは」
そう言ったのはドアの所に立っていたレベッカだった。
「保険はかけてある。マリオン、アルマ、そしてレニー。この三人がいれば、私たちの後を継ぐことができる――」
「わたしは」
イザベラが仮面のこめかみをコツコツと叩きながら言った。
「この時を待っていたのさ。もちろん、アルマとレニーは次の出撃では途中で脱落させる。あの二人には生きていてもらわなければならないからね」
イザベラの鋼のような言葉に、エディタは黙り込んだ。代わりに声を上げたのはクララだった。
「僕は提督の理想、おっしゃりたいことを理解できているつもりでいます。提督についていくことは吝かではありません。ただ、どうしても僕には納得できないことがあります」
「何がだ?」
「メディアがこれだけ幅を利かせているのです。提督のお考えはおそらくはねじまげられ、その真意を伝えられることはないと思います。メディアはメディアの伝えたいことしか伝えません。そんなこと、誰だって知っています。だから――」
「ただの狂人の反乱で終わるというのならそれでいいのさ」
イザベラは言ったが、クララは立ち上がって首を強く振った。
「よくありません、提督。僕たちはそれに命を賭けるんです。どちらにつくにしても。そして僕たちは今、そこに命を賭ける価値があるか、判断しなくちゃならない」
「言うようになったな、クララ」
イザベラは「うむ」と頷いて立ち上がる。そして背中で手を組んで聴衆たちに背を向けた。
「クララ。きみのその推測は的中するだろうさ。わたしの言葉は万人に届くことはなかろう。だけど、きみたちがいる。S級だっている」
「それを丸投げだというのです、提督!」
「本当に言うようになったな、クララ」
イザベラは肩越しに振り返って笑う。
「丸投げと言われると痛いが、その批判は甘んじて受けよう。わたしは、わたしの最後の仕事は、国家に冷水を浴びせることだと思っている。従順であるはずの歌姫。無条件に国家を守ってくれるはずのD級歌姫。そのはずが、ただの思いこみに過ぎないことを知らしめること。わたしたちとてただの愚かな人間の一人であることを知らしめること。それがわたしの仕事なんだ」
「僕たちは命令されればついていきます。いっそお命じになられてはいかがですか」
「せぬ」
「なぜですか。自己満足のためですか」
舌鋒鋭くクララは訊く。
「かもね。ではクララ。きみの守るべき正義とは何だ。而して、きみの立ち位置はどうなんだ」
「僕の正義は……」
クララは握った拳に力を込めた。
「テレサを守ること」
「きみらしい。だが、それでいい。わたしはこのヤーグベルテという国家群に阿りすぎた。ゆえに、わたしの中の価値観は歪み、脆くなってしまった。大切な誰かを守ること。それに勝る正義はない」
「しかし提督にはアーメリング提督が!」
「ベッキーは、わたしが守るまでもないほどに強いから」
「そうじゃないです」
クララはテレサが止めるのも聞かず、前に出た。
「強いとか弱いとかじゃない。大事な人には傷一つ付けてほしくない。それだけなんじゃないですか」
「クララ」
口を挟んだのはレベッカだ。
「イズーは私をこの上なく大切に扱ってくれているの。私が傷付かないように、今もこうして矢面に立ってくれている。だから彼女を責めないで」
その鋭利な口調に、クララは口を噤む。そしてテレサに促されるままにソファに戻った。イザベラは振り返るとゆっくりと腕を組む。
「絶対的な正義なんてものはこの世には存在しない。だが、クララには正義があった。みんなにもあるだろうが、突き詰めれば大切な誰かを守りたい。その思いだとわたしは思っている。わたしにも守りたい人はいる。ベッキー、マリア、そしてカティ。全員がわたしにとってとても大切な人だ。その本質を大事にしてほしい」
「提督も、です」
テレサが言った。
「提督も、まだ遅くはないのではないですか」
「遅いのさ」
イザベラの荒んだ笑みがそれを打ち消す。
「わたしは国家にアテにされすぎた。それにとどまらず、わたしたちが消えたとしても、国家はきみたちをアテにするだろう。それは罷りならぬこと。そしてその責任を取れるのはわたししかいないのさ」
「この国が提督に甘えるようになってしまったのは提督の責任だ。だからその責任を取り、国家の考え方を改めさせる。そうおっしゃっているというわけですか」
テレサが刺すような声で言った。
イザベラは沈黙をもって雄弁に答える。
レベッカがゆっくりとその隣に並び立つ。
「イズーはイズーの正義を振るい、私は私の正義を掲げます。私の正義はこの国を守り、あなたたちをも守ることです。一人でも多くの歌姫たちを守り抜くこと。犠牲を強いて、その血で正義という文字を描こうというイズーとは、私の主張は相容れません」
「そういうことだ」
イザベラはレベッカの肩を軽く叩いてそう言った。エディタが立ち上がる。
「いずれにせよ、お二人の決着劇では、多くの犠牲が出ます。アーメリング提督が守りたいという歌姫たちの犠牲も一人や二人では済まされないでしょう。こんなことのために……それではアーメリング提督とて、歌姫の血でご自身の正義を彩ることに代わりはないのではないですか」
「そうですね」
レベッカは目を伏せる。そして眉間に手をやった。
「エディタの言う通り、多くの犠牲が出るでしょう。そしてイズーについた歌姫たちは、たとえ私を撃破したとしても――」
「それを断じるのは早計だよ、ベッキー。でもそうだね、エディタの言う通り、これは劇だ。たくさんの生命を費やす、大掛かりな演出なのさ」
「お二人の……」
エディタは二人の前に進み出た。凛とした表情に、イザベラもレベッカも口を閉ざす。
「その正義の是非を、その決着をここでつけてください」
「ついているのよ、それはね。もう何年もかけて」
レベッカは眼鏡を外した。鋭い眼光がエディタを捉える。
「私自身、私の正義の正しさなんて評価することはできません。しかし、イズーの言う正義については理解できているつもりです。だから、私はイズーから今回の計画を聞いた時、ノーとは言わなかった。むしろ、イエスと言ったわ」
「なぜ、そんな」
「私たちは、ことここに至っては、もうこんな手段しか思いつかなかった。あなたたちには申し訳のない話だとは思っています。ですがもはや、後戻りのできる話ではないのです。ですから、あなたたちは選ばなければならないでしょう。私か。イズーか。あるいは、何もしないか」
レベッカはそう言うと、イザベラから離れた。再びマリアの待つドアの所に移動して、小さく息を吐いた。
イザベラは目の前のエディタの両肩に手を置き、仮面越しにその目を見つめた。
「期限は次の出撃だ。どうするか、自分たちで決めろ。もちろん、私を軍警に突き出したって良いさ。どんな選択をしたとしても、わたしはきみたちのその判断を歓迎する」
そう言って、イザベラは一方的に解散を宣言した。
六人のV級歌姫たちは、沈鬱な表情を貼り付けたまま敬礼を残して出ていった。
マリアは玄関で彼女らを見送り、リビングに戻ってくる。襟を少し緩めながら窓の所に移動し、車で去っていくエディタたちを見送った。
「姉様方、本当にこれで良かったのでしょうか」
久しぶりに聞くマリアの声だった。レベッカはマリアの隣に並び、その腰に手を回す。マリアは少しだけ身体をレベッカに近付けた。レベッカはゆっくりと息を吐ききった。
「良かったのかどうか。それは誰にもわからないわ」
「そうだね」
イザベラはソファに座って、グラスにブランデーを注いでいた。
「わたしはわたしの正義を実現するだけ。と言うのは体面で、実際のところは疲れ切ってしまったんだよ」
「イズー……」
「そんなノイローゼな女のワガママに付き合わせて、罪なき子たちの魂を悪魔に捧げようとしている。わたしは本当に罪深い女さ」
「それは私も同じなのよ、ヴェーラ」
「その名前は、もっと先に取っておいて欲しい」
イザベラは仮面を叩く。これを被り始めてからというもの、レベッカにでさえ素顔を晒したことがない。投影機能で擬似的な素顔を表示させることもできるが、イザベラはその機能を使ったことがなかった。
「わたしが今の顔を晒した時、何万人くらいが不謹慎だと口にするだろうね」
「悪趣味ね、ヴェーラ」
「だから、わたしはヴェーラではなくて」
「私はいま、ヴェーラと話をしているの」
思わぬ強い口調に、イザベラは手を止める。イザベラの隣に、レベッカが腰を下ろす。マリアはさっきまでエディタが座っていた向かい側に座った。
「そうか」
イザベラはグラスを置くと、レベッカの肩を抱き寄せた。レベッカはイザベラの肩に頬を乗せる。そして言った。
「賭けをしましょう、ヴェーラ」
「いざという時に逃げ出さないために?」
「お見通しね」
「きみのことならね」
イザベラはレベッカの髪にそっと触れる。レベッカは顔を上げ、イザベラのその手を両手で握った。
「あなたの正義と、私の臆病な心を賭けましょう」
「わたしの狂気と、きみの正義をか」
イザベラはレベッカと額を合わせ、キスしてしまいそうなほど近い位置で、そう囁いた。
二人は目を細め合い、息を吐いた。
「私たちはもう、とっくにどっちも正気じゃないわ」
「ああ」
イザベラはレベッカを抱きしめた。レベッカの手もイザベラの背に回る。
「ならばお互いの狂気を賭けようじゃないか、ベッキー。わたしはきみを全力で迎え撃つ。きみはわたしと全力で潰しに来るんだ」
「……セイレネスに賭けましょう」
レベッカはイザベラの頬に触れると、ゆっくりと立ち上がった。そしてそのままリビングから出ていった。
マリアは黙ってその後ろ姿を見送り、そして持ってきた自分のグラスにもブランデーを注いだ。
「私たちはいったい、何をしているんでしょうね……」
「剣を持ち、自由の下に平穏を叫ぶ――わたしは後に続く歌姫たちのための福音となるのさ」
「詩的で傲慢ですね、姉様」
「ポエティックでエゴイスティックときたか。なるほど、詩的な表現だ」
二人はグラスを合わせると、それぞれに一口ずつ飲んだ。
「酒は同じ味なのに、どうして今日はこんなにも不味いんだろう」
「姉様が泣いておられるからですよ」
「正義の味は、哀しいな」
イザベラはそう言って、また一口飲む。
「でも、いつの時代でも、正義なんてものはこんなふうなものなんだろうとわたしは思うよ、マリア」
「ええ」
マリアの暗黒の瞳が、天井灯を映して揺れる。
「そしてこれは姉様でなければできないこと、ですものね」
「そうさ」
イザベラは頷く。
「わたしの妄想だったらいっそよかったんだけど、冷静に考えれば考えるほど、これはわたしの役割だとしか思えなくなった。そしてベッキーもまた、そのためにわたしを愛してくれているんだと」
「レベッカ姉様は……あなたのことを心から」
「でも君と愛し合っている」
「それは、身体だけの関係です、レベッカ姉様にとっては」
「きみは、それでいいの?」
「ええ」
マリアは迷いなく頷いた。
「私もまた、レベッカ姉様と同じくらいに、あなたのことを、ヴェーラ姉様のことを愛しています」
「ごめん」
イザベラはそう言うと、グラスを掲げた。
「でも、私の愛は、ヴァリーにしか向けられない」
「ええ。分かっています。私も、レベッカ姉様も」
マリアは沈鬱に頷いた。
「でも、姉様もまた、私たちを愛してくださっています。それは私にはちゃんとわかっています。レベッカ姉様だって、もちろん」
「うん」
イザベラはソファに身体を預ける。
「今夜くらいは泣いてもいいかな」
「いつだって、泣いていいんですよ、姉様」
マリアは目尻を拭う。
「姉様方がこんな時代の、こんな国家の生贄にならねばならないなんて。私は、私は、何のためにここにこうしているのでしょう」
マリアは震える声で訴える。たとえようもない無力感が、マリアの胸を押しつぶそうとしている。
「きみがいるから、わたしたちは安心してこんな馬鹿なことができるんだ」
「繋ぐため……ですか」
「そう。繋ぐため。わたしたちの絆を、マリオンたちに繋ぐため」
「……姉様」
マリアは耐えかねたように立ち上がった。
「ご安心ください。マリオンたちは、私が絶対に守ります」
「うん。きみには一番損な役回りを任せてしまうけど」
「……姉様たちの献身。決して無駄にはさせませんから」
マリアはグラスの中の液体を一気に呷ると、勢いよくそれをテーブルに置いた。
「姉様」
「う、うん?」
「レベッカ姉様の隣、今夜は開けておきますから」
「だから、わたしは……」
言いかけて、イザベラはハッと口を閉ざす。マリアの両目から、大粒の涙がいくつも溢れていたからだ。
「お願いします、姉様」
「……わかったよ」
イザベラは天井に向かって息を吐いた。
「語り明かすだけで赦してもらえるかな」
「それだけで、姉様の胸が……痛まないのなら」
「それはまた、きつい言い方だね」
イザベラは苦笑を見せる。
マリアは涙を拭こうともせず、子どものようにしゃくりあげていた。
「だいじょうぶだよ、マリア」
イザベラはマリアの肩に軽く手を乗せた。
「もうこれ以上、ベッキーを哀しませたくはないんだ」
「はい……」
マリアはそう言うと、泣き顔を隠そうともセずにコートを羽織って足早に出て行ってしまった。
「みんなに、感謝だ」
イザベラはドアを開け、レベッカの寝室へと向かった。