レベッカは統合首都にて、静かにその時を待っていた。ガラスの向こうのシミュレータルームには黒い棺のようなシミュレータの筐体がいくつも鎮座している。その中ではマリオンやレオノールたち、新人歌姫たちが模擬戦での訓練を行っている。そこにレベッカとマリアがいる以外、それはいつもの光景だった。
そしてマリオンたちは、レベッカがここを訪れていることを未だ知らない。
レベッカは沈鬱な様子で背もたれに身体を預け、天井を見上げると目を閉じた。背後に立っていたマリアが小さく、固く、息を吸った。
「動いたのね」
レベッカが目を閉じたまま尋ねた。マリアは「はい」と小さな声で肯定する。レベッカはゆっくりと立ち上がる。
「イズーも、政治屋も」
「はい」
マリアは頷くと、傍らで作業をしていたブルクハルトを見た。ブルクハルトはその気配だけで状況を察し、マイクで訓練の中止を宣言した。その横顔にはいつもの柔和さはなかった。
「ブルクハルト教官、あの」
「わかってる。僕は何も聞いていない」
「助かります」
レベッカは頭を下げる。その間に、マリアは参謀部第六課からの報告を携帯端末にて受けていた。
「さっそく事実が改竄されていますね。第六課としては軍の発表に懐疑的ですが」
「ハーディなら騙されることはないわ」
レベッカはそう言い切った。個人間の軋轢はともかくとして、レベッカはハーディという人物の情報処理能力を極めて高く評価していた。
「それで、マリア。軍とメディアは何て?」
「イザベラ・ネーミア提督は最初からアーシュオンの艦隊と通じていた。味方哨戒艦隊を救援に向かったと見せかけて撃滅、その後アーシュオン艦隊とともに統合首都へと針路を向けつつある、とのこと」
「映像もあるわけね」
「ええ」
マリアは自身の携帯端末の上に立体映像を浮かび上がらせてレベッカに見せた。空中投影ディスプレイに、その時の様子とやらが映し出される。確かに、セイレーンEM-AZの撃ち放った主砲弾が、脆弱な哨戒艦隊を撃滅していた。
「なるほど」
「姉様、続きが」
「続き?」
レベッカは眉根を寄せる。映像が切り替わったそこに映し出されていたのは、レネ・グリーグの戦艦ヒュペルノルだった。かろうじてそれと分かる艦体が半ば溶解している。
「嘘、どうして。これも捏造よね」
「いえ」
マリアは厳しい表情で首を振った。
「軍発表によれば、反乱を止めようとしたレニーが、粛清されたと」
「バカな!」
レベッカは立ち上がる。眼鏡の奥の目尻が吊り上がっていた。
「第七艦隊がアルマを引き受け、それゆえにレニーは艦隊と再合流したとのこと。その後は、アーシュオンの新兵器による飽和攻撃で艦隊を守って沈んだというのが正しい情報です、姉様」
「レニーはこんなところで失っていい歌姫じゃなかったわ!」
「しかし、事実は覆りません」
「……だけど」
それは完全に誤算だった。軍の発表やそれに連動したメディアの報道が、偽造情報を元に行われることは想定の範囲内だった。どんな情報が流されるかについても、概ねレベッカの予想通りだった。どれほど情報を捏造しようとも、イザベラとレベッカがこれから行うことを目の当たりにすれば、そんなものは無意味になるのだ。
だが、レネ・グリーグの喪失だけは想定外だった。
レベッカは下唇を噛み締め、眉間に右手をやった。
「ニュース……ワイドショーにも入ったね」
ブルクハルトが自分の携帯端末を見せてくる。マリアが今しがた映した映像そのものが、粗雑なテロップとともに表示されていた。今まさにこれから、自称識者や関係者、はたまたお笑い芸人たちが、しかつめらしく議論を始めるのだ。それは毎度のことながら、まるで当事者意識のない、エンターテインメントだ。どんな悲劇も、彼らにしてみればただの飯の種でしかなく、そして彼らが作りたいと願うのは真実の報道などではなく、ただのショーなのだ。
レベッカはその映像を知らず睨みつけ、天井を仰いで目を閉じた。
「マリア、第二艦隊出撃準備」
「既に航海訓練の名目で手配済みです。エディタたちはすでに港にいます」
「良いでしょう」
その時、ブルクハルトの携帯端末から、イザベラの声が響いてきた。
『わたしが現時刻を以て、ヤーグベルテより離反する。アーシュオンの連合艦隊と共に、わたしは今から統合首都を目指し、これを陥落させる』
「イズー……」
この言葉は捏造ではない。紛れもなくイザベラ本人の声であり、言葉だった。この言葉を覚悟していたとはいえ、その衝撃は覚悟の程を易々と飛び越えるだけの威力を持っていた。
『わたしは、ヤーグベルテの在り方に抗議する。歌姫を使い捨てにし、あまつさえその断末魔さえ利用するその不遜不逞なやりかたに、わたしは強く抗議する。その外道なる振る舞いを平然と行うことのできるヤーグベルテの人間たちのモラルの低さに、わたしは心底うんざりした! 快楽を、悦楽を、何の対価もなしに享受し、思考を停止して耽溺する。わたしはそのような者たちが多くいる事実に、心の底から幻滅した! 恐怖し、後悔し、苦悩し――その結果摩耗していくだけのわたしたちに思いを馳せることもなく、あるいは、できず! ただまるでゲームのように戦争を眺め愉しみ、好き勝手な御託を並べ立てるような愚劣愚昧な人間たちに、わたしの我慢は限界を迎えた!』
イザベラの怒りは、噴き上がるマグマのようだ。字面そのもの以上の感情をレベッカは受け止めていた。
『戦争は――』
イザベラの声のトーンが落ちる。温度が下がる。
『戦争は、断じて娯楽ではない。今からわたしが、このくだらない世界を変えてみせよう。我々はおまえたちにとっては使い捨ての玩具に過ぎぬやもしれぬ。しかし、我々玩具にとて矜持はある。その身を以て理解するがいい!』
それは明々白々な宣戦布告だった。他に解釈のしようのないその言葉の群れに、レベッカはいよいよ後戻りが利かなくなったことを知る。
その時、マリアの携帯端末が無愛想な電子音で着信を伝えた。
「ハーディ中佐からですね」
「出て」
レベッカは静かに短く言った。マリアは頷いて通話を開始する。
『ハーディです、カワセ大佐。そこにアーメリング提督は?』
「今一緒にいます」
『代わってください』
「お断りします」
マリアは間髪おかずに毅然と応じた。ハーディの溜息がレベッカの耳にも届く。
『ならばお伝え下さい。準備ができ次第、第一艦隊の迎撃行動を開始せよ、と』
「了解しました」
機械的に応じて、素早く通話を切るマリア。横で聞いていたレベッカは、唇を大きく歪ませた。普段のレベッカが決して見せることのない、荒んだ表情だった。
「準備ができ次第、ね」
そこには心の準備時間は含まれているのか。
そんなことを思うレベッカに、マリアはそっと寄り添った。
「姉様の思うままに」
「ええ」
わかってはいた。知っていた。こんな未来が来ることを。いつからか、知っていた。
だけど、こんなことを、どうして私たちがしなくてはならないの。私とイズー……いえ、ヴェーラは、どうして楽しく生きていくという選択肢を与えられなかったの。ずっといっしょに助け合いながら、ただ生きていければよかったのに。
でも、初めから。
私たちの一番最初から、こうなることが決められていたのだとしたら。
あるいは、こうなることを目的として生み出されていたのだとしたら。
「恨みたい」
私は、恨む。恨んでいる。
レベッカの呟きに、マリアは無表情に頷いた。そしてレベッカを強く抱きしめる。
「ねぇ、マリア。私たち、どこで間違えたのかしら」
「間違えてなんて――」
「じゃぁ、どうしてこんなに残酷なことになるの」
矢継ぎ早の問いかけに、マリアは沈黙する。
「私とヴェーラは、ずっとふたりで同じ道を歩んできたつもりだった。これからもずっとそうできると、そうできる可能性はまだ残されていると信じてきた。けど、それは過ちだったの。認識の錯誤だったとでもいうの」
レベッカの肩が小刻みに震えていた。マリアはそれを掌に感じながら、その耳元に囁いた。
「ヴェーラ姉様は優しすぎたのです。自分を犠牲にしてしまうほどに」
「それほどまでに絶望したのよ、あの子は」
「ヴェーラ姉様の今回の行為は、決してやぶれかぶれの結果ではありません」
「私もあの子くらいに傷ついていたら。一緒に傷んでいたなら」
レベッカは唇を一層に強く噛み締めた。が、身体を離したマリアは、その唇を親指でなぞる。
「姉様、これ以上自分を責めないでください」
「私も全てを捨ててイズーの……ヴェーラのところに行きたい」
レベッカはそう呟いた。マリアは沈黙する。レベッカは目を細めて、マリアの肩を叩いた。
「……冗談よ。あの子の想いを無駄にするわけにはいかないから」
「姉様方には――」
マリアはたまりかねたように言う。
「姉様方のせいではありません、こんなこと! これは……」
運命。これは、あの悪魔たちが撚り上げた未来なのだ。私たちには抗えない、そんな舞台装置なのだ。
「いいえ、マリア。私たちの存在そのものが、責任なのよ」
しかし、レベッカはマリアの言葉を拒絶した。マリアは俯いて押し黙る。
レベッカは目を閉じた。
兵器としての自分。
兵器としての価値。
兵器としての、自由。
「私たちは解き放たれるのかしら。ねぇ、マリア」
「……そうでなければ、困ります」
「そうね。困るわ」
仕切りガラスの外に目をやると、シミュレータの筐体の蓋が開き始めたところだった。
「これからマリオンとレオナに事態を説明します。C級歌姫たちには先に港に向かってもらいましょう」
「了解しました」
マリアは機械的に応じる。
悪魔め……。
そして、我が創造主……。
あなたたちは、本当に――。
救いようがない。
この世界は、救いようが、ない。
マリアは気付かれぬように、唇の内側を強く噛んだ。