海は静寂に沈む。
暗い海、星の消えた空、焼けた空気。
しかしそこには風の音も水の音もない。
漂うのは音というにはあまりにも微細な、セイレネスの歌だ。
マリオンたちはセイレーンEM-AZの有効射程の外まで退避していた。イザベラの能力があれば、彼女らを追撃することは十分に可能だった。だが、それはなかった。
ウラニアとセイレーンEM-AZ。そして、ウェズンとクー・シー。五十隻にもなる随伴艦たち。
レベッカにしてみれば、一対五十。絶望的な、捨て身の戦術だった。しかし、レベッカにはこの状況こそが必要だった。未だに迷いの乗る自分自身の気持ちに整理をつけるために、逃げ場のない状況が必要だった。それはヴェーラの気持ちに真正面から応えるためにも絶対に必要な舞台装置だった。
「イズー!」
レベッカは力の限りに叫ぶ。
「私にはあなたを止める義務がある! 武力による脅威から、国を、人々を守る義務がある!」
『ああ、そうだね。それはわたしにもある。国と人々の目を覚まさせるという義務がね』
同じような言葉でイザベラは返答した。それはお互いの主張は相容れない、そういうパフォーマンスだった。二人のやり取りは今、つぶさに国民たちに向けて中継されているからだ。
『これはね、わたしにしかできないことなんだよ、ベッキー。だから、わたしが行動しなくちゃならない。きみにはまだ迷いがあるようだけれど。こんな叛逆者を討つということに対してね』
「あたりまえよ! あなただって本当はッ!」
『わたしは必ず死ぬ』
イザベラは達観したかのような口調で言った。レベッカは言葉を封じられる。
『わたしは死ぬが、それについては一切の迷いも悔いもない』
その覚悟の強さに、レベッカは圧倒されてしまう。
『ベッキー、きみは死ぬのが怖いのかい?』
「怖くないと言えば嘘よ」
『なるほどね。それはそうだ。わたしだって怖かった」
イザベラのいっそあっけらかんとした口調に、レベッカは首を振る。
「わたしはあなたほどには強くはないわ。だから死ぬのは怖い。そして死なせるのも怖い。あなたと別れるのが、怖い」
『最後の点についてはわたしも同意かな。だけどね――』
イザベラの声が温度を下げる。
『わたしはきみを倒さなくちゃならないんだ、ベッキー。それができない程度の覚悟なら、わたしは人々に何ももたらすことはできない』
「私もあなたに倒されるわけにはいかない」
レベッカは気丈に応じる。
「あなたの反乱は多くの人々に冷水を浴びせたはずよ。もう十分、理解し得る人は理解できたはず!」
『いいや、まだだよ。わたしの言葉は平等に届かなければならない」
イザベラの冷たい否定を受けて、レベッカはまた口を閉ざす。
『彼らは、人々は、自分たちの頭上に抜かれた剣があって、それがいつだって落ちかかってくる可能性があるってことを身を以て知る必要がある。彼らは自ら知ろうとはしないし、認めようともしない。剰え、その事実を言葉で告げられたとしても、ね。だからわたしは、それを思い知らせてやる必要があるんだ。完全に、抜け目なくね。叡智を授けてやろう、そういう話だ』
「でも、多くの人が!」
『わたしはテロリズムに走ったわけではないよ、ベッキー。あんな下衆な行為に走らないために、わたしはきみとの正面決戦をセッティングしたんだよ』
イザベラはことさら中継を意識した発言をする。
『わたしの目的は、与えられる愉悦に慣れきり、思考を放棄し、自省を棄てた人々への、危機意識の啓蒙なのだから』
「でも……ッ!」
『きみはさ』
イザベラは静かに、ゆっくりとした口調で言った。
『きみの言うことは、その行為は、理念は、悉皆、綺麗事なんだ。綺麗であり続けられるきみを、わたしは素直に称賛するよ。でもね、きみのその綺麗さは、その人としての美しさというものは、わたしのような汚穢があって、はじめて成立するようなものなのさ』
静かな言葉だった。レベッカはまたも気圧される。
『わたしという汚穢をこそぎ落とし、自らの綺麗さを失うか。それともわたしという汚穢と同化し、わたしの目的をより完璧に完遂するための糧となるか』
「選択権なんてないでしょう。今となっては、戦うほかには」
レベッカは生き残った主砲を全て、セイレーンEM-AZに向け直した。そして艦橋に向けて発令する。
「総員、退艦!」
『なんですって、提督』
即座に艦長から応答がある。
『我々だけ逃げるわけにはいきませんよ、提督』
「命令です。ウラニアの全コントロールは現時刻を以て私、レベッカ・アーメリングが掌握します」
『アーメリング提督……我々は』
「みなさん、今までありがとうございました。ご無事で」
――ごめんなさい。
レベッカは小さく謝罪を付け足した。
脱出艇が遠ざかるのを、その場の全員が沈黙の内に見つめていた。
そして、二隻の戦艦が動き出す。
全長六百五十メートルもの巨艦が、わずかニキロの距離まで接近する。
――あなたの正義と、私の臆病な心を賭けましょう。
――わたしの狂気と、きみの正義をか。
――私たちはもう、とっくにどっちも正気じゃないわ。
――ならばお互いの狂気を賭けようじゃないか、ベッキー。わたしはきみを全力で迎え撃つ。きみはわたしと全力で潰しに来るんだ。
――……セイレネスに賭けましょう。
かつてのやり取り。
気付けば二人は真っ白な論理空間の中で正対していた。
イザベラは『セルフィッシュ・スタンド』を口ずさみ、レベッカは唇を噛んで佇んでいた。
「それで、さ。ベッキー? わたし、本気なんだけれど」
「私も本気よ、イズー」
「嘘だ」
イザベラは一言で切り捨てた。
「こんな八百長はやめようよ、ベッキー」
「八百長だなんて……」
「セイレネスだよ、ここは。わたしたちは嘘をつけない。だから沈黙は、すなわち、嘘だ」
「……そう、ね」
レベッカは眉根を寄せる。イザベラは仮面から覗く口元に微笑を浮かべる。
「ベッキー。きみの本当の望みは? 今、ことここに至って、きみは一体何を望む?」
「私は……」
「きみはわたしに殺してほしいと願っているんじゃないの? わたしに全てを押し付けて終わりにしたいとか思っているのではないの?」
「そんなことっ!」
「わたしはそれでも構わないよ」
イザベラはレベッカを軽く抱いた。
「きみの意志がそうであるというのなら、わたしはそれを粛々と受け容れる」
「わたしはあなたを殺したくはない。死にたいとも思ってない!」
「それが傲慢な望みだと、きみはまだわかっていないの?」
「わかってる。私は傲慢で、狡くて、欲張りで! 私の未来予想はいつだって主観的で! それを除けなくて!」
レベッカの吐露に、イザベラはまた微笑んだ。
「いいのさ、それで」
イザベラはレベッカに背を向ける。
「そこに至って、僕はどうするかというと」
「口がきけず、耳も聞こえない人間でいよう。そう考えた」
ライ麦畑で捕まえて、か。レベッカは純白の天井を見上げる。
イザベラはまた言った。
「山賊どもは、彼を留め置いた。ただし」
「芥子の花弁で作った薄紅色の薄い仮面で包むのだ、という条件をつけてだが。笑い男ね」
「さすが。わたしの知っていることは何でも知っているベッキーだ」
「茶化さないで」
レベッカが抗議すると、イザベラはゆっくりと振り返る。
「さしずめわたしは笑い女だ。芥子の仮面は、わたしの居所をたちどころのうちに知らせてしまう。なぜならば、芥子の仮面は、阿片の香りを振りまくからなんだ」
「山賊たちを殺す力があったのに、笑い男は山賊たちを敢えて殺さなかった」
「しかし」
「山賊の頭領の母親は、笑い男の謀略によって死ぬ」
レベッカはそう言ってから、「そう、母親が、私、なのね」と呟いた。
「斯く在るべし、さ」
イザベラはそう言い、レベッカに右手を差し出した。
レベッカはその手を握らぬまま、視線をイザベラの頭上に向けた。
「笑い男は、手に入れた莫大な富を寄付してしまう。残ったお金も全てダイヤに換えて、その挙げ句に海に捨ててしまう……」
「うん、そうだ」
「でも、でもね、イズー。そんなことをしたって、それまでにしてきた罪が消えるわけじゃないわ。赦されるわけじゃないのよ」
「わかっているさ。すべて、わかっている」
イザベラは手を引っ込めると、大股でレベッカに近付いて、その身体を強く抱きしめた。
「わたしだって、怖い。きみと別れなければならないこと。その決断の是非。後悔がないとは言えない。間違いがなかったとは言い切れない。なにより、きみを苦しめたことに、わたしは心から苦しんでいる。ごめん、ごめんね、ベッキー」
「いまさら、謝らないで」
レベッカもその身体を抱きしめる。
「あなたはもう戻らない」
「うん、わたしはもう、戻らない」
二人は強く抱き合った。そして鼻が触れ合いそうな距離で見つめ合う。
レベッカは囁く――「愛してる」と。
イザベラはその表情を仮面に隠す。
「きみのその想いは、わたしにとって最高の宝物だ」
「……ここでは嘘はつけないのね」
レベッカの頬を涙が伝う。
イザベラはゆっくりと離れ、レベッカに背を向ける。
「イズー」
「……うん」
「セイレネスに、賭けましょう」
「セイレネスに踊らされ、セイレネスに弄ばれたわたしたちが、セイレネスに賭ける」
「ええ」
レベッカは泣き笑いの表情を見せた。イザベラは肩越しにその表情を見て、首を振った。
「セイレネスの呪い、解けるといいね」
「次世代の歌姫たちのために」
「うん、そうだね」
イザベラはそう言うと、小さく頷いた。
「それがわたしたちが遺せる唯一のものだ」
イザベラの姿が消える。
レベッカの姿も消える。
白い空間だけが、悄然と残った。