レベッカ姉様……!
マリアの声にならない叫びが、闇の中に消えていく。マリアは、セイレネス・シミュレータを経由して二人のやり取りを見つめていた。マリアの能力があれば、シミュレータを使わずとも鮮明に見ることができたに違いない。しかしマリアは、一片のノイズの混入も許したくない――その一心でシミュレータを使用していた。
姉のどちらかの最期を見ることになる。そして、自分はそれを見届けなければならない。
マリアの強い決意は、シミュレータの管理者であるブルクハルトにも伝わっていた。ブルクハルトはシミュレータルームに現れた憔悴したマリアを見て、黙って筐体のひとつを指し示したのだった。
「レベッカ、姉様……」
マリアの震える声が、ようやく音となる。しかしこの声はレベッカには……もはや、届かないだろう。今の自分にはもはや何もできることはないのだと、マリアは痛感する。
マリア、ARMIA、アーマイア……それぞれに独立した個でありながら、相互に意識を参照し合う不可解な関係にある自分たち。その中にありながら、マリアはひときわ強い無力感、いや、焦燥感のようなものを覚えていた。
ウラニアが、閃光と共に砕け散る。レベッカの意識も、散った。
「姉……様……」
闇の中で顔を手で覆い、マリアは嗚咽する。物理的な闇は、マリアの気持ちをより先鋭にする。レベッカの残り香を少しでも感じられはしないかと、マリアは眉間に力を込める。
「私は、私は……間違えたのでしょうか」
言われるがままに、与えられた使命のままに。マリアの行動原理は、最初は確かにそうだった。しかし、レベッカ、そしてヴェーラとの日常の中で徐々にそれが変わっていった。しかしそれがマリア自身の本心ゆえの行動なのか、それすらベルリオーズによって仕込まれたメソッドの結果なのか、それは今に至っても判然としない。
「レベッカ姉様、ヴェーラ姉様……」
佇むセイレーンEM-AZの白銀の威容は、しかし寂寞として見えた。ヴェーラもまた、泣いている。イザベラという仮面の奥で、ヴェーラは確かに泣いていた。マリアはそれを鮮明に感じていた。
あなたは絶対に、わがままなんかじゃないよ――レベッカの最期の言葉が、マリアの中に響く。
あなたも――。
「レベッカ姉様……?」
マリアは闇の中で目を見開いた。
確かに聞こえた気がしたのだ。愛しいレベッカの声が。
……ありがとうございます、姉様。
マリアは涙を拭いて、深呼吸を繰り返してから、セイレネスからログアウトしようとした。
その時だった。マリアは強烈な浮揚感を覚えた。
「あらあら」
マリアの眼前に銀の揺らぎが現れた。周囲の闇をものともしないほどに荘厳な銀だった。
その揺らぎは語りかける。
「あなたはまだ自分の役割、その配役に迷いがあるのね。私とてユイ・ナラサキであり、ヒトエ・ミツザキではあるのだけれど。でも、それゆえにその気持ちはわからないではないわ。あなたという三軸の歪曲した関係性ゆえの、ね」
「あなたたちの遊戯といっしょにされるのは心外です。私たちはもっと切実な生き方をしている!」
「切実? ……うふふ」
銀の揺らぎが笑う。
「それは否定しないわ、マリア。あなたのその悲劇的なほどに悲観的なその思考。自分たちがなんとかしなければならないのだというその使命感。そのためには己が命すら安いものだという自己犠牲の精神。どれをとっても切実ね」
「ならば揶揄するようなそんな言い方はやめてください」
「揶揄? あらあら、そうね、そうというのならそうでしょう」
銀が人の姿を取る。アトラク=ナクアだ。
「でもね、マリア。あなたには、ARMIAでもアーマイアでもない。あなたにこそできることは、まだある」
「できる、こと?」
「そう」
アトラク=ナクアはその見事な銀髪を闇に遊ばせる。
「あなたの仕事は、むしろ今から始まるのよ。新たなるディーヴァを導き、旧世代のディーヴァたちの生命を無駄にしないようにすること」
「そんなこと、言われるまでもありません」
マリアは毅然と顔を上げる。険しい表情で、アトラク=ナクアの深淵の奈落の瞳を睨みつける。
「私はマリオンとアルマをなんとしても守ります。たとえあなたが、ジークフリートが、いえ、創造主が何と言おうと! あなたがたの思い通りにはさせない。私はもう、失わない」
「私たちを敵にしたとしても?」
「そうです。私は負けない。勝てなくても、負けない」
「それがジョルジュ・ベルリオーズの意志だったとしても?」
「たとえそうであったとしても」
マリアは並々ならぬ決意でそう応えた。
「たとえそれが無駄だとしても?」
「最初からそうと決まっていたとしても、私は絶対に折れたりしない」
「それはあなたの愛しいもう一人の姉、ヴェーラ・グリエールをあの子たちに殺させるという意味だけれど? ヴェーラと次世代の子たちを天秤に?」
「私は、もう、迷わない」
マリアは首を振った。アトラク=ナクアはマリアを正面から抱き締めた。その突然の行動に、マリアは動揺する。
「その意志の輝きは美しいと思うわ、マリア。たとえ被造物に過ぎないあなたであるとしても、それは称賛に値する」
アトラク=ナクアは身体を離すとその深淵の目を細めた。
「そもそもが、悉皆、この世界は私のティルヴィングより生まれた。ベルリオーズにしても私からしてみれば被造物。彼もまた、この世界というスケールに於いては、他の事象との間で軌道共鳴の関係性で以て相補的に成り立っているの」
マリアはじっとアトラク=ナクアを凝視する。
「ベルリオーズの存在も、あなたやヴェーラ、レベッカ、そして多くの人々の存在によって成立させられているのよ。あなたが欠けてもだめ。ヴェーラがいなくてもダメ。レベッカももちろん。そして同時に、ベルリオーズがいなければあなたたちも存在し得ない。それがこの世界の形。須らく在るべき関係性。そういう意味ではこの世界は面白みもない、安定した世界と言えるわ」
「面白みのない安定した世界ですって?」
「そう。たとえどんな悲劇にまみれた世界であったとしても、それ故に願いは生まれる。願いが世界を強くするのだとすれば、悲劇もまた世界のためには必要なのではなくて」
「そんなことのために消費される生命は、意志は」
「不公平だというあなたの気持ちは理解しているつもりよ」
アトラク=ナクアの姿がノイズに包まれ始める。
「でもあの子たちはそうであるがゆえに、こうなる道を選んだ。その他大勢であることを良しとしなかった」
「そもそもその他大勢ではいられなかった!」
「歌姫ゆえにね」
「そうです。最初からそんな」
「人は避けられぬ悲劇、納得できない苦悩を前にした時、再び前に進むために『運命』という言葉を使うの」
あまりにも救いがないではないか。
この悪魔をして、そんなことを言われてしまうなんて。
マリアは奥歯を噛み締めた。
「良いことを教えてあげるわ、マリア」
「……?」
「どの世界にも、どんな世界にも存在するもの。それはパンドラの匣。その中身は真の造物主である私にですら未知なもの。あなたは、というよりARMIAは、パンドラの匣そのもの。あなたがその匣を開けることができたら、或いはARMIAにそれを開かせることができたら、世界は面白い方向へ変わるでしょう。私の知らない世界に変わっていく」
銀の揺らぎと化したアトラク=ナクアの姿が薄れ始める。
「あなたの本当の望みは、まさか」
そう、この世界を私にとっての未知で満たすこと。
それはとても面白そうでしょう?
マリアの意識の中に響いたその声は、痛いくらいにまっすぐだった。