その日の夜、レオノールはエディタたちを引き連れて、マリオンとアルマの部屋を訪ねた。二人と、そしてレニーは、士官学校時代からずっと同じ部屋で暮らしていた。それは軍によって割り当てられた住居であり、当のマリオンたちはさほど疑問にも思わずそれを受け入れていた。レオノールはそんなマリオンを目当てに、ほとんど毎日欠かさずこの部屋を訪れていた。
「マリー」
「いらっしゃ……って、レスコ中佐……!?」
マリオンは目を丸くした。レオノールはマリオンの肩を抱くと、その耳に囁きかける。
「ごめん、集団で。ちょっと入らせてもらって良い?」
「う、うん。ただならぬ事だってことは理解したよ」
マリオンはソファに座っていたアルマを振り返る。アルマは心配そうな表情でマリオンを見つめていた。
「非常事態だから。こんな時間にごめん」
「うん」
マリオンはエディタたちを中に招き入れ、ソファを勧めた。しかし、エディタは壁に背をつけて立ち、首を振った。
「押しかけたのは私たちだ。客人扱いは不要だ、マリオン」
「あ、は、はぁ……」
ハンナ、ロラ、パトリシアもドアのところから動こうとはしなかった。値踏みするように、マリオンたちを見回している。レオノールは髪に手をやってからマリオンとアルマを順に見た。
「マリー、あと、アルマ。いい?」
先に反応したのはアルマだった。ソファから移動してきて、マリオンのすぐ後ろに立っていた。
「あたしたちが指揮官になることが気に入らないって話?」
「簡単に言うとね、そういうこと」
「レオナは?」
「私はマリーが言うことになら何だって従う覚悟だよ。私の話じゃない」
「うん、そうだと思った」
アルマは腰に手を当てて首を振る。そして大きく息を吐いてマリオンの脇をつつく。
「だそうだけど、どう思う、マリー」
「試されるのは心外です」
マリオンはきっぱりと言った。レオンを飛び越え、エディタに向けてだ。マリオンらしからぬ毅然とした態度に、アルマは心の中で口笛を吹く。
「私たちだって自分が指揮官に相応しいとか、アーメリング提督に比肩するとか、ましてやネーミア提督に勝るとか、そんなことを思ったこともありません」
「確かにあたしたちは、S級なんかじゃない」
アルマが言葉を繋いだ。
「鈍いマリーですら、そんなこと知っている。そしてあたしたちは二人。仮にネーミア提督が本当に最強のD級だとしても、あたしたちが手を取り合えば絶対に勝てないなんてことはないと思っている」
アルマはレオノールの右肩を軽く叩き、エディタたち年長の歌姫たちに一歩寄る。アルマはその三色の髪を掻き回してから、剣呑な表情でエディタの美しい瞳を見つめる。
「レオナを使ってあたしたちの本音を聞き出そう。おおかたそういう算段だったと思うけれど」
アルマの明褐色の、ほとんど金色の瞳が、エディタたち四人のV級歌姫をぐるりと見回す。
「あたしたちは逃げない。立場から、責任から、逃げない」
「うん。逃げない」
マリオンが素早くそれを追認する。アルマは腕組みをして、エディタたちに睨みをきかせつつ頷く。マリオンがアルマの隣に並ぶ。左手でアルマの腕に触れ、右手はレオノールの左手をきつく握っていた。
「強力な歌姫になってしまったのも、こんな状況に陥ったのも、こういう立場になってしまったのも……そんなこと、どうやってでも逃げる理由をつけられます。私たちの能力があれば、戦わない事だって、みんなを見捨てることだって、簡単に選ぶことができる」
マリオンの黒褐色の瞳は、揺らいでいた。悲しさではなく、怒りにも似た感情ゆえの揺らぎだった。レオノールはその凛とした横顔に息を飲む。
「でも、逃げない。たとえレスコ中佐たちが私たちには従えないと判断されたとしても、それはそれで良いんです。それは私たちの判断じゃないから。でも、私とアルマ、そしてレオンだけは、絶対に逃げない。ネーミア提督からも、立場からも、責任からも。絶対に逃げない。絶対にです」
「三人で戦争をすると?」
エディタが重苦しく尋ねる。マリオンははっきりと頷いた。
「そうなるのなら、そうでしょう。私とアルマとレオン。三人でイザベラ・ネーミア提督とその艦隊に挑むことになるでしょう、最悪の場合」
「レスコ中佐たちがついてこられないというのなら、そうなるということ。でも、それはきっと、中佐たちのためにはならない」
アルマはそう言ってマリオンとレオノールを振り返る。二人は頷きを返す。マリオンは言う。
「私たちは、何が起きても一緒にいるってそう約束しました」
「一生ね」
レオノールは聞えよがしに付け足した。マリオンはレオノールの手を握り、「うん、一生だよ」と大きく頷いた。
「そして、アーメリング提督の気持ちも、ネーミア提督の意志も、私は殺させたりしない。なかったことにはさせない。そのためには、私たちが自分で動くしかない。これは誰かに言われてやることじゃない。誰かに求められてやることでもない。私たちが、私たちの心で決めて、心に従って動くこと。そうすることでようやく、アーメリング提督とネーミア……いえ、グリエール提督の心が感じられるようになる!」
マリオンは強い語気で言い放った。マリオンらしからぬ音量に、レオノールすら驚いた。
「誰でもない、私とアルマが。次世代の歌姫と呼ばれている私たちが先頭に立たなければ、誰一人何一つ納得しない。もちろん、ネーミア提督も。最強のD級と、次世代最強の私たちが衝突することでようやく、ネーミア提督とアーメリング提督の思い描いた未来への第一歩が開ける。そう思っています」
「マリー、今日はずいぶん喋るね」
「当たり前だよ、レオン」
マリオンはレオノールの左腕を胸に抱えた。
「レオンを利用して私たちを試そうとするなんて。こんな事態にあって、そんな酷い事されるなんて、私……思ってなかった」
「ごめんね、マリー」
「レオンは悪くない」
マリオンはきっぱりと言い切って、レオノールの手を離した。そしてエディタの方へと歩み寄る。三歩程度の距離まで近付いて、マリオンはエディタの顔を直視する。
「ひっぱたいても良いですか」
「お、おい、マリーさすがにそれは」
アルマが慌ててマリオンの隣に並んで右手を伸ばした。
「……好きにしてくれ」
エディタは腕組みを解いて、マリオンに一歩近づいた。その瞬間、レオノールが止める暇もなく、マリオンの右手が唸りを上げてエディタの頬を打った。エディタはかろうじてその場に踏みとどまり、熱を持った左頬を押さえた。マリオンにしてみれば、それは物心ついてから初めて他人へ振るった暴力だった。止めることのできない怒りと衝動に、マリオンは敢えてその身体を任せた。
「いま、私が叩かないと思いましたか、レスコ中佐」
「……かもしれないな」
「甘いと言うんです」
マリオンは明快にそう言い切った。
「甘いのは私たちじゃない。私は悲しみを乗り越えた。私は家族をみんな殺された。そして憧れの人だったヴェーラは、自らその命を絶った。そしてイザベラとして蘇った――胸の裂けるような想いを胸に。そして……私は本当に大好きだったレベッカとお別れしなくてはならなかった」
マリオンの唇が戦慄いている。
「悲しみは相対的なものじゃない。だけど、私にとっては間違いなく耐え難いもの」
「ああ」
アルマが鼻をすする。
「あたしの家族もみんな、あの八都市空襲で死んでしまった。ずーっとその喪失感にやられて生きてきた。それを埋めてくれたのが、マリーであり、レオナであり……レニーだった。だけどレニーは死んでしまった。簡単に殺されてしまった。あたしはまた喪失った。だけど、これ以上は、絶対に失いたくない。大切な人も、提督方からの信頼も!」
アルマは両手の拳を握りしめる。掌に爪が食い込んでいて、その痛みで正気を保っていた。
マリオンは再びレオノールに寄り添う。
「先輩方は、それなら……私たちを排斥してでもこの事態を打開できるとでもお考えですか。それとも、今からネーミア提督に合流するとでも」
「……いや」
エディタは首を振った。
「私たちが悪かった。浅慮だった」
赤く腫れた頬を隠すこともせず、エディタは頭を下げた。
「君たちの覚悟は、私たちの想像を遥かに上回っていた。前が見えなくなっていたのは、きっと私たちだったんだろう。本当にすまなかった」
エディタは言い、レオノールを見た。
「約束通り、私たちは全員、君の指揮下に入る」
「マリーとアルマの指揮下ということですよ、中佐」
「ああ、それでいい」
エディタは真剣な顔でそう言った。
「行くぞ」
エディタはそう言うとハンナたちを連れて出ていった。
「ごめん」
見送ったレオノールは、室内に戻ってくるとマリオンを抱き締めた。
「だからレオンは悪くないって」
「でもさぁ」
アルマがソファに戻りながら言う。
「ひっぱたいたのは痛快だったよね。びっくりした」
「自分でもびっくりしてるよ」
マリオンは右の掌を広げて見つめた。少し赤くなっているようにも見えた。
「暴力は良くないとはわかっていたけど、どうしても止められなかった」
「マリーは他人のために怒ったんだよ」
アルマは携帯端末を眺めながらやんわりと言った。レオノールも頷く。
「暴力の是非は置いといて、だけど、マリーの想いは伝わったと思う。言葉より明確に」
「それ、たぶんよくないと思う」
マリオンは反省しきりという表情で俯いた。
「たぶん、言葉を放棄しただけだったと思う。これじゃネーミア提督と同じ」
「……かもね。だけど、そんなマリーだから、ネーミア提督も、アーメリング提督も、未来を託したんじゃないかな」
「ネーミア提督は査定中ってところだと思う」
マリオンはレオノールの胸に頭を預けながら呟いた。
「まぁ」
アルマはいつの間にかキッチンでインスタントコーヒーを淹れていた。
「レオナに取られちゃったけど、あたし、マリーのそういうとこ、好きさ。立場はともかく、あたしはマリーを助けるし、マリーの指揮には従う」
「同格なのに?」
「直接託されたのはマリーだ。ただ、その責任だけはあたしにも分けてもらう」
「責任?」
「人を殺す責任」
あっさりと言い放たれたその言葉に、マリオンは沈黙する。
「あたしは逃げないよ。それはね、マリーが絶対に逃げないって確信があるからだ。な、レオナ?」
「言ってしまえばそういうこと、だね」
レオノールは穏やかに肯定して、マリオンの頭を撫でた。
その時、レオノールの携帯端末がポケットの中で音を立てた。
「……カワセ大佐からのメッセージだ」
「なんて?」
「至急、集合。シミュレータルーム」
「私には来てない」
「あたしにもないな」
レオノールはマリオンを引き剥がすと、「ちょっと行ってくる」と右手を上げて出ていった。