闇の中にて、その戦いの一部始終を見下ろしている姿がある。銀髪に赤く輝く左目の持ち主、ジョルジュ・ベルリオーズである。
「レメゲトンは?」
「順調よ」
傍らに現れる銀の揺らぎ。ベルリオーズは冷たく微笑む。
「やはりレメゲトンを励起させるためには、あのくらいのエネルギーが必要だったということだね」
「ナイアーラトテップ程度では力不足だったということね」
「そうなるね」
ベルリオーズは熾烈に燃え盛る薄緑色の輝きを眩しそうに見た。
「もっとも、時間なんていくらかかっても良かったんだけどね。でも、こっちのほうが手っ取り早い分、僕の好みではある。それにしても、エキドナ……。実に良い触媒じゃないか?」
「マリアに聞かせてあげては?」
「全く悪趣味だね、君は」
ベルリオーズは影の濃い能面のような微笑を見せた。銀――アトラク=ナクアは、変わらず揺らいでいる。
「だって私、悪魔ですもの」
「そうだった。メフィストフェレスという配役だったね」
忘れていたと言わんばかりにベルリオーズは言う。銀は大きく揺らいだ。笑ったかのようだ。
「それはそうと、マリアはどうするつもりなんだろうね」
「新たなD級たちを守るつもりでしょう。姉たちを喪失したことは、あの子にとっては巨大なダメージになったでしょうから」
「はは、見世物だね」
「ええ、見世物、ですね」
二人は声を立てず、しかし、確かに笑った。
「できると思うかい、マリアに」
「できない、とは言いませんけど、ARMIA自身がどう決断するのか次第、でしょうね」
「アーマイアは?」
「あの子は淡々とレメゲトンの素材を作り続けるでしょうよ。あの子はそもそもがよくできた自動人形のようなもの」
「そう。そうか」
さほど関心なさそうに、ベルリオーズは相槌を打つ。そして「ああ、そうだ」と軽く手を打ち合わせた。
「セラフの卵は?」
「この戦いの影響で、確実に」
「ふふふ。そうか」
ベルリオーズは満足げな表情を見せて腕を組んだ。
その眼下では、マリオンとアルマに率いられた第二艦隊が撤退を初めていた。今回は痛み分けといったところだろう。実証実験のために、これは実に都合の良い戦いだった。セイレネスの衝突の機会も一つ増える。
「データは順調に採れているね」
「ならば、ベルリオーズ。エキドナはどうするの? セイレーンEM-AZにぶつけるのが最良と思えるけれど?」
「いや、結果を焦ってもいいことはないさ」
ベルリオーズは首を振る。
「エキドナはもう少し温存しよう。アレはしばらくは替えがきかない。カティは実に良い素材だし。彼女にはもう少しこの世の地獄を味わってもらおう」
「そうですか」
銀はフラットな声で応じ、姿を消した。闇から海域の様子が消え、周囲は再び闇に落ちる。
「これで僕の仮説はようやく裏付けられたというわけだ」
満足気に頷くベルリオーズには自身を取り巻く無数の数式が見えていた。
強力な歌姫たちによる衝突の結果、多くのセラフの卵たちが孵る。そして地に満ちたセイレネスは対消滅を繰り返す。莫大なエネルギーとともに。その動きは指数関数的に拡がり、やがて、論理層と物理層の境界はその存在意義を失うことになる。
そこに金の揺らぎが現れた。
「それはあたしたちの思う壺でもあるのよ、ベルリオーズ」
「どうだか」
ベルリオーズは冷笑を見せる。
「この行為の帰結によって、上位層の概念さえ失われることになる。論理層の君たちと、物理層の僕たち。どっちが支配権をとることになるのか、それはセイレネスによって未知となった」
「愚かな仮説よ、それは」
「そうかな?」
ベルリオーズのおどけた様子に、金は大きく揺れた。
「そもそも、あなた。セラフの卵を持たない者たちをどうするつもり? あれは万人にある要素ではないでしょう? 上位層へのアクセスを持たない者たちは、あなたの言うところの二層の合一の妨げにしかならないわよ?」
「ははは、そのためのレメゲトンだし、そのためのセイレネスだよ、ツァトゥグァ」
「まさか――」
ツァトゥグァの揺らぎが更に大きくなる。ベルリオーズの左目が真っ赤に燃え上がる。
「そのまさか、さ」
「あなた、人類史上最悪のことを」
「そう、僕は悪魔さ、もはやね」
ベルリーズはそう言ってから、はっきりと付け足した。
「同時に、神だ、とも言える」
「あなた、本気なの」
「今はそう、フィンブルの冬とでも呼ぶべき頃合いなのさ、ツァトゥグァ」
フィンブルの冬――神々の戦争の前に訪れると言われる、三度の冬。
「あなたはアトラク=ナクアの囁きに惑わされているだけよ、ベルリオーズ。人間風情が、そんな尊大な――」
「ティルヴィングを得た僕はジークフリートを生み出し、そしてその力によりこうしてバルムンクを手にした。その時点で、僕は君たちの頸木から解き放たれたのさ。僕がアトラク=ナクアと同調しているのは、別に強制されたからでも誘導されたからでもない。むしろ、彼女のほうが僕に同調しているのさ」
「不遜な!」
「ははは!」
ベルリオーズの乾いた笑いが闇に響く。
「僕はジークフリートと一体と化したその時から、この物理層の全ての事象を知っている。あらゆる可能性を認識している。だから、僕はセイレネスによって門の破壊をしなくてはならないという結論に至ったんだ。いや、同時にそれしか手段はないということもね」
「それは……」
物理層と論理層の合一のみが、ベルリオーズにとっての未知、だから? ――金は揺らぐ。
「そうさ。僕にティルヴィングを与えてくれた君たちには、僕はこの上なく感謝している。でもね、君の役割は終わったんだ、ツァトゥグァ。層の合一のその時まで、君が干渉する余地なんてないさ」
「何を馬鹿なことを!」
「君には深淵の奈落の底こそがお似合いなのさ、ツァトゥグァ」
「あなた風情にそんなことができるとでも」
「気付かないのかい?」
ベルリオーズは彷徨う数式たちを停止させた。
金の揺らぎも停止した。
「このバルムンクの闇は、僕の創り上げた魂の牢獄のようなものさ。無限に続く円環の理に、君も囚われると良い』
バルムンク、発動、 モジュール・タルタロス――。
ベルリオーズが無慈悲な声で呟いた。
金の揺らぎが、消失した。