29-2-1:断罪

歌姫は背明の海に

 二〇九九年一月一日未明――。

 イザベラ率いる反乱軍と、マリオンとアルマに率いられた討伐艦隊は、ほんの三十五キロの距離で向かい合っていた。討伐艦隊の索敵ドローンが反乱軍をようやく検知できたのが、この極至近距離だった。一方、イザベラは三百キロ以上離れたポイントからずっとマリオンたちを追跡していた。イザベラはマリオンたちに随伴してきていた第七艦隊を引き離すことに成功していた。また、エウロス飛行隊の新母艦、戦艦空母アドラステイアも、アーシュオン艦隊の迎撃に向かっていたから、すぐには駆けつけられない。――好都合だった。

「私が仮面を被る者グリームニル、ベッキーを黄金の力グルヴェイグとするならば、きみたちの艦隊はさしずめ輝く者スキールニルということになるだろうか」

 イザベラによるため息まじりのその言葉には、わずかながら期待のようなものが込められている。それはとなり、マリオンとアルマにも届いたはずだった。

「いずれにせよ、邪魔が入らない状況はありがたい。クロフォード提督もそうだが、カティはこういう時、本当に容赦がないからなぁ」

 暗黒の部屋の中で、それからイザベラは雄弁に口を閉じる。

 イザベラたちの艦隊の背後から太陽が昇り始める。影がイザベラの前に伸び、灰色の海がかすかに色付いた。

『ヴェーラ! ヴェーラ・グリエール!』

 呼びかけてきたのはマリオンだ。その隣にアルマの気配もあった。レオノールの影もある。

『あなたの怒りは、私にもわかります。わかる気がします』

 ニ隻の制海掃討駆逐艦バスターデストロイヤーが突出してきた。そのすぐ後ろにはレオノールの重巡ケフェウスをはじめ、五人のV級歌姫ヴォーカリストが控えていた。マリオンとアルマによるPTC完全同調コーラスが海域を包み、後ろに控える歌姫セイレーンたちの力を強力に増幅させていた。

 こいつは手強いな。

 イザベラは苦笑する。

 マリオンは叫ぶ。

『私はあなたの想いに歯向かうことはできない。けれど!』
『レニーを殺したことだけは、許せない』

 アルマの静かな怒りが追随する。

『たとえどんな主張があったとしても、理想があったとしても、あたしはレニーを失った。あなたのせいだ』
「そうか」

 イザベラはその怒りを真正面から受け止めた。

「確かにわたしはいろいろなものを犠牲にした。わたしにとって最も大切な、愛する人すら。きみたちだって被害者だ」
『どうしてそこまでして!』

 マリオンの至極もっともな疑問が届く。

 イザベラは首を振る。

「わたしには他に手段がなかったのだ。わたしたち、歌姫セイレーンなどと名付けられて利用される消耗品たちの未来のために、我々もまた、自らの身体と言葉を持つのだと、そんな簡単な事実を証明してみせねばならなかったのだよ」

 海はまるで凍りついたかのような、明鏡の様態を見せていた。風も完全に止まった。

「言葉で伝えたところで、彼らは己らに都合よくしか理解しようとしない。力を見せつけても、それが自らに落ちかかって来ることになど思い至れない。哀しいことに、それが人だ。だが、わたしはそこで諦観に至ることはできなかった。なぜなら、そうである限り、我々は彼らにとって都合の良い道具で終わることは明白だったからだ。彼らを快楽に耽溺させる、そんなに過ぎないのだとね」

 イザベラの静かな声に、しかし、アルマは退かなかった。

『だからといって、ヤーグベルテをこんな方法で、こんな犠牲を出してまで脅迫して! どうして! あたしたちがこうして戦わされるのなんて、はじめから分かっていたはずなのに! どうして!』
「原因はきみたちにある」

 イザベラは鋭く言った。

 金色の朝焼けが、イザベラの意識の目を背後から焼いていく。

 背明の艦隊は、行く末に影を落とす。

 陽光の温かさも、冬の海の凍える寒さも感じない。

「きみたちのおかげで、わたしはこの行為に走る決意を固めることができた」

 新しいディーヴァによる世代交代。自らを生贄に差し出しても国家は滅ばぬという保障――政治的背景。イザベラが、さらなる一歩を踏み出すための決意は、それらによって固められた。

『あなたは、まさか』
「そのまさかだよ、マリー」

 イザベラは静かに肯定する。

「わたしもベッキーも、この日が来るのをずーっと待っていたんだ。何年も、ね」

 ため息が漏れる。そう、待っていたのだ。望んでなどいなかったけれど。

「わたしはかつて、一度死んだ。それによって顔を失った。でも、それによってわたしは本当の自分というものを手に入れた。偽らなくても良い、本当の自分というものを、ね」

 という呪縛を捨てたのだ。ヴェーラという鎖で雁字搦がんじがらめに縛られていた自分から抜け出したのだ。

「しかしね、ベッキーは違った。あの子はわたしほど無責任でもなければ、逃避も望まなかった。だけど、あの子は知っていたんだ。全てを。そのうえでベッキーはセイレネスに賭けた」
『あたしのふねが故障したのさえ、その仕込みだったと』
「もちろん。その件はベッキーも承知していたさ。もうすでに知っているとは思うけれど、この反乱自体、わたしとベッキー、そしてマリアが仕込んだ茶番劇のようなものさ」
『そんな茶番劇のために、レニーを殺したと言うんですか!」
「わたしではない」

 イザベラは憤然として言った。アルマが絶句したのがわかる。

「レニーを殺したのはわたしではない」
『でも、軍の発表でも、ニュースでも!』
「おいおい。愛はそこまできみを盲目にさせたのかい。あんなものをどうして信じるんだ」
『嘘……嘘だ』

 アルマの声が震えている。

「今、ことここに至って、わたしがそれを訴えたところで誰も聞きやしない。マスコミお得意の捏造報道だってことに、きみは思い至れなかったのかい? ニュースや彼らのうそぶく世論のようなものなんて、所詮は彼らの主張に合致するように練り上げられた創作物に過ぎない。彼らはわたしを完全なる悪だと断じ、退路を絶とうとした。そのためなら、どんな情報の使い方でもするさ」
『そんな!』
 
 アルマの声が限界まで震えていた。マリオンは息を殺してたたずんでいた。

 イザベラは空のグラデーションが次第次第に明るくなっていくのをややしばらく眺めてから、マリオンたちのふねに視線を向けた。

「さて、前座は終わりだ。舞台の幕を上げよう」
『待って、ヴェーラ! どうしても、どうしてもやらなくちゃならないの』

 マリオンだった。イザベラは数秒の猶予を与えることにした。

『もうみんな理解したよ。理解してくれる人、理解しようとしてくれている人は確実に増えた。もう十分だよ、あなたの主張は、きっと生きている』
「はははははははは! きみは実に純粋だね」

 イザベラはニ隻の制海掃討駆逐艦バスターデストロイヤーを睥睨する。

「だがね、マリー。それこそ妄想であり、妄言なんだよ。わたしたち歌姫セイレーンという化け物モンスターの言葉など、誰も聞きはしない。己の身に危機が及んで初めて、わたしたちが決して従順なペットなどではないと、理解する!」
『私たちは化け物モンスターなんかじゃない!』

 イザベラは自嘲するような表情を見せた。

「わたしのこの姿を見たら、あの連中はわたしたち歌姫セイレーンについての認識を改めざるを得ないだろう。この化け物のような姿を見て、あのヴェーラ・グリエールがこの変わり果てた姿で、あまつさえ自分たちに雷霆ケラウノスを向けている。このエゴだらけの戦をもたらし、国家に少なくない打撃を与えることになる。彼らの抱える偶像は砕け散るだろう!」

 イザベラは仮面サレットを投げ捨てた。その姿はセイレネスを経由して、論理回線を伝って本国に届いたことだろう。テレビ中継の中にもすぐに反映される。番組生成用のAIたちがこぞって取り入れたのだ。

「我ながら醜悪だ」

 イザベラは唇を歪める。

「だが、これで視聴者たちの記憶には永遠に残り続けることになっただろうさ、このわたし、最も醜い歌姫セイレーン、ヴェーラ・グリエールの醜怪な姿とともに、この行為がね」

 この時のために、ヴェーラはイザベラでり続けたのだ。

「さぁ、行くぞ! きみたちでこのどうにもならない、この現今を変えられるのか。愚昧にして蒙昧な連中共に見せつけられる何かを創り出せるのか。わたしという歴史の汚穢を払拭できるほどの光を生み出せるのか。這い寄る混沌どもをぎ払うことができるのか!」

 わたしにできることといえば、せいぜいがここまでだ。

 イザベラは大きく息を吐いた。

「マリー、アルマ! わたしの期待に応えてみせろ! きみたちのセイレネスの歌を、聞かせてみせろ!」

 セイレーンEMイーエム-AZエイズィの艦首PPC――雷霆ケラウノスが起動し始める。全ての火砲が、ニ隻の制海掃討駆逐艦バスターデストロイヤーを狙っていた。

『わ、私はっ!』

 マリオンは諦めなかった。

『私は、あなたを連れ帰る!』

 強くて純粋な決意の現れ。そ之言葉はイザベラには眩しすぎた。しかしそこに、ほんの少しの安らぎを覚えてもいた。この子たちなら、わたしたちのように絶望に直面したとしても、わたしと同じ轍は踏むまい――そんな安らぎだ。こんな悲劇の茶番を演じるのは、わたしが最後にならなくてはならないのだ。

「よろしい」

 イザベラは仰々しく言った。

「ならば、行くぞ、マリー、アルマ」

 イザベラは背後を振り返る。陽光に照らされた、自分に着いてきてくれた歌姫たちの残存艦二十七隻が展開し始めていた。

「最後の命令だ。第一艦隊グリームニル。戦闘行動を開始せよ」

 もはや何もかもが手遅れなんだ。

 きみの懺悔は、わたしには少々重すぎたのかもしれないよ、マリア。

 イザベラは仮面サレットを被り直し、こぼれかけた涙を隠したのだった。

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