30-1-1:無力な善意

歌姫は背明の海に

 薄紙を破るかのように、C級歌姫クワイアたちの小型艦艇が粉砕されていく。マリオンとアルマのPTC完全同調コーラスを前にしては、C級クワイアでは文字通り歯が立たなかった。一切の反撃の余地もない。制海掃討駆逐艦バスターデストロイヤーがたったの二隻で戦場を蹂躙しているのだ。

 マリオンもアルマも泣いていた。イザベラには伝わってくる。抑えようのない激情が伝わってくる。

『ヴェーラ・グリエール! もういい! もうやめさせて!』

 マリオンが嗚咽を漏らす。

「それはできない相談なんだよ、マリー」

 アキレウスに向けて、主砲弾を一発お見舞いしてやる。だが、極至近距離であったにも関わらず、その弾道は大きくじ曲げられた。予想外の出来事に、イザベラは思わず声を上げる。

 マリオンは鬼気迫る様子で叫んだ。

『あなたの歌ったセルフィッシュ・スタンドは、痛みのある歌だった! 悲しくて、つらくて、でも、そういうのを全部認めて。その無念さを、苦しさを、みんなに共感させる歌だった! みんなが共感したから、あれだけ受け入れられた! 違いますか!』
「はは、痛み、か」

 イザベラは病的に笑った。

「確かにそうだな。わたしはあれを通じて、わたしという人間の感じた痛みを理解して欲しいと願ったのさ。そしてあれはわたしも驚くほど。しかしな――」

 イザベラは無意識に右手を握りしめていた。

「血に染まったわたしのこの手は。に染まったこの身は。あの歌とは結び付けられはしなかった。人々にとっては、わたしは歌う。人を殺し、歌を歌っていればそれでよい。それだけの存在にしかなれなかった。わたしは願った。万人の幸福。脅かされることのない社会。戦争のない世界。冬の果ての常春。冬来たりなば春遠からじ――そう言い聞かせ、わたしは耐えた。耐え忍んだ。いや、耐えようとした。ベッキーと二人で、とにかく身を寄せ合い、抱き合い、耐えようとした。そんな日々の、艱難かんなんの日々の末に生み出されたのがあの歌だった」

 小さく唇を噛み、イザベラは首を振る。

「わたしは何一つ変わっていない。ただ美しい顔で美しい言葉をさえずるのをやめただけだ。人々にとって耳あたりの良い言葉をつむぐことをやめただけだ。優しく聞こえるだけの言葉を捨てただけだ。見てみろ、振り返ってみろ。仮面を被ったわたしが、ヴェーラ・グリエールだと看破できた人間はあまりにも少ない。それがなんぴともわたしの本質を見ていなかったことの証左だ」

 情報工作は確かに行った。だが、それにしたって。

 イザベラは暗黒の連結室の中で腕を組む。

「わたしたちが十数年もの苦心惨憺の末に何一つ成果をあげられなかったというのに、わたしがこの艦の砲を彼らに向けたその途端に、社会は変わり始めた。激変した。人々は歌姫セイレーン、ちがうな、きみたちだ。きみたちに尻尾を振り始めた。彼らは今、きみたちに向けて祈っている。諸悪の根源、イザベラ・ネーミアを殺してくれますようにとね。極めて利己的な祈りだ」
『それは! 誰もが武器を向けてくる相手に友好的にはなれないじゃないですか!』
「そうだな、アルマ。だがね、こうすることでようやく、歌姫セイレーンというものと人々との距離は近づいた。それは事実だ。極めて利己的であろうと、ようやく彼らは歌姫セイレーンというものが無条件に自分たちを守ってくれる存在ではないことを知り、その歌姫セイレーンを、きみたちの力を持ってしてももしかしたら勝てないかもしれない存在がいることを知った。すなわち、わたしだ」
『絶対無敵、無条件の庇護者ではないと、人々は知ったということですか』
「そうだ。理解できただろう、ようやくな」

 彼らはこれまでその簡単な現実を、単純な事実を、理解しようとさえしていなかった。

「彼らにはこれまで幾度もチャンスがあった。変われるチャンスが。なのに、彼らは無条件の勝利という享楽にひたった。わたしたちの最期の歌断末魔で快楽に酔った。彼らはわたしたちという生贄を捧げ、それによる安寧を手に入れた気になっていた。彼らは無自覚な殺人者たちだ」
『でも!』

 マリオンが割り込んだ。

『それはそうですけど、でも、だって、そうじゃないですか!』
「……ほう?」
『人は、不幸にならなきゃ、それまで幸福だったなんてことに気が付きません。私だって、そうです。八都市空襲で家族を皆殺しにされて、それでようやくそれまでが幸福だったことを知りました。あなたやレベッカが現れてからは、二人が守ってくれるから大丈夫――そう言い聞かせて生きてきました。それしか寄るがなかったんです。自分たちにもなにかできないか、必死で考えた。考えました。でも、何もできなかった。だから軍の人に士官学校、歌姫養成科にスカウトされたときは本当に嬉しかった。二人のそばにいられるんだと思うと胸が高鳴りました。二人の役に立てるんだと思うと不安もあったけど、嬉しかった。でも、それは私にたまたま歌姫セイレーンとしての能力があったから。歌姫セイレーンではない多くの人の、その中の少なくない人は、私と同じ気持ちだったはずです!』

 マリオンの震える声に、イザベラは沈黙する。

『私にはわかる。全部でもない。大半でもない。けど、少なくない人が、私たちに寄り添ってくれていること。あなたは声の大きい無情な人たちの声を聞きすぎた。私たちのような大きな声を上げられない人を見過ごしてしまった』
「届かぬ声はないにも等しいのさ」
『悪意というのは、より目につく色をしているものじゃないですか。突然の不協和音のように、意識を持っていかれるものじゃないですか。多くの調和というのは、そうだからこそ意識に上らない。その調和こそ、人々の善意だと思うんです』

 マリオンらしからぬ強い口調に、イザベラは確かに一瞬気圧けおされた。

「しかし、彼らは生贄の絞首台に向かうわたしたちを止めようとはしなかった。そして実際に止められなかった。そんな無力な善意に、当事者にとってなんの意味があるだろう」

 ヴァリーもまた、政治の都合で殺された。誰も彼を守らなかった。わたしの声を聞かなかった。

「そんな無力な善意にすがっていてはわたしのみならず、きみも、きみの次の代の歌姫セイレーンもまた、同じ想いを抱くことになるだろう。わたしは……わたしはいい。事ここに至っては。だが、わたしとベッキーが作り上げてしまった、この歌姫セイレーンという偶像アイドルをわたしは力をもって破壊せねばならぬ責任がある。誰あろう、このわたしが始末をつけねばならぬと考えた」

 がイザベラの周囲に満ちてくる。その支離滅裂な音の群れはやがてひとつの歌に昇華されていく――セルフィッシュ・スタンドだ。聞き慣れすぎたそのメロディを捕まえ、思わずその一節を口ずさむ。辛い思い出に紐づけられた、悲哀の歌だった。

『わかる、わかります、提督』

 アルマの感情を抑えた声が聞こえてくる。

『あなたの理想。言いたいこと。したいこと。その理由。あたしには理解できた。でも、だめなんですよ。時間がかかるとか、理解されないとか、責任がどうとか。そんな理由でを棄てちゃダメなんです。武器で言うことを聞かせようとしたって、力なき善意の人を奮い立たせようとしたって、そんなのダメなんです!』
「きみはなぜ泣くんだい、アルマ」

 イザベラは静かに問いかける。

「理解できているからだろう? そんなものは幻想だということを。そうだ、なんかでは、平和の実現なんてものは不可能なんだと。優しさだけでは、善意だけでは、世界は何も動かせないのだと」

 朗々たるその言葉は、完全なる一枚岩モノリスのようで、付け入る隙がなかった。

「誰かが犠牲になるか。あるいは、誰かを犠牲にするか。世のなんていう戯言ざれごとは、そうして実現されてきた。歴史を見てみるんだよ。世界中の人々が、一つの争いもなく平和に過ごしていた時代なんてあっただろうか? 誰かに悲しみを背負わせるなんてこともなく、共苦し、そして共栄することができていた時代なんてあっただろうか。生贄制度がなくなった社会なんて存在するだろうか。ないだろう?」

 イザベラは畳み掛ける。二人の少女に、イザベラは反論の余地を与えない。

「ならば! ならば、犠牲が必要であるというのなら、世界が生贄を欲するというのであれば、強引にでも真の平和をじ込んでやるべきではないのか。時代に差し出される生贄たちの想いのためにも。ほんの数年であったとしても、たとえその根本が誤謬ごびゅうであったとしても、万人が平和だったと思える時代があったとしても良いと言えるのではないか?」

 イザベラはその理想を実現するために、取り得る最短にして最適な手段を選択していると信じていた。しかし、その一方で、本音の部分ではそれが正解だなどとは思っていなかった。

 イザベラは語る。

「人類がなどという複合語を開発してから何百年がった? それを開発した連中の言い及ぶとはどの範囲だ? 目に見えるところだけか? 知り合いの間だけか? 否、それすらも怪しい。自分の住む町の片隅で何が起きているのかさえ関心を持てない程度のキャパシティの人間の語る世界など、そんな程度の視野の者が語るなど、まさに大言壮語、笑止の至りだ!」

 戦場は沈黙していた。敵味方を問わず、全ての戦力がイザベラの言葉を沈黙のうちに聞いていた。

「聖人と呼ばれる人々は確かに幾人も存在しただろう。だが、その末路を知るがいい。概して悲惨な最期を遂げさせられている。そして聖人たちをしても世界は変えられなかった。たとえば非暴力を貫いた者、たとえば人類の平等を説いた者。彼らによって世界はほんの少し変容したかもしれない。だが、その存在発生の理由も、その意志が継がれた理由も、元を正せば理不尽な暴力と支配と抑圧だ。それにより、その他大勢の善意たちが一時的とはいえ変わった。そして世界はほんの少しだけ良くなった。――人と世界は、恐怖によってのみしか、成長しない」
『でもっ!』

 アルマが声を奮い立たせる。

『でも、だからといって! こんなことをしてしまったら! 力で人々を恐怖させるなんて。そんなことしたら! あたしたちの歌はただの暴力装置になってしまう!』
『あなたの歌は、平和のためにある歌じゃないんですか』

 マリオンがいだ。

『あなたの、ヴェーラのは平和のためにある。祈りなんじゃないんですか。戦争を後押しするものじゃない。戦争はこんなにつらいんだよ、こんなに苦しいんだよ。だけど、前を向いていこうよ。一緒に歩いていこうよ。あなたの歌には――!』
「ははっ、綺麗事さ」
 
 イザベラはむず痒さを覚える。

「十年も経てばわかるだろう。そんな想いはただの希望なんだと。幻なんだと。兵器はしょせん、兵器なんだ。それ以上にはなれない。それ以外にもならない。核兵器が戦争を抑止すると言われていた時代があった。けど、結局は核兵器を使わない兵器が発達しただけだった。という大看板を掲げたにもかかわらず、それらはより効率的な戦争を行うための大義名分にすらなった。しかし、核がやつらの超兵器オーパーツによって空気と化して、そこに登場したのがわたしとベッキーだ」
『兵器、として……』
「そうだ、マリー。わたしたちの個人は無視され、兵器として、また、偶像アイドルとして利用された。核よりも圧倒的にクリーンで、さらには依存性まで備え持った戦略兵器。アーシュオンは量産に乗り出し、他国もおそらくその流れに乗るだろう。ヤーグベルテが生首歌姫を作る日が来ないなんて都合の良いことは考えるべきではない。戦争の形は変わるだろう。きみたちの時代に、確実に戦争は変わる。なくなりはしない、決して。ゆえに、きみたちは考えねばならない。選ばねばならない。兵器であるか、人間であるか」
『あたしたちは、人間です!』

 即答したのはアルマだった。

『あたしたちは兵器じゃない。消耗品でもない。あたしたちは訴え続ける。言葉をてない。あたしもマリーも家族も友人もみんな一晩で失った。けれど、あたしたちはまだ、そこまで絶望してはいない。強いて言えば、こんな事をしなくてはいられなかった、あなたのその苦しみを覚えて絶望しています』
「ふふ、そうか。わたしの絶望を知る、か」

 イザベラは仮面サレットの奥で目を細めた。

 遠い西の空に、優しく激しい気配を感じた。

 もうあまり時間がない。

 イザベラは頷き、その気配の方向に向けて小さく手を振った。

「きみたちの純粋な優しさにつけこむような真似をしてしまって済まない。きみたちのその美しい水晶のような心に傷をつけてしまって済まない」

 そう言って、イザベラはシートに身体を深く預けた。

「全艦、戦闘行動を再開せよ」

 冷徹な号令が、暗黒のセイレネス連結室に響いた。

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