くそッ!
カティは思わず計器類を拳で叩いた。頑丈なハードウェアたちは鈍い音で抗議し、カティの拳に鈍い痛みを与えた。
イザベラの、否、ヴェーラの覚悟の重さは、カティの想像を遥かに超えていた。悲痛で悲愴な決意の塊だった。
カティの到着を待つことなく、イザベラ麾下の第一艦隊が全滅する。
『よく、頑張ってくれた……』
ヴェーラの深い溜め息とともに、その労いの言葉は消滅していく。カティは胸の奥に鋭い痛みを覚え、手を固く握りしめたまま、その左胸に押し当てる。
『わたしも、すぐに行くよ』
ヴェーラはそうとも言った。
「待ってろよ! 待ってろよ、くそっ!」
いつぞやの約束が、その時の光景が、カティの中に蘇る。
その時は、あなたが殺して――。
そんな約束はくそったれだった。守ろうとなんて思わない。そしてそれ以上に、レベッカ亡き今、自分以外がヴェーラを傷つけるなど、あってはならないことだった。
「ヴェーラ! 見えているんだろう!?」
カティは叫ぶ。カティの目にも、水平線上に浮かぶ超巨大戦艦セイレーンEM-AZの姿が見えてきていた。薄緑色の炎が艦を包みこんでいる。
……?
音……?
先程までとは違う、目の覚めるような鮮やかな音の群れがカティを包みこんでいた。
『今、同調が起きています』
マリアが告げた。カティは眉根を寄せて「意味は?」と尋ねる。
『セイレネスに共感することで、彼我のセイレネスの能力を高め合うスキルのようなものです』
「立場をも超えて、か」
『肯定です』
そう答えたマリアは、感情を完全に消していた。
カティの目には、セイレーンEM-AZと、ニ隻の制海掃討駆逐艦――アキレウスとパトロクロスが、まるで蛍のように呼応しながら明滅する姿が見えていた。
『やはりわたしの力に同調するか。さすがだな、マリー、アルマ』
ヴェーラの呟きがカティの中に明瞭に響く。
その直後、カティは身体一つで何も無い空間に放り出された。
「!?」
あまりの急展開に、さしものカティも驚愕を禁じ得なかった。その闇とも影ともつかぬ空間の中に、ふわりとマリアが姿を現した。
「カティ、ここはセイレネスの論理層、バルムンクの一部です」
「意味がぜんぜんわからないんだが」
カティはマリアに近づこうと足を進める。だが、どういう原理なのかマリアとの距離が十メートルばかりのところから、一向に縮まらない。
「わかる日は……きっと来ます」
マリアがそう言ったその瞬間、その何もない空間に音が満ちた。まるでオーケストラのように、多種の音色が組み合わさり、昇華し合った。壮大な音の群れは、やがてひとつのメロディラインを描き始める。言うまでもない。あの『セルフィッシュ・スタンド』のメロディだった。
マリアの向こうに、ヴェーラとマリオン、そしてアルマの姿が見えた。ヴェーラは二人を抱き締めていた。
『泣かないで、マリー、アルマ』
ヴェーラの優しい声が、カティに届く。カティは息を切らせて走っていたが、どうやってもヴェーラとの距離が縮まらない。それでもカティはヴェーラを呼びながら手を伸ばし続ける。
『きみたちだけにでも、わかってもらえたのなら幸せだよ、わたしは』
ヴェーラの囁きに、カティは首を振った。「冗談じゃない!」――そうとも怒鳴った。
その瞬間、ヴェーラが確かにカティを見た。昔のままの、流麗な白金の髪と、整いすぎるほどに整った美しい顔のヴェーラだった。カティは息を飲む。胸が強く痛んだ。呼吸が浅く、速くなる。
ヴェーラは眉尻を下げ、口角を上げた。そして唇の動きだけで告げる。
「ありがとう」――と。カティには確かにそう伝わっていた。
カティは一度止めてしまった足を再び動かし、ヴェーラの名を叫ぶ。
視界が歪んでいた。息も上がっていた。唇が震えていた。足ももつれそうになる。
しかしカティは力を抜かず、ただ前に前にと進もうとする。
そんなカティの前で、ヴェーラはマリオンとアルマから手を離し、数歩さがった。
『さぁ、わたしはきみたちの未来のために、ここにいる。わたしを、撃て』
その言葉の意味を認識した直後、カティの意識はコックピットに戻っていた。
眼下にはセイレーンEM-AZと、変形を開始したニ隻の制海掃討駆逐艦が向かい合っている。空海域は薄緑色の炎に覆い尽くされていた。カティのエキドナもまた、その炎に取り巻かれていたし、少し離れた場所で状況を見守っていた第二艦隊の艦艇たちもまた、それから逃れることはできずにいた。
その薄緑色の炎の中を、歌が満たしている――。
『セイレネス・発動! モード・純白の女神!』
マリオンとアルマが同時に叫んだ。ニ隻の制海掃討駆逐艦が、直視できないほどに輝いた。
「やめてくれ、ふたりともッ! そんなの、そんなの! ヴェーラが死んでしまう!」
カティは叫んだ。今のカティにはそれしかできなかった。
「アタシの大切な人を、これ以上奪わないでくれ! もう失いたく、ない!」
カティはヘルメットを投げ捨て、頭を抱えた。指先がこめかみに食い込むほどに。
「お願いだ、マリア。なんとか、してくれ……」
『カティ』
マリアの静かすぎる声が、カティの脳内に響いた。
『こんなにも姉様のことを想ってくださって、ありがとうございます』
「違う違う違う! そんな言葉、要らない! そうじゃないんだっ!」
『しかし姉様は、この結末をこそ、望んだのです』
「アタシじゃ、アタシじゃダメだったのか! 約束したのに! アタシ、約束したんだ!」
『あなたのことが大好きでしたから』
マリアは言葉を詰まらせながら言った。
『大好きな人に、そんなことをさせたくはないと……姉様は思ったのでしょう』
「そんなっ、そんな、こと!」
カティは今すぐにでもキャノピーを吹き飛ばして外に飛び出そうと思った。だが、身体はまるで言うことを効かない。指先一つ自由に動かせなかった。
「やめてくれ! やめるんだ、マリオン、アルマ! やめてくれ! お願いだ、お願いだ、やめて……」
カティは必死に祈った。
この先どんな不幸が訪れようと構わない。何もかも犠牲にしても構わない。
ヴェーラを助けて欲しいと、必死で祈った。指が折れるほど強く、指を組み合わせて祈った。
しかし、それも虚しく――。
セイレーンEM-AZが強烈な閃光に包まれた。遅れること数秒、機関部が大爆発を起こす。噴き上がる破片がカティのエキドナに向かって飛んでくる。カティは本能でそれらを回避する。
噴き上がる煙がエキドナの赤を煤けさせていく。
ヤーグベルテの最後の戦艦が、炎を上げながら傾斜し、急速に沈んでいく――。