31-1-3:あの日の――。

歌姫は背明の海に

 カティは純白の空間に立っていた。一面の白だ。それはセイレネスの生み出す論理空間の中だった。

「やぁ、カティ」
「ヴェーラ……?」

 声が聞こえてきたと思ったら、カティの目の前にふわりとヴェーラが降り立った。そう、その姿はまぎれもなくだった。

「セイレネスでは嘘はつけない」

 ヴェーラは寂しそうにそう言った。

「わたしは最期に、この姿をカティにも見て欲しい……それだけを思ってた」
「ヴェーラ……」

 カティは恐る恐るヴェーラに手を伸ばし、頬に触れた。

「ヴェーラ……ッ!」

 抱きしめる。折れそうなほど華奢なその身体を、カティは力いっぱい抱きしめた。ヴェーラは黙ってその身をカティに預け、その胸に顔をうずめ、背中に腕を回した。

「いつかの約束、覚えていてくれたんだね」
「忘れるもんか」
「……ありがとう、カティ」

 ヴェーラの囁くようなその声に、カティは胸が詰まる。

「でも約束は、果たせない、けどな」

 カティは鼻を啜る。思考が停止しかけていた。頭が割れるように痛い。ヴェーラはカティの頭に触れ、頬を撫でた。

「来てくれただけで、本当に……嬉しいんだ」

 ヴェーラは微笑ほほえんだ。

「最期に……最期には、絶対にカティに会いたいって、本当に強く願ってたんだ。神様とやらにも初めて祈ったよ。叶うものなんだねぇ、願いって」
「こんなになるまで助けなかった神様なんて、クソッたれだ!」
「そう言わないでよ。神様だってきっと忙しいんだ」

 ヴェーラはカティを強く抱きしめる。カティもそれに応えるように腕に力を込める。離さない、逃がさない、逝かせない……カティの強い決意の現れだった。

 カティは胸に震えを感じて、ヴェーラを見つめた。ヴェーラも視線を上げてカティを見て、微笑ほほえんだ。その目から、涙がこぼれ落ちていく。

「どうして、笑うんだ?」
微笑わらうだけなら、お気に召すまま、だからだよ」
「本音は、声を上げて泣きたいってことか」
「うん。当たり前じゃん」

 ヴェーラは肯いた。ぽろぽろと涙が頬を伝って落ちていく。カティはヴェーラの頬に触れ、冷たい涙を感じた。

「ならさ」

 カティはかすれた声で言う。

「泣けよ。泣いてしまえよ、なぁ……?」
「うん」

 ヴェーラはカティにすがりつく。カティはヴェーラの白金の髪プラチナブロンドを撫でる。それに応じるかのように、ヴェーラの泣き声は大きくなり、やがて慟哭どうこくとなった。

 カティは自分もまた泣いていることに気がついた。しっかりとヴェーラを焼き付けておきたいのに、涙のせいで歪んでしまう。焦点が定まらない。胸の奥の痛みが、頭の芯の痛みが、カティを動揺させる。言葉が何も浮かばず、どんな声も出すことができなかった。

「カティ」 

 ヴェーラが涙に濡れた顔を上げた。

「お別れ、だね」

 その声を聞いた刹那、カティはむせび泣いた。堰を切ったかのように、カティは泣いた。なにか大切な糸が切れてしまったかのように、カティは声を上げて泣いた。

 カティは力いっぱいヴェーラを抱きしめる。ヴェーラは滂沱の涙を流して、カティの体温を受け入れた。

「さよなら……さようなら、カティ」
「ヴェーラ……!」

 カティの震える声に呼応するかのように、ヴェーラが光となっていく。

 消えてしまう。行ってしまう。カティは貪るようにヴェーラを強く抱く。

 なのに。

 少しずつ軽く、少しずつ小さくなっていく。

「カティに会えて、嬉しかったよ」

 初めて出会った時の姿に、ヴェーラは戻っていた。

「それじゃあ、ね、カティ」
「ヴェーラ! ヴェーラ!」

 ふわり、と。

 ヴェーラは消えてしまった。

 アタシの腕の中から、この世界から、消えてしまった――。

 カティは誰もいない白い空間に膝を付き、あまりにも巨大な喪失感と虚無感に打ちのめされた。

「ヴェーラ……! ベッキー……!」

 嗚咽と共に、愛しい名前たちを呼ぶ。

 しかし、いらえはなかった。

 白い空間が冷たく、カティを包みこんでいた。

→EPILOGUE