カティ・メラルティン――出る!
超エースパイロット、カティ・メラルティン。
「空の女帝」の異名を持つ彼女は、単機星空を駆ける。
迫りくる脅威――「奴ら」に向かって。
抽象世界の成層圏――今や航空戦闘というのは抽象的だ。物理と論理のぶつかり合い。どちらが負けても死ぬ。それが現代の航空戦闘だ。
まして――いや、アタシは邪念を払う。夜の海はただひたすらに不気味だ。その仄暗い潮騒の内に、アタシの脳裏に鳴り響く雑念を散らす。それが絶対的な闇との和解の対価。さしずめ一時的な休戦協定だ。
その一方で。
アタシは負けるわけにはいかない。星々が雑多に貼り付けられた成層圏には、幾十もの敵の姿がある。目では見えない。レーダーにも映らない。だが、アタシには認知る。奴らがいる。待ち構えている。アタシを。
アタシはバイザーを下ろす。待ってましたと言わんばかりにHUDに機体情報が投影される。アタシはそれを確認しながら、機械的に言った。
「アドラステイアCIC、状況報告」
『CICより隊長、敵機、依然発見できず。本当にいるんですかい?』
「間違いない」
今は歌姫たちはいない。母艦アドラスティアの周辺海域五百キロには、漁船の一つもいやしない。そしてヤーグベルテ最強の飛行隊、エウロスを救援に来られる部隊などありはしない。支援が必要な状況に陥ったとしても、参謀部は救援を許可しないだろう。無駄な犠牲を出さないために。唯一奴らに対抗できる戦力である、マリオン率いる歌姫艦隊は今、南方海域にて大規模邀撃作戦を遂行している真っ最中だ。アタシたちはその間隙を突いて本土を攻撃しようとする敵戦力が――奴らが現れるとするならここだろうと、アタリを付けて待ち構えていたわけだ。
奴ら――ナイトゴーントD型は、アーシュオン最強の戦闘機。セイレネスを搭載した恐るべき群体。ディーヴァを中心とした恐るべき戦闘端末。それが今、アタシが感じている敵の姿だ。
あれを本土に近付けさせるわけにはいかない。だが、今、奴らを邀撃できるのは……撃墜できるのは、ただ一人。すなわちアタシだけだ。
『しかし隊長――』
CICで指揮を執っているエリオット中佐が何か言おうとする。しかし言わせない。
「アタシ一人で十分だ」
『しかし!』
「どうせ奴らを撃ち抜けるのはアタシとこのエキドナだけだからな」
愛機エキドナ。ヤーグベルテ唯一の――。
その時、アタシの頭の芯に何かが突き刺さった。目の奥が眩しい。
時間がない。アタシは瞬時に判断した。ペダルを踏み込み、仮想キーボードのENTERを意識する。
「カティ・メラルティン、出る!」
戦艦空母アドラステイアから射出されたエキドナは、一挙勇躍してアタシを奴らの待ち受ける成層圏へと運んでいく。一瞬ごとに強まるGがアタシをシートに拘束する。
『隊長! 無茶だ! 本当に奴らがいるのだとしたら……!』
「奴らをマリオンやキリスたちにぶつけるわけにはいかない。それにエウロスを目減りさせるのも得策じゃない。そして奴らの狙いは、このアタシだ」
『死ぬつもりですか、隊長!』
エリオット中佐、あんたは本当にいいヤツだ。以前もこんなことがあったっけなぁ。
アタシは少し笑ったかもしれない。さらなる加速度がアタシを昂ぶらせる。指数関数的に感覚が鋭敏になっていく。
『今からでもマリオン艦隊と合流すれば……!』
「これは奴らを減らす好機でもある!」
神出鬼没な奴らのために、何人の歌姫が犠牲になったか。幾千人の海軍、そして空軍の兵士が殺されたか。
「わざわざ奴らから出張ってくれたんだ。歓迎するのがマナーだろ。それにこうなることは分かっていたはずだぞ、エリオット中佐」
『分かってたから俺は反対したじゃないすか! それに、どう考えても無茶だ! 何機いるかもわからないでしょ! 隊長、撤退するべきです。ジギ1だってそう言ってる! こんな参謀部の野郎どものゲームに付き合ってやる必要なんて――』
「悪いな、命令だ。アドラステイア、転進しろ。奴らとの和解はありえないだろ?」
もう頃合だ。
ノイズを一切合切排除した星空が、見える。レーダーは静かなものだ。これが数年前なら、アタシは気でも触れたかと言われているところだろうけど、奴らの存在はアタシを逆に正気にさせている。奴らのおかげで、アタシは正気だ。
あのナイトゴーントD型に搭乗っているのは、アーシュオンの歌姫たち。彼女らを倒さない限り、ヤーグベルテは滅ぶ。ヴェーラやレベッカが想い憂い守った母国――ろくでもない国家であることは事実かもしれない。だが、それだけでアタシには守る理由になるんだ。
「哀しい思いをするのは、もうたくさんだ」
見えた――。
アタシは暗闇を見据える。奴らが見える。アタシには見える。
虚空に向かって、多弾頭ミサイルを盛大に放つ。
エキドナより産み落とされた数百もの弾頭が、天空を分かつ星の川に吸い込まれていく。
アタシは舞う。エキドナが踊る。
うんざりするほどのPPCの火線をすり抜ける。被弾はナシ。機体ダメージもない。さすがはエキドナだ。
空が炸裂する。夜闇が烈火爆炎に彩られる。アタシは舞い続ける。エキドナが光の矢を放つ。
電磁投射砲が空域を薙ぐ。奴らの先頭集団が吹き飛んだ。奴らを墜とせるのはアタシだけ。切り札たる歌姫たちにぶつけて良い相手ではない。あの子たちを傷つけさせるわけにはいかない。奴らはアタシが引き受けなければならない。
「なに、今に始まったことじゃないさ」
CICからエリオット中佐が何か叫んでいたが、アタシは聞き流した。注意を逸らす余裕などなかった。
「ヴェーラ、ベッキー……アタシを守れ!」
ここで死ぬ気か?
そんなはずがあるか――!
アタシはたとえ奴らが百機いたって負ける気はしていない。
空の女帝――アタシは空を支配する。なんぴとにもこの空を侵させはしない。
アタシのイメージと寸分違わぬ正確さで、エキドナの電磁投射砲が夜を駆逐する。高出力パルスレーザー砲が、取りこぼした敵機を抉り墜としていく。
「電力供給、遅い!」
『これでも全力ですよ、隊長!』
論理観測方程式が途絶えがちだ。これでは大量に電力を消費する電磁投射砲は使いにくい。パルスレーザーもPPCも然りだ。
奴らは夜に溶ける。レーダーでの観測はもちろん、視認することすら困難――いや、事実上不可能だ。だが、アタシには見えている。敵の動きが全て見えている。彼女らの思考が全て読めている。意識に先駆けて無意識が動く。まるで何者かに操られているかのように、自動的に。
「二十四機」
二十五機。
二十六機。
――淡々と撃ち落としていく。
アタシの身体はもう限界を訴えている。視界が仄赤い。加速度が容赦なくアタシを殴打する。だが、苦痛ではない。まだ生きている――それだけだ。アタシはまだ、生きている。
これでアタシの生涯撃墜数が少なく見積もって千機を超えた。確実に初代暗黒空域を超えた。
「だが、まだ終われない」
アタシは守ると決めた。この国を。歌姫たちを。マリオンたちを、そして、キリスたちを。
ていうかさ、アタシが死んだら誰があの子たちのお守りをするって言うんだい、ヴェーラ?
――だよね、カティ。わかってる。全部任せるよ、ユーハヴ、だよ。
声が聞こえた。いつもだ。エキドナで戦っていると、いつもあの懐かしい声が聞こえてくる。幻聴かもしれない。だが、それでも良かった。これがアタシが戦闘機を、エキドナを降りない理由だ。まだ戦えるか、もう戦えないか。そんなことは些細な問題だった。ただ、アタシは声を聴きたい。それだけなんだ。
アイハヴ――アタシは呟く。
奴らの放った多弾頭ミサイルが、投網のように迫ってくる。ビームの閃戟も四方八方から襲い掛かってくる。暗い空を引き裂く赤い機体。母艦からはどう見えているのか。
「フッ……!」
息を吐く。網の目を潜り抜ける。反転して追いかけてくるミサイルたち。アタシは海へと加速する。重力加速度がアタシを助ける。そして同時に痛めつける。脳の血流が止まる。目が痛む。だが、まだだ。まだこんなものじゃない。
海面に激突する寸前で、アタシは急上昇をイメージした。両手は自動的に仮想キーボードを叩いていた。両足は思い切り突っ張られていた。エキドナの腹が凪いでいた海面を抉る。一瞬遅れて到達した衝撃波が、潮の柱を打ち上げる。アタシは肋骨の数本を犠牲にして、ミサイルとビームの群れをやり過ごした。
「あと十機!」
意識しろ。意識しろ。意識しろ! 見えないのではない、見ていないだけだ。
奴らはアタシたちの意識から姿を消す。奴らはアタシたちの意識にセイレネスを使って干渉してくるのだ。だから対抗できるのは――今ここには――アタシしかいない。
「舞え、エキドナ!」
アタシは叫ぶ。がちんと歯が欠けた。もう慣れっこだ。電磁投射砲を投棄し、その重量差分で加速する。ベテルギウスが近付く。スピカが視界の端に消える。群れる敵機を劣化ウラン弾の雨で蹴散らした。最大出力で放たれたPPCがまとめて三機を消滅させる。
「……!」
残り一機。
ベテルギウスの真下に浮かぶそれはまるで――。