ウサギが「クレフ」という名を与えられてから約一ヶ月後――まもなく十月が終わる頃のことである。クレフの食欲がなくなり、あまり動かなくなったことから、ヴェーラたちは近くの動物病院へと駆け込んでいた。
「安楽死――!?」
診察室にて突如告げられたその言葉に、ヴェーラの悲鳴のような怒声が上がる。ヴェーラはキャリーバッグの中で眠っている小さなウサギを見つめてから、診察台のところで後片付けをしている獣医師を見た。
食欲に関する症状はただの風邪のようなものらしかったが、付随する検査で大腿骨の形成異常が見つかった。成長とともに骨が異常をきたし、歩行はもちろん、脊椎にもダメージを与える可能性がある病気だ。
「この子は遠からず衰弱死します」
「でも、今は元気じゃない!? 風邪引いてるけど……」
「今は、です。ですが、今も苦痛に苛まれている可能性のほうが高いですよ。ウサギは特に、痛みを表に出さない動物ですから、わかりにくいんですが」
「そんな……」
ヴェーラはキャリーバッグの中のクレフの額をそっと撫でる。レベッカはその腹部にそっと触れた。
「このこの場合は異常形成の速度がかなり早いと考えられます。簡単にいえば、骨が肉を突き破る勢いです。もちろん神経系の圧迫もあるでしょう」
「でも、そんな……」
「助かる可能性は、私の知る限りゼロです」
獣医師は全く忖度しない意見を述べる。ヴェーラは唇を噛む。
「安楽死には苦痛はありません。いえ、そこで苦痛をやわらげ、終わらせるんです。眠るように息を引き取ります。この子が痛みで衰弱死していくのを最後まで見届けられる勇気があるなら別ですが、そうでない場合、半端な覚悟で生かしておくというのは、人間のエゴじゃないかと思うんですがねぇ」
獣医師はデスクに戻ると電子カルテに何事かを記入していく。その様子を睨み、ヴェーラが言う。
「でも、障害があるからって殺しちゃうなんて、そんな!」
「その選択は、命を預かっているあなた方がすることです。私はどちらの決断でも支持しますよ」
その試すような口調に、ヴェーラとレベッカはますます強く唇を噛みしめる。たまりかねたエディットが、二人の肩に手を置いて尋ねる。
「手術や何か、そう、たとえばナノマシンとか、そういうもので何とかなりませんか。治療費ならいくらでも――」
「そういうレベルの話ではないのです、残念ながら。元来、ウサギはとてもデリケートな動物で、例えば簡単な避妊手術でさえ死ぬ個体は少なくないんです。草食動物は肉食や雑食のそれに比べて、やはり極端に弱い生き物なんです。障害のある子はどうやっても長くは生きられないようにできています。これは自然の摂理なんですよ、ルフェーブルさん」
獣医師はヴェーラたちに身体を向ける。
「ウサギが多産の象徴にもなっているのには、それ相応の理由があるということです」
「でも、この子がそんな」
ヴェーラが震える声で言う。
「誰もがそうおっしゃいます。ですが、事実は事実。現実は現実。私には、それを理解しろとは言えません。なので獣医師として言えることしか言いません。今、ここで眠っているうちに安楽死させるのも勇気。自然にまかせて最期を看取るというのなら、それもまた勇気。いずれにせよ、生き物を飼うという行為には、その最期の瞬間まで飼い主は自分自身と向き合い続ける勇気が必要なんですよ。それが、命に対する責任というものです」
獣医師は涙を堪える二人の歌姫を無表情に見る。彼はさっきからほとんど全く表情がない。機械のような人間だとエディットは感じた。エディットは首を振ってから言った。
「状況は、理解しました」
「エディット……」
ヴェーラがエディットを振り返る。その空色の瞳は、天井灯を受けてゆらゆらと輝いていた。
「ここから先は私たちに考えさせてください」
「もちろん」
獣医師は頷く。
「治療を急いでも意味はありませんし。しかし、長期化させて事態が好転するかというと、私の立場としては、到底イエスとは言えませんよ」
「……わかりました」
エディットは気持ちよさそうに寝息を立てているクレフを見ながら、沈鬱に頷いた。
「今日のところは帰りましょ、ヴェーラ、ベッキー」
「安楽死なんて、いやだ……」
ヴェーラはそう呟きながら、立ち上がった。