参謀部の車から、転げるようにして飛び出してきたのはヴェーラだった。門扉のセキュリティが解除されるなり、ヴェーラはカティに飛びついた。レベッカは運転手のプルースト中尉に礼を言ってから、落ち着いた様子で降りて……滑って転びそうになった。ゴロゴロと喉を鳴らすかのようにしてカティに抱きついていたヴェーラが、ニヤリと悪い笑みを浮かべる。
「クールぶっててもコケてちゃ台無しだよねぇ」
「う、うるさいわね、ヴェーラ。それに私、転んでないし」
ロードヒーティング設備が完璧に整備されている地区であり、道路脇に雪山などはない。だが、時々ヒーティング設備の一部断線などが影響して、こうして凍結している路面が発生していたりすることもある。レベッカはそんなレアな事象を見事に踏み抜いた、ということになる。
「さ、寒いからさっさと入りましょ、ふたりとも」
レベッカはヴェーラをジト目で見ながら、スタスタと玄関に向かって歩いていく。
「そうだな」
カティは違和感を覚えながら頷いた。そしてすぐにその違和感の正体に気が付いた。
「お前たち、その服って」
「えっへっへ。びっくりしたでしょ。本物だよ、ほ・ん・も・の!」
カティから離れて、ヴェーラはくるりと一回転する。鮮やかな青のマントがバサリとはためいて、ヴェーラの姿を優雅に彩った。玄関灯の下に立っているレベッカは、濃緑色のマントだった。
ヴェーラはそのまま跳ねるようにしてレベッカが開けた扉の中に滑り込む。レベッカも中に入っていった。
カティは肩を竦めつつ、二人を追う。
玄関の扉の内側では、ヴェーラとレベッカが海軍式の敬礼をして待ち構えていた。准将の階級証と制服を前に、カティも反射的に空軍式の敬礼を返していた。職業病である。
「本日付で准将になった、ヴェーラ・グリエールでっす!」
「同じく、レベッカ・アーメリングです」
二人はそう名乗ると、同時に吹き出した。カティは姿勢を崩し、腰に手を当てて苦笑する。ヴェーラはそんなカティの左腕に自分の右腕を絡ませて、そのままリビングへと引っ張っていった。
「准将だって、おっかしいの」
「いきなりだものね」
レベッカは「やれやれ」といった動作をしてみせ、そのまま二人を追ってリビングへ入った。
「って、あれ? カティは知っていたんですか?」
テーブルの上に用意されていたワインと、並べられたグラスを見て、レベッカは目を丸くした。
「いや」
カティは首を振る。
「アタシの昇進祝いのつもりで買ってきたのさ。セルフ祭りでもしようかなって」
「えっ?」
二人の歌姫は同時にカティの顔を見上げた。カティは苦笑めいた微笑を浮かべて、燃えるような赤髪に手をやる。
「中佐、だってさ。エウロスの隊長が少佐じゃぁ、格好がつかないからってことらしい」
「わぁ、中佐殿! おめでとう!」
「おめでとうございます、カティ」
二人は小さく拍手をした。カティは「お前たちのほうが二つも上じゃないか」と二人の頭を撫で回した。二人はひとしきり頭を撫でてもらってから、不慣れな様子でマントを外した。
「重たいんだよね、これ」
ヴェーラが取り外したマントをカティに手渡す。
「ほんとだ」
「防弾防刃を兼ねてるらしいです」
レベッカは自分のマントを畳むと、カティからヴェーラのマントを回収して同じく畳んで重ねた。ヴェーラはそのマントを見遣りながら、唇を歪める。
「撃たれたら骨くらいは折れるらしいけど、風穴が開くのは防げるらしいよ」
「エディットの一件で採用されることになったらしいです」
「そう、か」
一気に空気が暗くなったのを察知して、ヴェーラはソファに腰を落ち着けて、手慣れた様子でワインボトルを手に取って開栓した。エディットの下で修行していたこともあって、このあたりの所作は手慣れたものだった。ヴェーラは四つのグラスにワインを注ぎ、ボトルをテーブルの上に戻した。ヴェーラの隣に座ったレベッカはしばらく迷っていたが、やがて観念してグラスを手に取った。
「一口だけいただきます」
「無理するなよ、ベッキー」
「大丈夫です」
レベッカは頷くと、ヴェーラの左脇を肘でつついた。
「あなたこそ自重しなさいよ」
「えぇー!? いっぱい飲みたいんだけど!」
「お薬に影響があるでしょ!」
「少しなら良いって、ドクターは言ってたよ」
「少し、でしょ?」
「ちぇっ。でもわたしが酔っ払ったらワンチャンあるかもしれないよ?」
「ワ、ワンチャン……」
レベッカの目が一瞬泳ぐ。しかしすぐに首を振る。
「いやいや、あなたは酔わないもの。そんな分の悪い賭けには乗らないわよ」
「ちぇーっ」
そんな具合に唇を尖らせるヴェーラは、まるで昔のヴェーラに戻ったかのようだった。そんな二人を目を細めて眺めていたカティだったが、彼女は心の中で溜息をついている。カティは知っているのだ。ヴェーラが今見せている朗らかさは、薬によって強引に作り出されているのだということを。薬の効果が切れてしまえば、ヴェーラの精神は、再び深淵に落ちる。
「しかし」
カティはワインでその思いを流し込み、二人を順に見た。
「お前たちが提督様か」
「うん、わたしは第一艦隊、グリームニルの提督だよ」
「グリームニル? 公式の名前付きの艦隊なんて聞いたことがないな」
「歌姫艦隊だから極力仰々しく、っていう話らしいです」
レベッカが肩を竦める。そしてワインを一口飲んだ。
「グリームニルはね、仮面を被る者って意味らしいよ。オーディンの別名だとか」
「へぇ」
「ベッキーの第二艦隊はグルヴェイグ。こっちは黄金の力って意味」
「そうなんだ。って、おい、ベッキー」
突如胸をはだけさせ始めたレベッカに、カティは目を丸くする。ヴェーラは「あちゃー」と額に手を当てている。
「胸、ほとんど出てるぞ」
「だって、暑くてぇ。えへへ、ねぇ、ヴェーラ」
しなだれかかるレベッカを、ヴェーラはさり気なく押し返す。レベッカは定まらない視線で、ヴェーラの方を見ている。
「どんだけ飲んだんだよ、この短時間……って一口ちょっとくらいしか減ってないじゃないか」
カティは最初、レベッカがらしからぬ演技でもしているのかと思った。だが、ヴェーラがブンブンと首を振っているのを見て、レベッカが完全なる下戸であることを知る。
「だ、だいじょうぶか?」
「えへへ……えへへへ……」
レベッカは大胆にもヴェーラの胸を鷲掴みにしようとするが、ヴェーラの華麗な手捌きで阻止される。
「マジでこんなに酔うやつ、初めて見たぞ」
「ベッキー超弱いんだよね。だからいつも飲まないんだけど」
「しょっとしか飲んれないお」
レベッカはソファにぐだっと身体を預け、口をぽかんと開けたまま天井を見ている。
「水飲む?」
「らいじょーぶ、ヴェーラ。おっぱいもんだら治るのら」
「一生寝てなさい」
ヴェーラはレベッカの肩をポンポンと叩く。
「うう、目が回るぅ」
「寝てなさい、ベッキー」
「ふぁぁい」
レベッカは返事をするなり寝息を立て始めた。ヴェーラはレベッカのはだけた服を整えてから、空いているソファにかかっていたブランケットを取り、レベッカにかけてやる。ヴェーラは気持ちよさそうに眠っているレベッカを見て、大袈裟に肩を竦めてみせた。カティは笑いをこらえながら、ワインを飲む。
「カティ、あのね」
ヴェーラはカティの隣に移動して、カティのグラスにワインを注いだ。
「うん?」
「いろいろ迷惑かけて、ごめんね」
「迷惑?」
カティはヴェーラの空色の瞳を覗き見る。
「いや、だって、ほらぁ、ね?」
「迷惑とかない。考えたこともない。アタシは、お前たちのことを妹みたいなものだと思っているんだ。この世で一番大事な人間だとアタシは思っているんだぞ」
「いもうと?」
「そうだ」
カティはしっかりと頷いた。手にしたワイングラスの水面が揺れる。
「だから、お前がつらいっていうなら、アタシは何を差し置いても支える。お前が苦しんでるなら、アタシが助ける。それだけだ。理由なんていらない。お前たちに何かあれば、アタシは最優先で駆けつける。お前が泣いているなら、泣かしたやつをぶん殴ってやる」
「嬉しいな」
ヴェーラは輝くように美しい笑顔を見せた。しかし、その空色の瞳は翳って揺れていた。
「後に続く子たちのために、わたしもがんばるんだ。わたしたちと同じ思いだけは、絶対にさせたくないから」
「……そう、だな」
カティは一瞬だが、胃を冷たい手で鷲掴みにされたかのような不快感を覚えた。ヴェーラが時々見せる、底の見えない奈落を、今まさに見た気がした。
「なぁ、ヴェーラ。お前にはベッキーがいる。もちろん、アタシもいる。絶対にお前の味方になる人間が二人、ここにいる。だから、頼れよ。頼ってくれ」
「ありがと。心強いったらないよ」
ヴェーラは自分のワイングラスを空にした。そして自らワインを注ぐ。
「美味しいね、これ」
「飲み過ぎるなよ」
「ボトル一本なら大丈夫でしょ」
ヴェーラはそう言って笑う。カティは「どうなんだろ?」と真面目に首を捻る。
「わたしは幸せだよ、カティ」
「うん?」
「ベッキーがいて、カティがいて。わたしがどんな状態になっても、二人だけは絶対に味方だと思える。それだけでわたし、踏みとどまれているんだ」
「抱え込みすぎるんだよ、ヴェーラは」
「性格だもん」
ヴェーラはカティの肩に頭を乗せた。
「お願いして良い?」
「何を?」
「ひざまくら」
「……好きに使えよ」
カティはそう言ってヴェーラを膝に寝かせる。
「本当にカティに会えたのは幸せだよ。仕組まれたもの、運命というやつの計画の一環かもしれない。でも、たとえそうだとしても、わたしはその一点だけは感謝する」
ヴェーラはカティの太腿に指を立てた。その爪がカティにわずかな痛みを意識させる。カティはヴェーラの白金の髪を撫でた。美しい髪だなとカティは改めて思う。
「アタシも色々あったけど、お前たちはアタシの人生を強引に変えてくれた気がする。お前たちなしの人生なんて、アタシには考えられない」
「恋人みたいなこと言うね」
「アタシの恋人はヨーンだけ」
カティは少し酔いが回り始めたのを意識しながらそう言った。ヴェーラは「知ってる」と呟くと身体を起こす。
「わたしもね」
「ん?」
「わたしも、カティを支えたいんだ。だけど、カティって強すぎて」
「はは、そんなことないさ」
カティはそう言ってヴェーラの頭を抱き寄せた。
「お前たちがいるから、アタシは強くいられる」
「もっと色々してあげたいよ」
「うーん」
カティはヴェーラを抱いたまま宙を見上げる。
「じゃぁ、たまにはアタシの愚痴でも聞いてもらおうかな」
「お安い御用。なんせわたし、准将だからね」
「階級関係ある?」
「言ってみただけ」
ヴェーラはそう言って笑った。カティも口角を上げる。
「いい表情」
ヴェーラはカティの唇に触れながら言った。
「カティは本当にいい表情するようになった」
「そ、そうか?」
「すごく強くなったんだね」
ヴェーラはそう言うと、少し伸びをしてカティの首に抱きついた。カティは落ち着いてグラスを置くと、ヴェーラの背に手を回す。
ヴェーラはかすれた声で囁いた。
「愚痴ならいくらでも聞くよ。何でもするよ。でも、だから、カティ」
「ヴェーラ……?」
「守ってほしい。わたしと、ベッキーを。守って」
「任せておけ」
カティはヴェーラを抱く腕に力を込めた。