その手紙を読み終えて数分後、参謀部第六課、レーマン少佐からマリアの携帯端末に着信があった。
『大佐、ジョンソン曹長とタガート軍曹が、グリエール閣下を救出しました!』
「えっ、本当ですか!?」
『現在、うちのヘリで病院へ搬送中ですが、状況は深刻とのことです』
「わかりました、少佐。そちらの対応を最優先に。中央医大病院でしょうか」
『肯定です。受け入れ準備も完了しているとのこと。緊急コードは継続中です』
「了解しました。私とアーメリング提督もそちらに向かいます」
マリアは事務的な口調に努め、通話を終える。助手席のレベッカが、藁にも縋る目でマリアを見ている。マリアは微笑し、レベッカの右手に自身の左手を重ねた。
「だいじょうぶです」
マリアは自分に言い聞かせるように、そう何度か呟いた。レベッカはそのたびに頷き、言葉もなく、携帯端末に映し出されたヴェーラからのメッセージを睨み据えている。
「姉様に、なんて言葉をかけますか?」
「……バカは死んだって治らない」
レベッカの答えに、マリアは二度、頷いた。
パトカーの先導で病院の正面入口に到着したレベッカたちは、一も二もなく車から飛び降り、職員の先導で手術室の方へと向かった。手術室の前にはレーマン少佐とハーディ中佐が立っていて、情報の引き継ぎを行っていた。
「わかりました、少佐。すみませんが、このままここで医師と状況の確認を行ってください。逐次報告を」
「承知しました、中佐」
レーマンは頷くと、到着したマリアたちに長椅子を勧める。二人は呼吸を整えつつ隣り合って座り、互いの手を握りあった。ハーディは眼鏡の位置を直すと、二人に義務的な敬礼をして踵を返して去っていった。
その冷淡な態度に腹を立てかけた二人を察し、レーマンは缶コーヒーを二本、どこからともなく取り出した。
「長い夜になります」
「……そう、ね」
マリアはそれを受け取ると、一本をレベッカに手渡した。レーマンは手術室を一瞥して、またマリアに視線を戻す。
「ハーディ中佐もつらいのです。私もそうですが、出会ってから十数年。色々ありすぎたにしても、つらいのです。あの人は見た目ほど頑丈な人ではないですから」
「鋼鉄の女にしか見えないけれど」
マリアは剣呑な視線を向ける。しかし、レーマンは「いや」と首を振る。
「前統括ほどの素養もカリスマもない。いえ、能力がないわけではありません。むしろ、必要十分以上だと思っています。ただ、前任の、逃がし屋エディット・ルフェーブルが偉大過ぎた。ハーディ中佐はなまじ能力が高いだけに、そのギャップに苦しんでいるんです、常に」
「ハーディの自己評価はどうでもいいわ。今は余計なことを聞きたくないし、考えたくもない」
溜息とともにそう言ったのはレベッカだった。
その時、手術室のドアが開き、医師が一人出てきた。マリアたちは反射的に立ち上がる。
「お取り込み中すみません。本件を担当するライグラフです。時間もないので、この場でお話しさせていただきますね」
ライグラフと名乗った医師はマスクだけを外して、早口で喋り始めた。見た目的には三十代後半。中央医大病院のドクター・ライグラフといえば、先進的な外科手術を行うことで有名だ。ヤーグベルテで最も知られている外科医と言ってもいい。
「事実を申し上げますが、一言で言って状況は非常に悪いです。幸いといえば、ガスの吸引量がすくなかったこと。恐らく睡眠薬の大量服薬による影響でしょう。ですから、脳機能への影響は少ないのではないかと思われます。が、それも助かればの話です。救出時の情報によれば、全身火だるまになっていたとか。救出にあたったジョンソンさんと、とりわけタガートさんも重傷ですが、彼らの怪我はこの火だるまのグリエールさんを運び出したときのものです。正直、グリエールさんはショック死していないのが不思議な状態です」
ライグラフはギラリとレベッカを見た。
「グリエールさんはずいぶんと精神が不安定だったようですね。投薬データを確認させていただきましたが、よくもまぁ、あれだけの劇薬を揃えて処方したものだと、正直医師としては憤慨しています」
「ライグラフ先生、それは今は」
レーマンが止めに入ったが、ライグラフは首を振った。
「あんなものを使っている人を独りにさせてしまってはならない。ご存知なかったんですか」
「……いえ」
レベッカはうなだれ、拳を握りしめた。マリアがそんなレベッカの肩に手を置き、目を伏せながら言った。
「私がついているべきでした……。様子は見に行ったんです。その時は全く普通で。それで、レベッカ姉様を迎えに行ってあげてよって言われて……。すみません、姉様」
「結果論では何も変わらない」
レベッカは長椅子に深く腰掛けた。ライグラフは頷いた。
「今は彼女の回復を祈ってあげてください。我々としても手は尽くします」
「よろしくお願いします、ドクター」
マリアは深々と頭を下げた。ライグラフが手術室へ消えるのを見送って、レーマンが言う。
「カワセ大佐、アーメリング提督。私も一旦本部へ帰ります。すぐ戻ります。何かあったら連絡を」
「ご苦労さま。了解しました」
言葉の出せないレベッカを見ながら、マリアは機械的にレーマンに対応する。レーマンは敬礼すると足早に去っていった。
廊下に静寂が戻ってようやく、マリアはレベッカの隣に腰をおろした。レベッカは無言でマリアにすがりつく。マリアはその灰色の髪を撫でてやる。
「こんな時期に、あの子を独りにしてしまった私の責任です」
「いえ、姉様。それは違います」
マリアは苦々しげに言った。
「どんなタイミングであれ、同じようなことは起きていたはずです。それがたまたま今夜決行されたに過ぎないのです。ヴェーラ姉様はきっと、こうする機会をずっとずっとうかがっていたんです」
「わかりたくないけど、わかってる。わかってるけど、どうしてもっと……私はどうして、どうしてエリニュスなんかを優先してしまったんだろう。あんなもの、一ヶ月や二ヶ月――」
「軍の要求期限が迫っていましたから、それは」
「だからこそよ!」
レベッカは強く首を振る。
「そんなもの、無視すればよかった。理由なんてどうだってつけられた。体調が悪くてセイレネスの調整がうまく行かないとかでも言っておけばよかった! ヴェーラの様子、ちょっと落ち着いたかなって思っちゃった。そんな時期が一番危ないってわかっていたのに。ハーディやあなたに、絶対にあの子から目を離すなって言っておけばよかった。たったそれだけなのに……!」
「姉様、それこそ結果論です。これは私たち関係者全員の落ち度です。ですから」
マリアが背中をさすると、レベッカはマリアに抱きついて、その背中に爪を立てた。
「私はずっと、あの子と一緒に生きてきたのよ! あの子のことだけを考えて生きてきた! なのに、それなのに!」
レベッカは歯を食いしばる。マリアはその頭を強く抱きしめる。手から震えが伝わってくる。
レベッカは歯を食いしばり、マリアの背中に爪を立てる。マリアはレベッカの頭を抱き締める。レベッカはかすれた声で呟いた。
「……なのに、私、もう涙も出ない」
その言葉を受けて、マリアはレベッカを膝に寝かせる。レベッカが無表情にマリアを見上げていた。マリアはレベッカの頭を撫でて、囁く。
「私で良ければ、代わりに泣きます」
マリアは後頭部を壁にぶつけるようにして薄暗い天井を仰ぎ見る。
「はぁ……」
目を閉じると、涙が溢れた。