09-2-3:その手を汚した感想は

歌姫は背明の海に

 その日の夜、午後八時を過ぎた頃――。

 エディタは艦隊旗艦エリニュスへと召喚されていた。艦橋ブリッジの直下に作られたレベッカの執務室には、レベッカの他にマリアもいた。昼間とは打って変わって、海は大荒れだった。エリニュスほどの巨艦であっても、うねる波を感じられるほどの高波である。駆逐艦以下の艦艇にとっては生きた心地がしないであろう海だった。

「今夜はアルデバランに戻らなくて良いわ」

 応接用のソファに腰をおろしたレベッカは、眉間を指で擦りながら開口一番呟いた。マリアはその隣で静かに紅茶を飲んでいた。エディタは勧められるままに、レベッカの向かいのソファに座った。

「お疲れさま。だいじょうぶ?」
「ヘリでかなり酔いました……」

 エディタは青白い顔で正直に答えた。今夜の連絡用ヘリはエディタにとっては悪夢のような乗り物だった。訓練で何度も乗っているヘリだったが、こんな荒天は経験がなかった。対空ミサイルが直撃しても落ちないと呼ばれている大型輸送ヘリだったが、それでも今夜は何度も命の危機を覚えたほどだった。

「ごめんなさいね、わざわざ呼び出したりして」
「だ、大丈夫です。それであの、ご用件は……」

 エディタはレベッカが紅茶を注ぐのを見ながら、遠慮がちに尋ねる。通信ではなく、わざわざ旗艦に呼び出されたのだ。警戒心も湧くというものだ。

「どうぞ」
「あ、はい。ありがとうございます」

 供された紅茶に早速口を付けてから、エディタはマリアに視線を送る。エディタにしてみれば、マリアは常日頃から何を考えているのかわからない。穏やかな表情といえば聞こえが良いが、その実態何も伺えない空虚な表情でもあった。その上、マリアの方は恐ろしい洞察力でエディタの思考を見抜いてくる。

 暗黒の瞳の魔女――歌姫セイレーンたちにはそんな渾名あだなで呼ばれてもいる。

「カワセ大佐も乗艦されておられたのですね」
「ええ。大切な作戦ですから」

 マリアは微笑む。その黒い瞳に光はない。しかし、この上なく蠱惑的な深淵がそこにある。誰もが魅了される瞳だった。

「夜は長いわ」

 レベッカはカップを置いて、ソファに背中を預けた。普段は見せることのない少し気の抜けたような体勢を見て、エディタは咄嗟に目をそらした。

「私はあなたが思うほど完璧な人間じゃないわよ、エディタ」

 レベッカは襟を緩め、溜息をついた。そして今度は前のめりになってエディタを見つめる。

「昼間――」

 レベッカは目を細めた。新緑の瞳がエディタの脳の奥まで見通してくる。

「どうでしたか?」
「ええと……」

 エディタはまだいささか目が回っていた。ヘリ酔いが抜けていない上に、艦自体が揺れている。

 レベッカは「その手で」と、エディタの右手を指さした。

「その手で感想を尋ねています」
「人を……」

 エディタは膝の上で両手を握りしめる。

「私は、その、必死でしたから、あの、訓練と同じように、しました。仲間みんなを守るために、必死で」
「そう」

 レベッカは頷いた。

「論理空間での被害は計上するに足りません。クララもショック状態からは回復していますし、圧勝したと言っても良いでしょう。初の実戦で被害は軽微。よくやってくれました」
「しかし、提督……」

 エディタはきつく唇を噛む。昼間の光景がフラッシュバックして、居ても立ってもいられなくなった。だが、理性の力で強引に身体を押さえつけている。

 そんなエディタを見て、レベッカとマリアは顔を見合わせる。エディタには二人の横顔はそれぞれに氷の彫像のように見えた。今のエディタには、あまりにも冷たかった。

 マリアは立ち上がり、レベッカのデスクの上からタブレット端末を取って戻ってくる。そして何事か操作をして、戦闘レポートを表示させる。

「損耗率は二十パーセントを超えました。駆逐艦以下、十一隻の喪失です」

 エディタはすでにその数値については把握していた。だが、こうして突きつけられると話は別だ。息が詰まり、視界が不規則に揺れた。

「十一隻の喪失……」
歌姫セイレーンに至ってはC級クワイア十二名が戦死しました」

 マリアの冷徹な補足が意識に触れた瞬間、エディタの両目から涙がこぼれた。

「すでに数値としては知っていたでしょう。ですが、こうして突きつけられると――」

 レベッカの言葉をエディタは聞けなかった。涙と嗚咽が止まらなくなったからだ。

「ですがエディタ。あなたが自分を責めるのは誤りです。すべての責は私に帰属します。あなたはこの事実だけを受け止めればいい」

 レベッカは足を組み、その膝の上で指を組み合わせる。

「これは初陣。歌姫セイレーン十二名、艦船の搭乗員を含めると、三百名近い死傷者が出ています。ですが、圧倒的多数の敵を前にしてということを考えれば、よくやった方だと評価しています。そしてC級クワイアがどれほどの戦力になるのかも、客観的に示す材料を提供することができたと、私たちは考えています」

 その冷酷とも言える物言いに、エディタの心臓が冷えた。

「提督、それではまるで――」
C級歌姫クワイアたちを見殺しにしたようなものだ、と言いますか?」

 レベッカの眼鏡のレンズがギラリと光る。その奥の瞳も物騒な輝きを宿しているように、エディタには思えた。

「あなたのその洞察は、ある意味では正しいわ。この戦闘に、私は投資したのです。あの子たちの命を。この艦隊――歌姫艦隊の未来のために」
「それで十二人も、私の仲間を……」
「イエス」

 レベッカは視線をらすことなく、肯定した。エディタは言葉を繋げられない。レベッカの冷たさに、エディタはおびえていた。握った拳が震えるのは、怒りや絶望からというよりも、レベッカが恐ろしかったからだ。

 しかし、エディタはレベッカから視線を外さなかった。必然、二人は睨み合う形となる。

「この犠牲の結果として――」

 二人の様子を一しきり眺めた後、マリアが低い声で言った。

「戦力の中核となるC級歌姫クワイアの戦線構築能力については明確に可視化されました。これにより、我々参謀部はよりリスクの低い作戦を立てることができるようになったと言えるでしょう。エディタ・レスコ中尉。あなたはいずれ提督にもなり得る人材です。本件より多くを学びなさい」
「しかし、私には――」
「その苦悩もまた、学びです」

 マリアはエディタの言葉を冷たくさえぎった。

「そもそも、アーメリング提督のようなD級ディーヴァは、その存在からしてイレギュラーなのです。この方の力は圧倒的に過ぎた。眩しすぎた。ヤーグベルテの国民には過ぎた輝きだった。ゆえに、ヤーグベルテ国民の目はくらんだ」

 マリアはほんのわずかに目を細めた。暗い瞳がますます暗くなる。

「しかしながら、グリエール提督の件で、ヤーグベルテ国民は少なからず理解した。D級歌姫ディーヴァは永遠ではない、と。永遠に無償で国家国民を守り通してくれるものではないのだと。グリエール提督の件をして、――我が国はそのように表現します。しかし、私たちはそれはまかりならぬと考えました。このような事態をしてと表現することで終わらせないための安全装置フェイルセイフ……いえ、フールプルーフでしょうか。その役割をあなたに担ってもらう必要があると、私たちは考えました」
「つらいのは理解できます」

 レベッカは静かに言った。

「ですが、アーシュオンとの戦争状態が終結しない以上、誰かがそれをやらねばなりません。あなたならきっと、私たち以上に良い判断のできる指揮官となれるでしょう」

 逃げられないんだ――エディタは直感する。どうあってもこの立場から逃げることはできないのだと。いずれ来る可能性、確定的な未来――そこから逃げ出すことはできないのだと。

「エディタ・レスコ中尉」

 レベッカは敢えてそう呼んだ。

「この責任を負うことが難しいと思うのなら、逃げ出しなさい」
「……わかりません」

 エディタは首を振る。涙は止まっていた。

「私がこの重責をになえるかどうか、私にもわかりません」

 エディタは鼻をすすって、唇を噛み、うつむく。レベッカもマリアも、エディタを凝視したまま何も言わない。

「わかりません。わかりませんし、そんな私がその役割をになって良いのかもわかりません」

 エディタは目を上げる。青い瞳が室内灯を受けてキラリと輝いた。

「でも、私がやらなければ他の仲間がそれをすることになる。私にはその選択こそ、できません」
「エディタ、あなたは――」
「私は、だから、私は、逃げません」

 エディタは震える拳に力を込めて、首を振る。レベッカは立ち上がって、エディタの隣に腰を下ろし、その震える拳を両手で包んだ。

「あなたのその苦悩こそ、指揮官に必要なもの。誰よりも仲間を思いやるその自己犠牲の精神は危ういけれど、今あなたがここで口にしたことは、このあとのあなたの強さになるでしょう」

 レベッカはエディタの頬に触れ、寂しげに微笑んだ。

「あなたにこんなに涙を流させてしまったことは、本当に申し訳ないと思う。でも、これが戦争なのよ。これがヤーグベルテという国の戦争のやり方なのよ」
「私たちの不甲斐なさもあります」

 マリアが表情の読めない口調で言う。

「参謀部第六課とはいえ、今や参謀本部の意向には逆らえません。かつてのがいた時代とはもう違う。政府の干渉も大きくなってきています。であるからこそ、私たちはその中でも最善の手を打っていかなければなりません。たとえ目先の犠牲が大きなものであったとしても」
「私はまだ、そこまでの判断はできません」

 できるようになりたくもありません――。

 エディタは俯いて、また落涙した。

 悔しかったのだ。

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