レベッカがよろめきながら入った室内には、マリオンが一人、座っていた。その顔は、目の下に濃い影を作っていた。出撃前とは別人のような雰囲気の少女を見て、レベッカは動揺を隠せなかった。
「そんじゃ、ごゆっくり」
イザベラがレベッカの背中に声をかけて部屋を出ていく。
「マリー、大丈夫?」
「眠れてないので」
マリオンは座ったままレベッカに顔を向けた。見るからに倦怠感に負けていた。
「ごめんなさい、メンタルチェックが杜撰だったわ」
「私が隠していただけなので」
マリオンは小さく頭を下げた。レベッカは「なぜ?」と問いかけた。
マリオンは歯切れ悪く応える。
「提督にご心配をおかけすると思いました」
「何を言っているの、マリー。その結果、あなたに何かがあったらどうするつもり? 他人を気遣うよりも、自分の心配を――」
「しかし提督」
マリオンは視線を上げる。黒褐色の瞳が、向かいに座ったばかりのレベッカを真正面から捉えた。
「私の状態を報告したからと言って、提督に何ができるというのですか? 慰めてくださいますか、叱責なさいますか」
落ちくぼんだその目が、レベッカを拘束する。レベッカは唾を飲む。
「私たちは、これからもずぅっと、あんなことをさせられるんですよね、していかなくちゃならないんですよね。アルマだって、同じことをさせられるようになるんですよね!?」
「そう、ね」
レベッカは包み隠さず肯定する。
「まるで波のように、私が殺してしまった人たちの呪詛が聞こえてくるんです。一人になると、あの人たちの断末魔が聞こえてくるんです!」
マリオンは机の上で拳を握りしめる。レベッカは立ち上がると、マリオンのそばに歩み寄り、肩に触れようとする。が、マリオンはその手を少し乱暴に払い除けた。
「マリー……」
「私は!」
マリオンは長い黒髪を振り乱して立ち上がった。
「あんなことをアルマにはさせたくない。あの子も私と同じかそれ以上の能力がある。だったら、殺した人の声も私よりよく聞こえてしまうかもしれません」
「そ、そうかもしれません」
「だったら! なおのことです。私は私の力不足で、友達を四人も死なせてしまった。あの子たちの断末魔が耳の奥から離れない。あの子たちとの記憶が、断末魔でどんどん上書きさせてしまっていくんです」
マリオンの両目から涙が零れ落ちた。
レベッカは唇を噛みつつ、首を振った。
「マリー、ごめんなさい。あなたのその状態に気付いてあげられなかった」
「いえ」
マリオンは頭を振る。長い黒髪がディレイを持って左右に揺れる。
「でも私、未来が、明日が、不安なんです。こんな思いをするのは私だけでいい。アルマは知らなくていい。でも、こんなことをいつまでしていけばいいのか。それがわからない!」
「私にもわからないわ、マリー」
それは私だって知りたいわよ――レベッカは心の中で呟いた。
マリオンの瞳が傍らに立つレベッカをまっすぐに見上げている。
「提督にはもっと何かできる力があったはずです。こんな馬鹿げた戦争状態を終わらせることができたはずなんです。何のためのカリスマですか。何のための影響力ですか。提督に憧れて軍に入った子たちも大勢いるんですよ、歌姫だけではなく」
レベッカはまた首を振った。
マリオンは自分の立場をよく理解していた。彼女はレベッカに意見して良い立場なのだ。決して首を宣告されることもなく、処罰の対象にもならない。レベッカにとってもはや必要不可欠な人材であり、絶対に欠くことができない人物であるからだ。
マリオンは鋭い声音で糾弾する。
「提督や、グリエール閣下に思うところがなかったとは思いません。しかし、結果は、今です。十年以上の間、提督は何をしてきたんですか。あんな恐ろしい兵器で戦い続けて、バージョンアップし続けて、殺す力だけを高めていった。それ以外に何をしてきたんですか」
容赦のない糾弾が、レベッカの胸に突き刺さる。マリオンは立ち上がり、レベッカに正対した。
「なぜ、提督は……あんなものを私たちの世代に残したんですか」
「それは、だって、私は……」
意味のある言葉を発せず、レベッカは俯いた。眼鏡を外し、机上に置き、またマリオンを正視する。
「私だって、喜んでこんなことをしてきたと思いますか、マリー。望んでこんなことを?」
何人殺してきたと思うの――レベッカは右手を握りしめた。
「マリー、こんなことを、こんな過去を、私が認められていると思っているの? この先の、未来を憂いていないとでも?」
「では、何か具体的なお考えが?」
マリオンの瞳がレベッカを完全に束縛していた。レベッカは唾を飲むと、睨みつけるような視線をマリオンに叩きつけた。
「私は、私たちのけじめはつけます」
「けじめ?」
「ええ」
レベッカは意を決したように頷く。
「私とイズーは、その未来のためにあなたがたを、次世代の歌姫たちを徹底的に育て上げます。私たちがいつまでも最前線にいられるわけではないし、いつまでも象徴の地位に居座っているつもりもありません」
「それでは結局、私たちの未来は、現在の延長上ではありませんか」
「聞いて、マリー」
レベッカはマリオンの両手を握った。
「これは無責任に聞こえるかもしれない。けれど、私たちは私たちなりに考えました。その結果が、現在なの。私たちがあなたたちに残せるのは、戦う力だけ。アーシュオンとだけじゃない。今まさにあなたが直面している怨念のようなものと戦う力よ」
「私はそんなものと――」
「戦うのよ、マリー」
有無を言わせぬ口調でレベッカは畳み掛ける。
「私たちの誰も、こんな世界を望んではいない。でも、現実はこうなってしまっているの。どんな事情があったにしても、今のあなたは歌姫であり、一人の立派な将校です。そこには言い訳は通用しないのです。どういう背景があったにしてもね」
レベッカはマリオンの手を握る手に力を込める。
「私が提督であることから逃げられないように、あなたもまた、その役割から逃げられない」
「こんな歌姫の力なんて、私が望んで手に入れたものじゃないです」
「それは私も同じよ、マリオン・シン・ブラック」
レベッカの重い言葉が、マリオンを拘束する。
「私もヴェーラも、こんなD級と呼ばれる力を欲しがったわけではありません。十数年前、過去の一つも無い私たちは、突然士官学校に入れられた。私たちには恐らく選択肢すらなかった。私たちには殺人兵器となる以外の道なんてなかった。そしてあの時、この国は、まさに滅亡の危機に直面していたのよ」
ナイアーラトテップ、ISMT、ロイガー、そしてナイトゴーント。アーシュオンの繰り出してくる超兵器の数々の前に、ヤーグベルテはなすすべもなく蹂躙されていたのだ。
「私とヴェーラには、それを打破する力があった。いえ、違うわね。その力は私たちにしかなかった。だから私たちはセイレネスという力をもって、このヤーグベルテという国家を守ることを選んだ。もし私たちがそれを拒否し続けていたら、この国はもう亡く、あなたたちもいなかったかもしれません。全土がセプテントリオのようになっていたのかもしれませんよ」
レベッカは静かな口調でそう言った。マリオンはようやく目を逸らす。
レベッカは一つため息をついてから、囁いた。
「これは力ある者の責任。私たちは自分たちを総納得させて、こうしてセイレネス・ロンドを踊り続けてきたのです」
「力ある者の――それって、不公平じゃないですか!」
「不公平ですね」
レベッカはマリオンの肩を抱いた。そして囁声を紡ぐ。
「不公平であったとしても、だからと言って力のない人々に死ねとは言えません。私たちは矜持という仮面を被って戦場に立つことを選びました。力ある者にとっては、この世界は不公平で理不尽。でもそれは仕方のないことではない? だって、私たちはすでに公平な範囲を逸脱した力を有してしまっているのですから」
「でも、そんなもの、そんな立場。私たちが欲しくて手に入れたものではないんです」
「わかっています。でも、だとしても」
レベッカは首を振る。マリオンの黒髪が小さく震えているのが見えた。
「だとしても、マリー。あなたに力があることは事実です。現実です。その起源を拒絶したって、今は変わらない。その力を拒絶するだけでは、それこそ何らの建設的な未来は訪れないわ」
「私は、怖いんです」
マリオンが絞り出すような声で言った。
「私自身が、怖いんです。得体の知らない力が怖い。その力で簡単に何百人も何千人もの命を奪えることがとても怖いんです。なんなんですか、セイレネスって。軍にスカウトされた時は私は何もしらなかった。あなたやヴェーラの、憧れの人のそばにいられるようになるって聞いて、それだけで舞い上がってしまった。でも、蓋を開けてみればこれです」
深い失望が虚無感に彩られた声音だった。レベッカは首を振って身体を離す。
「何なんですか、セイレネスって。あのシステムが私を操って力を発動させたようにすら感じました」
「あれはそういうものです。というより、私たちもそれ以上は知りません」
レベッカはまた首を振る。論理層と物理層を接近させるためのモジュール、あるいは、ゲートウェイ。……しかしそう言った事柄は全て推測に過ぎない。ブルクハルトですらそのブラックボックスの解析はできていないという話だった。
「でもね、マリー。セイレネスは確かに強大な兵器ではあります。が、正しく使えば人を助けることもできる。それになにより、あの究極的な非人道的兵器、ISMTを止めることのできる唯一の手段です。I型ナイアーラトテップもね。それらを止めることで国民を何百万も救える。核兵器の放射線を無力化することすらできる」
「それは……詭弁です、提督」
マリオンはピシャリと言った。レベッカは息を飲む。
「兵器はどこまでいっても兵器なんです。一度も使われずにただ朽ちていくだけのものだけが、平和のために役立った兵器なんだと私は思っています。どんな形であれ、人を殺してしまった兵器はただの兵器。私はまだ十八、若輩者ですけど、わかります。セイレネスの登場以前、ヤーグベルテは専守防衛を掲げ、必死に耐えていました。その時代が正しかったとは言いません。私も故郷を失いました。家族もみな失いました。その恨みは、怨念は強いですから。だから、その時代を全面的に肯定はしません。そしてヴェーラとレベッカの登場により、私たちはようやく希望を見ました。あの憎いアーシュオンを叩きのめしてくれるに違いないと。そしてそれは現実になりました」
一息で言い切り、マリオンは天井を見上げて大きく深呼吸をした。
「でも、その結果として、ヤーグベルテの専守防衛の理念はどうなりましたか。最強の剣を手に入れた我が国の上層部は、いったいどんな作戦を立てましたか」
――アーシュオンの都市部への無差別攻撃。
レベッカは唇を噛む。そして首を振り、掠れた声で応じた。
「それにより、私たちは正義を失いました。被害者としての立場も、失いました」
「……すみません、提督。私は」
「いいのよ、マリー」
レベッカは眼鏡をかけ直すと、マリオンに背中を向けた。
「今の私には、あなたになんて言葉をかけるのが最良なのか、わからない。そしてあったとしても、そうしてあげられる資格はないわね」
レベッカはそのままドアの方へと足を進めかけた。
その時、ドアが擦過音と共に開き、イザベラがゆっくりとした歩調で入ってきた。
「だからさ、ベッキー。きみは言葉が足りないって言うんだ」
イザベラは悠然とレベッカの前にやってくると、半ば強引にマリオンの隣に座らせた。