無事に着艦を済ませ、艦上に降り立った時の疲労感は、今まで感じたことのないほどのものだった。水の中にでもいるのではないかというくらいに身体が重く、風音も人の声も、全てが歪んで聞こえた。今すぐベッドに倒れ込みたいくらいに、脳が疲弊していた。
「おっつかれさまでっす、隊長!」
艦橋への直通エレベータの前で待ち構えていたエリオット中佐が、ミネラルウォーターのボトルを手渡してくる。
「ものっそい疲れた顔してますよ。美人が台無しだ」
「からかうなよ」
カティはボトルを受け取って、空いてる左の拳でエリオットの胸を叩いた。そして遠慮なくボトルに口を付ける。
「水がこんなに美味いと思ったのは初めてだ」
「そりゃぁ、俺の愛情がたっぷりこもってますから」
「気持ち悪いこと言うな」
いつもの軽口に付き合いながら、二人はエレベータに乗り込んだ。そして艦橋につくなり、カティは自席の端末を起動させる。
そこには様々な情報が送られてきていたが、急を要するものはなさそうだった。エキドナの戦闘データの解析結果がブルクハルトから送られてきているのを発見して開いてみたが、ほとんど無加工のログ情報だった。
それには親切にも『見なくてよし』と、タイトルが付いており、ブルクハルトが便宜上送りつけただけだということがわかる。
「で、どうっすか?」
「どうって?」
「アレのセイレネスですよ、隊長」
「どうっていうか」
カティは真っ赤な髪を掻き回す。
「ん?」
なんでアレがセイレネス搭載機だって知っているんだ?
カティを見下ろしているエリオットを、剣呑な目で見上げるカティ。エリオットは前髪をくるくると摘みながら、ニッと口角を上げる。
「やっぱりっすね。カメラ映像見てたんですけどね、ありゃ防御力も攻撃力もちょっと現実離れしてる。二十ミリガトリング、十五発も被弾しているのに、機体にはシミの一つもない」
なるほど。カティは納得する。確かにあの攻防を見ていれば、ちょっと戦闘機に乗れる人間であればその異常さにはすぐに気付けるだろう。
「セイレネスは……不気味だった。正直二度と起動してほしくない代物だ」
「そっすかぁ」
エリオットは難しい顔をして腕を組んだ。中年の域に達しているはずなのだが、その容姿は若々しく、知らない人が見れば未だ三十代前半と言われても納得してしまうだろう。
「隊長はアレっすね、歌姫なんでしょうなぁ」
「まさか」
カティは首を振る。
確かにマリアはああは言ったが。
「アタシが歌姫だというのなら、世の中歌姫だらけになるだろうさ」
「でもさぁ、隊長」
エリオットはどこに隠し持っていたのか、缶コーヒーを取り出すと一口飲んだ。
「考えてみれば、歌姫たちと最も長く接している人間の一人じゃないっすか、隊長は。セイレネスシステムを通じて発される歌声には、聞き手はかなりの影響を受けるらしいじゃないですか、いろんなところに。何かの論文で読みましたよ」
「うーん」
確かに、ヤーグベルテ系の女性は能力の多少があっても歌姫だとマリアは言ったし、だとすれば生粋のヤーグベルテ人である自分がその例外であるとは考えにくい……気がする。
「セイレネスには脳に作用するなにかがある。さっき聞いた歌姫の断末魔もそうだ」
おかげでダルすぎるし。カティは首を回す。肩周りが張り過ぎていて、痛くてかなわない。
「歌姫の断末魔って、雑誌によく出てるやつっすね」
「聞いたことが?」
「まさか!」
エリオットは目を鋭く細める。
「誰が好き好んで、あんな可愛い子たちの悲鳴を聞きたがるんすか。俺はその手のサイコパスじゃねぇっすわ。俺たちの仕事は断末魔を上げさせないことっすからね。冗談じゃない」
「わ、悪かったよ、中佐。そんなに怒らないでくれよ」
「怒っちゃいませんけどね」
エリオットは空になった缶を弄びながら、肩を竦めてみせる。
「まーアレっすわ。話戻しますけど、隊長、案外D級歌姫だったりして」
「ありえないって」
仮に自分がそうであったとするなら、さっさと戦艦なり何なりに乗せられていたはずだからだ。それはそれであいつらを助けてやれるのかもしれないが。
「ブルクハルト中佐に訊けば教えてもらえるんじゃないっすかね」
「検査も何もしてないのに?」
「あんなセイレネス搭載ワンオフ超高級機。普通に考えて、何の根拠もなしに隊長に与えたりしないでしょ。何らかの確証があったに違いねぇし、さっきの戦闘データから何か追加でわかったかもしれない」
「そうだな、確かにそうだ」
「んじゃ、俺はちょっと休みます。あー、眠い眠い」
休むと言いつつコーヒーを飲んだのか。カティはその後ろ姿を眺めてから、通信班の方に声をかけた。
「ブルクハルト中佐に繋いで欲しい」
「ちょうど技術中佐から通信が」
「ああ」
あの人、本当にリアルタイムでこっちを見ているのでは。カティは苦笑する。ほどなくしてカティの端末のディスプレイに、何らかの作業中らしい様子のブルクハルトの上半身が映る。
『カティ、お疲れ様』
「お疲れ様です、教官」
カティにとってはいつまで立ってもブルクハルトは尊敬できる技術者であり、教官だった。四十代に突入しているはずだったが、エリオット同様にその顔は若々しい。それは趣味を仕事にしているおかげなのだろうか。
「教官、単刀直入にお伺いしますが」
『君は歌姫だよ、間違いなく。僕らはそうと知っていたから、あの機体を君専用に建造したんだ』
「でも、アタシは適性検査の類は」
『それはさっきの戦闘で済んだ。もともと基準値を超えていることは知っていた。というより、スキュラの時にデータは頂いていた』
「知りませんでした」
『うん、教えてなかった』
悪びれもなくブルクハルトは言う。そのある種の素直さに、カティは何も言えなくなる。ブルクハルトは昔から変わらない。
『もっともその辺の根源は、あのアダムス大佐なんだけどね。文句があるなら第三課にどうぞ』
「アダムス大佐ですか」
カティは渋面になる。あのアダムスの野郎が――エディットが生きていたならそう言っていただろう。
『で、君の能力なんだけど、これまたちょっと予想外。不思議なことになった』
「ふしぎ?」
『揺らぎがすごいんだ。振れ幅とも言うかな』
ブルクハルトがなにかの線グラフを示す。確かに恐ろしく上下運動を繰り返している。
『発動前はC級以下。でも発動後はV級を凌駕。時と場合によってはD級並なんだ』
「まさかそんな」
しかし、ブルクハルトは冗談を言っているような表情をしてはいなかった。
『君はいわば、歌姫キラーかもしれない』
「え?」
『君の波長が最大に高まったのは、敵の歌姫と相対した時なんだ。ナイトゴーント戦でもそこらのV級を凌ぐ結果になっている。そこで分かったのが、とはいえまだ仮説の域を抜けないけど、ひとつ。君のセイレネスは、相手のセイレネスを取り込むことで強化されるということ。つまり、相手が強力であればあるほど、君の歌も強くなる』
「そんな特殊能力が……?」
『まぁ、話半分でね、現時点では。ただ君はヴェーラやレベッカにも大きな影響を与えているし、それはイザベラにもだ。そしてまた逆も然りなのかもしれないよ』
それは、そうかもしれないけれど――カティは心の中で反論しようとした。が、言葉が出ない。
『まぁ、カティ。一つ言えるとすれば、君は歌姫の中でも恐ろしく特異な存在なんじゃないかって僕は思っている。裏付けにはもっともっと戦闘データが必要だけどね』
「それは、構いませんが」
『うん。ま、今日も遅いし、しっかり休んどいて』
「教官こそ、過労で倒れないでください」
『僕の代わりはいくらでもいるさ。でも君は唯一無二。僕の研究のためにも君には健康でいてもらわないと』
ブルクハルトは笑いながらそう言って、通信を終わらせた。
取り残される形となったカティは、呆然と宙を見た。
D級……。アタシが?
デスクの上で両手を広げる。汗ばんだ手のひらが見えた。