もはや思い悩む段階ではない。理解っている。だけど。
マリアのいない艦橋で、レベッカは思考に沈む。
本当にこれで良かったのだろうか。これが採り得る最良の選択肢だったのだろうか。
無事に帰れる保証などどこにもない。私が賭けに負ければ、そこで私は終わる。いや、私たちが終わる。それは単純なゲームだった。
一番迷っているのは、たぶん私だ。
戦場へ向かう途上、第七艦隊とアルマの制海掃討駆逐艦パトロクロスとすれ違う。その際の応答もかなり形式的なものに終始した。
明らかにぼんやりしているレベッカを見ても、艦橋の将校たちは何も言わなかった。彼らは本件の事情を知っているわけではなかったが、それでもレベッカとの付き合いは長い。状況は理解していた。
カウントダウンは始まっているんだ――レベッカは見えないように拳を握りしめる。
ヴェーラの想いを形にする。それがどれほどの怨嗟と恐怖を生むことになったとしても、それは未来に必要なことだ。
わかっている。もう何十回も考えたことだ。
レベッカは通信班長に、マリオンを呼び出すように要請する。
「マリー、ごめんなさいね」
『いえ』
メインスクリーンに映し出されたマリオンの表情は、明らかに強張っている。
「いま、大丈夫?」
『もちろんです』
マリオンは直立不動で応じてくる。その初々しい様子がなんだかおかしくて、レベッカは小さく笑ってしまう。
「リラックスして、というわけにはいかないかもしれないけれど、マリー、もっと力を抜いて」
『なかなかそうは』
「いかないものね」
ようやく選挙権を得た少女の顔は、しかしもう、初陣の頃の頼りないものではなかった。
「私も弱音を吐くわけにはいかないわね」
『カワセ大佐は?』
「ふふ」
レベッカは笑う。自分とマリアの関係は、マリオンにまで察されてしまっていたのかと。
「彼女にはもう全て話したわ。彼女は何でも引き受けてくれる」
『私は……その』
「あなたにだからこそ、託したいものもある」
『私に?』
マリオンはその黒い瞳でレベッカをまっすぐに見つめていた。レベッカもその視線に応える。
「イズーは歌姫たちに本当に慕われています。今、第一艦隊にいる子たちは誰一人として私たちの言葉を聞こうとはしないでしょう。つまり、私たちはあの子たちをも討たねばなりません。イズーのみならず」
クララ、テレサ、そして多くのC級歌姫たちを。
「本来ならば……それはエディタたちの役割でしょう。ですが、今回は。今回に限っては」
『私と提督でそれをしろ、と』
マリオンは青白い顔でそう言った。マリオンは自分の能力をよく知っている。初陣で発動したタワー・オブ・バベル。その威力は、歌姫たちにも十二分に通用するものであることは火を見るより明らかだった。恐らくクララやテレサでも耐えられない。
「やってくれますね」
『命令ならば』
マリオンの声は固い。
『しかし』
マリオンの目つきが見たこともないほど鋭くなっていた。
『どなたが責任を取られますか。この事態に』
「私とイズーが全てを持っていきます」
レベッカは毅然と答える。そのための手筈は全てマリアに任せてある。
『私たちは、ただ置いていかれるのみなのでしょうか』
「マリー……」
彼女はもう、臆病で純朴な少女ではないのだ。誰あろうレベッカ自身が彼女を変えてしまったのだ。レベッカは両手の拳を握りしめる。
贖罪の言葉は、飲み込んだ。赦されようと思うことそれ自体が、罪過であるように感じたからだ。
「エディタたちに味方殺しはさせない。あなたの愛するレオナにも、です」
『そのために、私にこの手を汚せと、そう仰るのですね』
「そうです」
レベッカはまっすぐにそれを肯定する。マリオンは青ざめた顔のまま、何度か頷いた。
『罪と咎、その全ては私と提督だけに留めると』
「あなたが歌姫たちを撃った後、私とイズーが一騎打ちすることになるでしょう。その時、万が一私に何かがあったとしても、後のことはマリアが引き受けてくれます」
『何か、が……』
「イズーは覚悟を決めています」
レベッカは静かに言う。
「あなたが迷えばこちらにも多くの死者が出ましょう。対するイズーに付き従う歌姫たちに迷いはありません。躊躇えば、撃滅されるのは私たちの方。味方殺しの謗りさえ受けかねない」
『むちゃくちゃ、です』
「そうね」
むちゃくちゃ、だわ。
レベッカは首を振る。
生きるも地獄、死ぬも地獄だ。
生還しても何を言われるか分かったものではない。
『提督、その』
「うん?」
『ネーミア提督は……本当にこんなことを望んだのでしょうか』
「彼女は」
レベッカは言葉を切る。
「イズーは、目的のための手段を選べなかった。彼女をそこまで急き立て、駆り立ててしまったのは、私を含めた社会全体なのよ」
『誰かが望んだ、のではなく?』
「そう、信じたいわ。全てがあの子の意志によるものだと、私だって信じたい」
レベッカの言葉に、マリオンは釈然としない表情ながらも頷いた。
『納得なんてできません。受け入れることもできていません。ですが、私、私は……逃げません。そんな選択肢はなかったかもしれないけれど、逃げないのは私の意志です』
「マリー……」
その毅然とした表情と声音に、レベッカは一瞬だけではあったが、疑いようもなく圧倒されてしまった。
「あなた、強くなったのね」
『本心からそうお思いですか、提督』
思わぬ切り返しに、レベッカは言葉に詰まる。
『私は何も変わっていません。ただ決めただけです』
「マリー……」
『憧れの人たちが命を賭けて何かを為そうとしている。それが正しいことなのかどうかは、今の私には判然らない。けれど』
マリオンはキッと視線を上げた。
『私があなたとイザ……いえ、ヴェーラ・グリエールに、誰よりも強い憧れを持っていることは揺らがない事実です。であるなら、私はお二人の成し遂げようとしていることを見届けたい。その過程でどれだけ仲間の返り血を浴びることになったとしても』
「あなたのその意志に甘えてしまっ――」
『また、ゆっくりお話ししましょう?』
レベッカの言葉を遮ったマリオンの静かな声は、この場にはいっそ似つかわしくなかった。
レベッカはスクリーンの中のマリオンの顔を見つめ、軽く何度か呼吸を繰り返した。
「そうね」
レベッカは前に落ちてきた髪を耳の後ろに追いやった。
「帰ったら、たくさんお話をしましょう、マリー。レストランも予約しておくわ」
思い出のあのレストラン。
可憐な花の飾られたテーブルについて。
戦いの後では、楽しい話はできないかもしれない。
けど、きっと――。