セイレネスなんかに賭けなくちゃならない。
思えばその時点で私たちは間違えていたのかもしれない。
レベッカはそうとも考える。
セイレネスはもはや自分の身体の一部だった。セイレネスについて思うところはあれど、今さら捨てることもできない。結局、自ら望んで縛られていたのかもしれない、と。
暗黒のコア連結室を意識しながら、レベッカはイザベラを呼ぶ。
「イズー……いえ、ヴェーラ」
『うん?』
応えはすぐにあった。二人のセイレネス適応値は今、限界を超えていた。極度の集中状態にある二人は、論理空間を解することなく、互いの顔を認識することができていた。
『こいつは驚いた。論理空間でもないのに、これって』
「ええ。お互いの物理距離が意味を持たなくなっているわね」
『心だけがわたしたちを分かつ……』
「人の革新につながる技術、か」
レベッカは溜息をつく。
「でも、私たちはこうして切っ先を向け合っている」
『どうあっても兵器は兵器ってこと』
達観したようにイザベラは言う。レベッカは首を振った。
「力に脅かされないための力は必要なのよ、残念ながらね。だから私はセイレネスを否定するつもりはないわ。でも、歌姫計画は認められない」
『戦争継続のためのメソッドに過ぎないからね、あんなの。救いようがないさ』
「私たちのこの行為ですら、計画の一端かもしれない」
『ああ、誰が作ったメソッドなのか知らないけど、とにかく頭の回る奴なのは確かだからね』
まったくだ。と、レベッカはまた首を振った。
「ねぇ、イズー。いえ、ちがう。ヴェーラ」
『うん?』
「あなたの……顔を見せて」
「顔? わたしの?」
イザベラは声を上げて笑った。
『きみにゲテモノ趣味があるとは思わなかったよ』
「ゲテモノなんかじゃないわ。私にとって大切な人の顔だもの。もうずっとあなたの本当の顔を見ていない。だから」
『わかったよ。じゃぁ』
イザベラは仮面に手をかけて、ゆっくりと外した。レベッカは覚悟を決めて視線を上げ、そして目を見開いた。
レベッカのすぐ前に立っていたのは、白金髪に空色の瞳の女性だった。揺蕩う輝きの中に、昔の、死を選ぶ以前のヴェーラがいた。
「ヴェーラ、やっぱり、あなたは……」
『この身を焼こうと、覚悟を決めようと、結局わたしの本質は、ヴェーラ・グリエールだったっていうことなんだね』
ヴェーラは微笑んでいた。この上なく美しく優しい笑みに、レベッカは胸が詰まる。
「あなたは、昔から嘘が下手だった」
『きみほどじゃないさ、ベッキー』
ヴェーラは寂しげに笑う。
『微笑うだけなら、お気に召すまま、だ』
それはヴェーラの遺作、「セルフィッシュ・スタンド」の一節だった。
レベッカは立ち上がり、眼前に見えるヴェーラに手を伸ばす。その手は確かにヴェーラの頬に触れた。掌を通じて伝わってくる、その確かな体温に、レベッカは落涙する。
ヴェーラは触れられた事実に一瞬驚いたが、すぐにレベッカの美しい灰色の髪を撫でた。険しい表情だった。
この体験が幻なのか否か、そんなことは二人にとってはどうでもよかった。お互いをゼロ距離で感じあえている、それだけで十分だった。
「ヴェーラ、本当に、お別れなのね」
『うん。本当に、お別れだ。どっちかが今、死ぬ』
二人は強く抱き締めあった。二人はずっと共に在り、或いはこれからも一緒に歩き続けられたのかもしれない。しかし歯車は狂った。誤てる舞台の幕は上がり、無茶苦茶な、しかし不気味なほどに整合のとれた舞台装置は動き始めてしまった。観客たちはその歪んだ舞台に狂喜乱舞し、その結果が今のこの乱痴気騒ぎだった。
『たとえ今、わたしがきみを殺したとしても、わたしはきっとすぐに後を追うことになる。そしてきみがわたしを殺したとしても、きみはそれを悔いる必要はないんだ。わたしはもう、一度自分を殺した身なんだしね。わたしはもう、イザベラ・ネーミアなのだから』
「いいえ、あなたはヴェーラよ。イザベラなんかじゃない。ヴェーラなの、あなたが望んだように」
「ははっ!」
ヴェーラは「でも、そうなのかもね」とレベッカの耳朶に囁いた。
『わたしは結局のところ、ヴェーラ・グリエールでしかなかった。名を捨て顔を捨てて何かが為せるようになるかもしれないなんて、こんな仮面を被ったけれど、結局何もできなかった』
「それを決めるのはあなたじゃない」
レベッカはヴェーラを強く抱いたまま、かすれた声で言った。
「遺された子たちが決めるわ」
『……希望を持ってもいいのかな』
「さもなくば、私たちは絶望の海で溺れるだけ。そんなの、救いがなさすぎるわ」
『それが故の希望、か。希望が絶望の否定によって生み出されるなんて、やっぱりこの世界は苦しいね』
「絶望を否定し、希望をより輝かせるために、私はあなたとマリアを愛したわ」
『わたしの愛は絶望を加速させたけれど』
ヴァルターの幻影がヴェーラの脳裏を過る。
『そんなわたしでも、きみは愛してくれた。わたしが単なる死神にならなかったのは、きみのおかげだ。きみの献身は、わたしの行為、わたしの命、わたしの死に、こうして意味を持たせてくれたんだ』
「もっと感謝してくれても良いのよ?」
『うん、それじゃ』
ヴェーラはレベッカの唇に自らのそれを押し当てた。
ヴェーラ……。
レベッカの両目から涙が零れ落ちる。
『今これ以上したら、永遠に別離れたくないって思いがきっと勝ってしまう』
「きっと永遠に満足なんてできはしないわ。だから、もう」
『わたしたち、詩的だね』
ヴェーラは哀しげに微笑った。
『続きは、また今度』
「ええ、また、今後」
レベッカはヴェーラの身体をようやく解放し、右手を差し出した。ヴェーラの白い手がその手を握り返す。
『物理空間での戦いになる。彼らに見せてやらなきゃ意味がないから』
「ええ、わかってる。私たち、顔を見るのはこれが最後なのね」
『うん』
ヴェーラはゆっくりと頷いた。時間が静かに過ぎていく。
『これで、最後だ』
二人の手が離れる。
『それじゃ、ベッキー』
「またね、ヴェーラ」
そしてコア連結室は、元の闇に戻る。