混乱している、と言っても良いだろう。イザベラは半ば呆然と、モニタの中のマサリク大統領を見つめていた。
マサリク大統領は続ける。
『異論があるなら申し出たまえ。その勇気に応え、イザベラ・ネーミア討伐の最先鋒に任じようではないか』
『しかしですな、大統領閣下。イザベラ・ネーミアなる人物をヴェーラ・グリエールのいたポストに就けようということに我々は』
『反対意見などなかったと記憶しているが?』
マサリク大統領は一言のもとに切って捨てた。
「反対などなかったな、たしかに」
マリアの手腕だ。彼女の根回しによって、軍部は懐柔されたのだ。
マサリク大統領は仰々しく周囲を見回した。芝居がかった所作ではあったが、がっしりした体躯の俳優然とした男がそれをすると、不思議と様になって見える。おこぼれ大統領などと揶揄されるが、イザベラの感覚では一番まともな政治家だと思っていた。彼が大統領に就任したことすら、マリアの差し金ではないかとさえ思える。
まして今や、マリアというスーパーブレインのサポートを全面的に受けている。彼は今、どの政治家たちをも恐れてはいないだろう。
『いずれにせよ、だ。どんなに民主的内訳だったにせよ、軍はイザベラ・ネーミアを承認し、グリエールの後任として第一艦隊を任せたことは事実。ゆえに、軍部および議会は、この状況を打破する義務がある。そして、まともな視野を持ちたまえ。実情として、我々はここにいる少女たちに託すことしかないのだ』
『しかし大統領! それでは文民統制の大原則が』
『黙りたまえ!』
大統領の言葉は鋭い。
『文民統制は曲げてはならぬ国家の信念である。それは紛れもない事実。しかし、それがゆえに命を賭ける少女たちに、我々の誠心誠意の言葉を伝えることが間違えていると言えるか。傷ついた歌姫たち、我々は彼女らに賭ける他に選択肢がないのだ。その命を我々を守るために使えと言うのに、なぜ我々は上に立って物を言える。矜持ある行為とは、権力を傘にきて言うことを聞かせる行為ではない! 必要とあらば手を取り、頭を下げ、あるべき未来に近づこうとする行為だ。私は一人の人間として、歌姫たちに願う。この国を救ってくれと、私は心の底から願う!』
そしてマサリク大統領はマリオンとアルマに頭を下げた。最敬礼だった。
『だ、大統領閣下。顔をお上げください』
上ずった声でアルマが言った。マサリク大統領はゆっくりと姿勢を戻す。マリオンは頷いた。
『大統領のお気持ちは理解致しました。イザベラ・ネーミアの反乱を鎮圧するため、私たちも全力を尽くします』
『よろしく頼む。この国の明日は、君たちにかかっている』
そして演説劇は終息する。
イザベラはため息をついてゆっくりと立ち上がり、目の前にいた艦長に声をかけた。
「連結室の方へ行ってくる。通常通りよろしく頼む」
「イエス・マム。異状があれば、すぐに」
「うん、よろしく」
言いながら艦橋を出て、早足でコア連結室に向かう。そしてセイレネスを起動するなり、マリアを呼び出した。
『姉様、どういたしましたか?』
マリアはすぐに応答してきた。その視覚情報は共有されてこない。今はきっとそれどころじゃない状況なのだろう。
「とぼけないでよ、マリア。さっきの大統領の演説」
『ああ、あれは私の原稿です』
「だろうね。きみ以外にあんな完璧な脚本は書けないだろう」
イザベラは暗黒の連結室の中で腕を組む。
「単刀直入に行くけれど、さっき大統領は、わたしたちは最初から兵器として云々って言ってたよね。きみが彼にアレを言わせた意味を知りたい」
『……届いて良かったです』
「うん。きみの言葉は聞き逃したりはしないさ」
『わかりました。お伝えします。秘密にする必要ももはやありません』
「冥土の土産というわけだ」
イザベラは笑った。マリアの表情はわからない。マリアは今、感情を全て殺していた。
『私や姉様方といった特殊な人材を除き、いえ、正確に言えばD級を除いては全ての人材に当てはまることなんです、これは。セイレネス発現因子はセラフの卵と呼ばれるヤーグベルテの遺伝情報の中に紛れ込んでいる記号のようなものなのです』
「ちょっと待って。いきなりわけが分からない話になってるよ」
『まぁ……そうでしょう、ね』
マリアは頷いたようだった。
『ですが、これは間違いなく確かなこと。セラフの卵はヤーグベルテの遺伝子に潜む虚数情報です。これがセイレネス発動に伴う波動に曝されることで卵が孵化し、その保有者がすなわち歌姫としての能力を開花させます』
「つまり、ヤーグベルテの血が入っている者なら、誰でも?」
『肯定です、姉様』
「まさかとは思うけれど、マリア。わたしたちが戦わされている理由があるとしたら、まさか、そのため?」
『それは、飛躍し過ぎかもしれません』
マリアは少し歯切れ悪く言った。
『もしそうだとしたら、誰にもメリットがありません。歌姫で溢れきってしまえば、戦略的優位すら揺らいでしまいますから』
「でも、ヤーグベルテの遺伝情報にあるんだよね、その因子は。だったら」
『いえ。ヤーグベルテの遺伝情報とはいえ、今や世界中に散っている。何世代も前のヤーグベルテの因子ですら受け継がれている可能性がある。世界のどこを見ても、ヤーグベルテの遺伝情報は存在している。そこに優位性はほとんどないと言ってもいいでしょうね』
「ってことは、世界中の――」
『遺伝子的な女性はそのほぼすべてが歌姫足り得るでしょう』
「まさか!」
イザベラは絶句する。
「で、でも。でも待ってよ、マリア。わたしたちの艦隊にはそれ相応の年代の子しか来ていないじゃない? 確率的に言ったら、そんな事はありえないんじゃ」
『ええ、ありえません。だから、ですから。最初から兵器としての道しか与えられなかったと言わせたのです』
「まさか、その孵化とやらを恣意的に操作できるなんてことが」
『そうです。できるのです』
即答だった。
『今、歌姫として戦わされているあの子たちは、最初からその孵化を促進された子たちなんです。アーシュオンの素質者たちもまた、然り』
「……なぜだ?」
『私の知り得る範囲ですが――』
「それでいい」
食い気味に、イザベラは言った。マリアは頷いたようだ。
『孵化の際に曝されるエネルギー、つまりセイレネスの波動が強ければ強いほど、強力な歌姫が誕生します。エディタ、レニー、レオナ。この三名はとりわけ強い力に曝されたときに、セイレネスを発現した。つまり、孵化した』
「それってもしかして、ナイトゴーントやISMTとかの出現とかと被ってる時期?」
『そうです』
マリアの即答に、イザベラは「読めたぞ」と舌打ちした。
「今回のこれ、全て仕込みってことか!」
『……すみません』
その答えに、イザベラは思わず笑った。声を上げて笑った。論理空間の白にうずくまって、狂ったように笑った。イザベラ自身が悩み、苦しんでいたと思っていた事柄のその全てが、何者かによる仕込みだったのだというのだから、滑稽にも程があった。
「おおかた、ジョルジュ・ベルリオーズあたりが何かしたってセンになるんだろ?」
『……ええ』
「おかしな話! まったく! だとしても、わたしにはそれを確かめる術なんてひとっつもないじゃないか!」
笑いが止められない。イザベラは壁を生じさせて、そこに背中を預けた。自力で立っているのもままならないほど、全身から力が抜けてしまっていた。
「でもね、マリア。わたしはきみが何を知っていたとしても、今やもうどうだっていい。わたしはもう、死にゆく者だから。必要のないことは喋らなくて良いんだよ、マリア。あとね、わたしがこの期に及んで迷いを生じさせてしまうようなことも、どうか言わないでほしいんだ」
『姉様……』
その声に、イザベラはマリアの涙を感じた。イザベラはこみ上げるものを抑え込む。
「つらい想いをさせてしまっているんだね、セイレネスは」
『姉様、私は――』
「わたしには、そんな壮大で尊大な計画なんて、すごくどうだっていいんだ。わたしはほんの些細な人間の些細な願い、些細な想いを。どうにかして多くの人に届けたいと思って、今まで歌い続けてきた。わたしの願いなんてたかだかそれだけのものなんだ」
そこまで言ってから、イザベラは唾を飲む。
「でも」、と、イザベラはまた口を開く。
「でもね、わたしにだって迷いはあるんだ。滑稽だよね、今頃になってさ」
『滑稽だなんて。そんなわけがありますか。迷うのだって当然です。怖いのだって!』
マリアはもはや感情の落涙を隠さなかった。震えるその声が、イザベラの視界を滲ませる。
「きみにも迷いがあるね、マリア」
『……え?』
「セイレネスではね、嘘をつけないんだよ」
『……不便な、ものですね』
「うん」
イザベラは壁に背を預けたまま、白い天井を見上げた。マリアの意識の目がそのあたりにあるように感じられたからだ。
「ねぇ、マリア」
『なんでしょう、姉様』
「これで、お別れにしよう?」
『ね、姉様……!?』
白い空間が一瞬歪んだかと思うと、すぐにマリアの姿が目の前に降り立った。その顔は涙に濡れていて、いつものクールに整ったマリアと同一人物であるとは思えなかったほどだった。
「姉様、私、私は……ッ!」
「気に病まないでよ、マリア」
「私は、失いたくなんてないのです! 姉様をふたりとも失うのは、ひとりぼっちになってしまうのは、イヤなんです!」
マリアは滂沱の涙を流していた。その涙を拭こうとも隠そうともしない。
「声を上げたら泣いてしまう、か」
イザベラは言う。マリアは首を振った。
「微笑ってなんていられませんから!」
「でもね、笑っていて欲しい。きみには微笑んでいて欲しい」
イザベラの仮面の隙間から涙が零れ落ちた。二人は歩み寄り、まるで恋人のように抱き合った。
「お姉ちゃんを泣かせるだなんて、悪い妹だ」
「悪くても良い。今からでも、やり直せる……!」
「ううん」
イザベラはマリアの黒髪を撫でた。
「ごめんね、マリア。わたしはもう、決めたんだ。誰の思惑でもなく、わたしの意志でそうしたんだ。そう信じていたいんだ」
「姉様、お願いが、あります」
マリアはイザベラの顔を見上げ、その仮面に触れた。
「お顔を、見せてください」
「うん。びっくりするかもよ?」
イザベラはマリアの手に触れ、仮面をゆっくりと外した。カランと音を立てて仮面が転がる。イザベラの髪の色が栗色から白金に転じた。
「姉様!」
マリアは子どものように声を上げて泣き、イザベラの胸に縋り付いた。イザベラはその華奢な背中を抱きしめる。
「やっぱり、嘘がつけないのですね」
「そうだね、不便なものだよ」
イザベラは、否、ヴェーラは、寂しげに微笑した。
「姉様、姉様っ、ごめんなさい、ごめんなさい……ッ!」
「きみは悪くない。謝らなくていい」
「でも、でも……」
「全部連れて行くから、ね」
ヴェーラはマリアを強く抱き締めた。