五月の上旬――桜は咲くや否や散った。
窓から外を見ていたレオン――寝る時以外は、当然のように部屋に居座っている――は、柔らかな春の青空を見上げ、次に視線を地面の方へと向けた。そうしてから、レオンは窓に背を向けて、私からコーヒー入りの白いマグカップを受け取った。
レオンはまた窓の外を見て、呟いた。
「ひさかたの光のどけき春の日に」
「静心なく花の散るらむ――?」
応じた私に向かってカップを掲げてみせるレオン。かっこいいなぁと改めて思う。そんな風に脳内ノロケを始めていた私に、キッチンの方からレニーが声をかけてくる。
「マリー、アルマどこ行ったか知らない?」
「朝起きたときにはいなかったよ。レニーが出た時には?」
「三時だったからまだ寝てたわね」
「なーんか、ヤバイことやってんじゃないかなって気がしてるんだよね」
私は自分の携帯端末を見た。そこには「セルフィッシュ・スタンド回収事件」とか「現代の焚書」とか「政府による検閲」とか「言論弾圧」といったおどろおどろしい見出しが踊っていた。これはこの一週間くらいの報道なのだけど、アルマがこのあたりから妙にコソコソするようになった。
レニーは自分のコーヒーをドリップしながら、少し眉根を寄せていた。
まるでそのタイミングを狙っていたかのように、Aの音と共に部屋のドアが開いた。帰ってきたアルマは、お菓子でも入っていそうな紙袋を提げている。
「おかえりーって、何その袋?」
私はレオンと共に窓を背にした状態のまま尋ねる。アルマはかなり得意げな顔をして、「手に入れてやった!」と高らかに勝利宣言を発した。そしてテーブルのところまでやってくると、今一番話題の本――しかも紙媒体――を取り出した。絶句する私たちだ。
真っ先にそれに手を伸ばしたレオンが、少し引きつった表情をしている。
「これって……閲覧不可、入手不可、廃棄命令の出てるアレだよね」
「うん。そうなることは見越してあったんだ。電子書籍のロック解除プログラムも組めたから、大きなアップデートがかかるまでは大丈夫。解錠プログラムは先輩と組んだんだ」
「だいじょうぶなの、それ。話題のセルフィッシュ・スタンドって本だよね」
「さぁ? 怒られるかもねぇ」
私の問いにあっけらかんと答えるアルマ。
「実はこの紙媒体の方も、発売日に入手して、隠しておいたんだよ」
「どうしてそんなことを?」
「たまたま仮想本屋を巡っていたら見つけたんだけど、読んだ瞬間ピンときた。著者があのサミュエル・ディケンズ記者だというのもポイントかな」
「ディケンズ……って、以前の会見で毒舌吐きまくってた記者さん?」
「そうそう、それ。その人。ちょっと調べたら、ヴェーラやレベッカがデビューした頃からずっと取材してる人なんだってさ。十何年の世界」
そこでレニーが「あ!」と手を打った。
「サムだ! サムのことだわ!」
「サム?」
「レベッカが以前言っていたの。取材は苦手だけど、サムが相手なら大丈夫って」
「へぇ!」
その言葉に、俄然興味が湧いた。歌姫に信頼されるに足る人間の書いた、「セルフィッシュ・スタンド」の名を冠した書籍だ。
レオンが最初のページに戻りながら、読み上げる。
「当書籍は、数日の内に公より存在を抹消されるだろう」
その続きを、アルマが携帯端末で読み上げる。
「当書籍への焚書行為は、すなわち国家による文化の監視、ならびに統御の成果であるとして、記憶と記録に残ることになるだろう。語るべきことは如何なる手段を以てしても語られ、歌われるべき歌は如何なる力にも屈さず歌われる。我々は斯様な普遍的事実を再確認することになるだろう」
だってさ――とアルマは得意げに言った。
私はその間、ネットで「セルフィッシュ・スタンド」に関連しそうなものを次々と検索したが、そのことごとくはキャッシュにも残っていなかった。まさに徹底的にだ。
「すごいね、検閲。AI走査だろうけど、それにしても……。見せしめみたいにタイトルだけ残されてるものとか」
「でもこれ、サムの思惑通りなんじゃない?」
レニーが言う。その表情は少し曇っている。
「レニー?」
「あ、いえ、もしかして……政治的妥協案かしら」
「政治的?」
私が訊くと、レニーはアルマから携帯端末を借り受けて、ロックを解除された電子書籍に目を通す。画面の上に浮かんだページが、恐ろしいスピードで流れていく。
「レ、レニー? まさかそのスピードで読んでるの?」
「全部は無理。斜め読みよ」
「それにしたって速すぎでしょ……」
レオンの紙をめくる速度も大概だが、レニーのは常軌を逸するスピードだった。私には「文字らしいもの」がカッ飛んでいっているようにしか見えない。
「なるほど」
レオンがページを目次に戻して頷いた。
「現在のこの高度情報化社会にあって、ひとかけらの痕跡もなしに存在を抹消できるだなんて、誰も考えてはいないはずだ。だから、最初から削除させることが目的だったと言えるんじゃないか」
一息つくレオン。ぽかんとしている私を見て少し擦れたような微笑を見せる。
「政府がそのような焚書行為に及んだっていう証拠を広く知らせしめる。それがそもそもの目的で、紙媒体はその保険的な手段なんじゃないか。紙媒体さえ残れば、何度オンラインで削除されようと、いくらでも電子の海に再放流できるからね」
「えっと、レオン。それ、誰が得をするの?」
「今の政府や軍のあり方に反対する人たちさ」
レオンにそう言われても、いまいちよくわからない私。アルマは指定席で腕を組んでじっとしていた。考え事をしている顔だ。
困り果てた私を救ったのはレニーだった。
「今、政府も軍も、歌姫計画一辺倒で動いているわ」
「ってことは、私たちが邪魔な人たち?」
「そうね――」
「だけじゃない」
レニーの肯定に割り込むアルマ。
「あたしたちの退路を断ちたい誰かじゃないか」
「ううん、私、バカなのかな……」
状況が全然理解できていない。そしてこの四人の中で唯一混乱している。レオンが私の肩に手を回してくる。
「マリーはバカじゃないよ。これを読めば納得いくだろうけど、この本は痛烈にヤーグベルテの国民を非難してる。だけど多分、これからネットにAIによって許可された断片情報が上がっていくことだろうね。文脈を無視した断片情報が。その結果、何が起きるかな」
「……炎上?」
「正解。文脈は無視され、切り取られ、その微視的視界で議論されて、燃え上がる。過去百年近く連綿と続いてきた国民自らによる際限のない言論統制の始まりっていうわけ」
その結果……歌姫をよく知るサムは、国民に敵視される。そして歌姫、ひいては軍や政府批判の材料にもされる。
「……参謀部第三課」
レニーが呻くように言った。私はレニーを振り返る。
「第三課って、空軍の主幹だったよね?」
「そうね。アダムス大佐が統括を務めている……。そして第三課主体の反撃侵攻計画があるわ」
「テラブレイク計画、だっけ」
アルマが言った。そして携帯端末で素早く軍資料を呼び出す。
「超高高度戦略攻撃機を用いた、アーシュオン本土直接打撃計画……か」
「それよ。アダムス大佐は昔から歌姫を排除しようとしていたと、ヴェーラから聞いた事があるわ。だから」
「歌姫計画に対する世論の風当たりを強めるために、参謀部第三課が仕組んだことだって? うん、いや、そうかもしれない」
アルマはそう言いながら、納得したようだ。私たちはしばし沈黙する。それを破ったのは、レオンだった。
「μῆνιν ἄειδε, θεά」
これは「イリアス」の一節だ。私は反射的にそれを翻訳する。
「女神よ、怒りを歌い給え――」
私の発した音が、部屋の隅に落ちて消えていく。私はその沈黙に耐えられず、言葉を続けた。
「私、怒りなんかで戦いたくない」
「私もだよ、マリー」
レオンは私の肩を抱く。私はレオンの体温を感じながら、その太ももを枕に横になった。真上にレオンの顔がある。私は携帯端末をテーブルに置いて、検索アプリを起動させる。
「サミュエル・ディケンズの情報を集めて」
『サミュエル・ディケンズについての情報はありません』
「え?」
何か間違えたかなと身体を起こして、手動で検索を実行する。けど、検索で引っかかった件数はゼロ。ありえないことだった。私の手元にみんなが注目している。私は再び携帯端末に話しかけた。
「アエネアス社のディケンズ記者の情報を出して」
『検索結果、アエネアス社のニュースリリース。チェック済みです』
「嘘……」
レオンが後ろから私の右肩に手を置いた。
「政府あるいは軍による情報統制は始まってる。だよね、レニー」
「ええ。それだけじゃないわ。D級たちの本当の思いも、ネットにはないわ。仮に誰かがそう思い馳せたとしても、情報として姿を見せた瞬間に意味を消失するの。見える情報は、軍と政府のAIが見せてもいいと判断したものだけ」
レニーの褐色の瞳が私を見据えている。
「でも、私たちにはセイレネスがある。あの論理空間の中では、私たちは一切の嘘をつけない」
「だとしたらイザベラは……」
「マリー、イザベラは……ずっとヴェーラを演じてたのよ」
「え?」
私たち三人の声が揃う。レニーは目を閉じて首を振った。
「何年か前に、マリーとアルマが見たように。イザベラこそがヴェーラの本質だったというわけ」
その時、私たちの四台の携帯端末が同時にそれぞれの通知音を奏でた。慌てて確認する私たちである。アルマが代表してその通知の内容を読んだ。
「第七艦隊、奇襲攻撃に成功。侵攻中のアーシュオン潜水艦艦隊を殲滅。ナイアーラトテップM型――二隻撃沈!?」
「クラゲを撃沈? 通常艦隊が?」
レニーも慌てて自分の携帯端末を確認して目を丸くする。私もその通知を確認しながら誰にともなく訊く。
「第七艦隊って、クロフォード中将の艦隊だよね?」
「潜水艦キラーのね」
レオンが真っ先に回答してくれる。そうだ、潜水艦キラー、リチャード・クロフォード中将。最新鋭の航空母艦ヘスティアを旗艦とする第七艦隊の司令官だ。ヘスティアは艦隊をあらゆる探査から隠蔽する能力を持っていて、ヴェーラやレベッカでさえ発見できないのだという。第七艦隊は、そのヘスティアの隠匿能力とクロフォード中将の作戦能力により、アーシュオンからは極めて警戒されている艦隊だった。
しかし――。
「通常艦隊がどうやってクラゲを沈めたの? 二隻も……」
「あ。続報だよ、マリー」
レオンが私を再び膝枕しながら、それを読んでいる。
「なるほどね。ヘスティアにエウロスが載っていたってことらしい」
「空の女帝?」
「メラルティン大佐直属のエンプレス隊が二十四機――つまり全機搭載されていたみたいだ」
「災難だねぇ、それ」
過日の戦いでその実力を嫌というほど見せつけられている私には、そのくらいの感想しか出てこない。あの時は十二機だった。今度はその倍いたというのだ。
「あ、そうか。メラルティン大佐が沈めたんだね、クラゲを」
「だろうね。ナイトゴーントやロイガーを撃墜できるのもメラルティン大佐だけだし。それに大佐の戦闘力があれば、武器さえあればクラゲくらいどうにでもなるかもしれないね」
レオンはそう応えてから「あれ?」と首を傾げた。
「そういえば今夜って、メラルティン大佐の特別講座があったよね?」
「それ、偽情報ってことね」
レニーが言う。
「アーシュオンにとっての脅威となる人物、カティ・メラルティン大佐がここにいるということを信じ込ませた。今は第一艦隊も第二艦隊も、当該の海域にはいないこともはっきりしている。だからアーシュオンはその間隙をついてやってきた。でも、そこに待ち構えていたのが、あの第七艦隊と、女帝だった」
「情報戦だぁ……」
私は感心半分、うんざり半分でそう反応した。