沈め、呪われし歌姫たち! 没せよ、汚らわしき者どもよ!
イザベラの破壊の歌が響き渡る。百数十キロの距離などお構いなしに、その歌は私たちに届いた。
アーシュオンの戦闘艦は尽く無残に沈んだ。生首歌姫の載せられた駆逐艦もまた、一息に叩き折られ、凪いだ海を穢していった。
イザベラのその凄烈としか言えない歌は、さながら雷神の鉄槌となって、真夜中の静寂を粉砕した。赫々たる爆炎が闇の空を焼き、生命と鉄屑の上げる輝きが悄然と海を照らす。
『マリー、オルペウス!』
「――っ!?」
レベッカの指示の意味を理解するのが一瞬遅れた。私は生首歌姫たちの断末魔の直撃を受けてしまう。声も出せないほどの衝撃が、私の頭蓋骨の中身をぐちゃぐちゃにひっかきまわす。不愉快以外の何物でもないこの感触、限界を超えた苦痛――ありとあらゆるネガティヴが、私を重力崩壊させようとするかのように圧しかかってくる。
『マリー! 正気を保つのよ!』
バチッ――。
私の頭の中身がスパークする。視界が赤く、そして青く、くるくると色を変える。捩じ込まれてくるいやなもの。理性をかなぐり捨てよといわんばかりのいやなもの。私はただ恐怖に震える。恐怖? そう、恐怖。恐怖だ。これは、まぎれもない、恐怖だ――!
「これが……こんなものが、快楽かっ!」
振り払う。まとわりつく湿った黒い糸のようなものをちぎって捨てる。
「こんなことを、悦楽とするのかッ!」
『マリー、大丈夫かい?』
「レオン?」
そばに上がってきたのは、間違えようもないレオンの気配。ほっと息を吐いたのも束の間、レベッカの冷徹な声が夜闇を裂く。
『エディタ、後退指揮! マリーと私を置いて、全速で反転しなさい』
『提督、しかしそれでは――』
『エディタ、命令です。私にも、あなたたちを守れない』
そうこうしている内に、水平線の彼方より、五十隻にもおよぶ歌姫からの砲撃が飛来してきた。それはイザベラの力によって強化され、通常の何十倍、いや、何百倍ものエネルギーを持っていた。オーロラグリーンの帯が、見る間に近付いてくる。レベッカの戦艦ウラニアが前に出て、その一撃目を食い止める。
『エディタ! 次は守れない!』
『い、イエス・マム。全艦反転! レオナ、お前もだ!』
『マリーを置いてはいけない!』
「レオン」
私はアキレウスを進め、戦艦・ウラニアと並走させる。
「行って。私は大丈夫。必ず帰る」
私はそう言って、レオンの気配を押しやった。
「大丈夫だから」
『……わかった』
不承不承――伝わってくる。でも、レオンは理解してくれた。
『待ってる、マリー』
「ありがとう」
私は呟くと、大きく息を吸った。意識がコア連結室の暗闇に戻ってくる。それを待っていたわけではないだろうが、ダウェル艦長から通信が入る。
『艦のコントロールは艦橋に任せてください。火器管制、よろしいですかな?』
「イエス、アイ・ハヴ」
私は短く応じた。それ以上に言葉が出ない。私の意識の中に次々と戦闘コマンドが浮かび上がってくる。
「セイレネス再起動! 艦首PPC、用意!」
水平線を睨むアキレウスの艦首前面装甲が幾重にも回転しながら、オーロラの輝きを間欠泉のように噴き上げて展開する。電磁誘導砲身が青白く輝き始める。
「粒子反射装置、展開!」
アキレウスのあちこちから小さな鏡のようなドローンが飛び出した。夜の中をキラキラと舞い踊るその光は、死への道を照らす輝きだ。
これを撃ったら、どうなる?
迷いを覚える私に、システムが流暢に状況を伝えてくる。
『電力充填、許容量超過。方程式への変換、または、即時の砲撃を推奨します』
迷っている暇はない。迷っていられる場合でもない。その時、完全防御態勢に入っているレベッカの鋭い言葉が飛んできた。
『マリー、次に同じ攻撃が来たら、私は耐えられない!』
「わかりました」
――撃つ以外に道はない。わかってる。わかってる……。
「艦首PPC、放てぇっ!」
制海掃討駆逐艦から放たれた光が、踊る。粒子反射装置によって空高く打ち上げられた光は、空中のある一点で大きく角度を変える。拡散する。流星雨のように水平線に突き刺さる。一瞬で視界から消える。
その雨は、イザベラの艦隊のC級歌姫十数人を蒸発させた。断末魔が水平線の彼方から亜音速魚雷のように突き刺さってくる。私はそれを真正面から受け止める。目が回る。吐き気がする。
でも、耐えなければならない――そう信じた。
「何百人、死んだんだろう……!」
私はこの手で今、ヤーグベルテの人を焼き殺した。しかも一方的に。
『マリー、第二波を防いだら回頭!』
「えっ!? 提督お一人でどうするおつもりですか!」
はるか遠方から伸びてくる輝ける槍。それは紛れもなく、私とレベッカを狙っていた。その威力は凄まじく、私とレベッカが二人で張り巡らせた防御を貫いてくる。オーロラグリーンが赤く変じる程の衝撃だ。
衝撃の生み出すあまりの熱量に海面が泡立ち、暴風が海を荒らした。私の艦も大きく揺れる。
『こちら艦橋、機関システムダウン。復旧まで暫くかかります』
「えっ!?」
ダウェル艦長の声に、私の頭は真っ白になる。セイレネスはまだ生きているが――。
『火器管制システムもダウン。攻撃不能』
「ええっ!?」
動くことも撃つ事もできない!?
そうこうしているうちに、レベッカの戦艦は突き進み、水平線にはヴェーラの戦艦が姿を現していた。空には畏怖すべきオーロラが音もなく踊っている。
「アーメリング提督! 本艦、動けません!」
『イズー……。そういうこと?』
『そう、その通りさ。マリーには立会人になってもらいたいと思ってね』
ウラニアとセイレーンEM-AZが、凍てついた海で向かい合う。物理的に数十キロの距離があるとはいえ、私たちにとっては十キロでも百キロでもたいした差ではなかった。
『さぁ、おいで、ベッキー』
『……行くわ』
それと同時に、二隻は主砲を一斉射する。二人はあらゆる物理兵器を用いて撃ち合っていた。セイレネスの力の乗った攻撃をセイレネスによる防御で弾き返して、やがて同航戦となっていく。全ての火力が互いに向いて、全ての火力を弾き返す。今まで見たどの戦いよりも、激しく、美しかった。
『ベッキー、きみにはまだ、迷いがある』
『私は――』
『決めただろう。あの時。きみはわたしにノーと言うと』
『あなたを止める。誰にも私たちの悲しみは、継承なんてさせないんだから!』
並走する二人の声が聞こえてくる。私の周りに幾つもの気配が現れる。水平線の彼方に消えたはずのレオンたちが上がってきたのだ。だけど、誰も何もしゃべれない。私はレオンの気配を探し当てて、そのそばでじっとする。
『いずれにせよ、悲しみは残るさ』
イザベラの声は、深かった。この真夜中の海のように深くて恐ろしい。
『ねぇ、ベッキー。セイレネスに賭けたこの勝負、どうやらわたしの勝ちだね』
『まだよ――!』
『わたしの狂気が、きみの正義を殺す』
『はいそうですかと言えるわけもない!』
レベッカの声が響く。オーロラが爆発し、セイレーンEM-AZに無数の槍となって降り注ぐ。
『効かない。きみには覚悟が足りない』
『そんな……!』
『あわよくば殺さずに無力化しようだなんて、そういうところがきみらしい! きみとわたしでは、役者が違う!』
『イズー……!』
レベッカの苦悩が痛いほどに伝わってくる。脳が痺れるほどの……。
『私にはね、イズー。あなたの行為を止める義務がある。国家と国民を守る義務がある!』
『おためごかしとは言わないさ。でもね、奇遇なことに、わたしにも義務がある。愛するヤーグベルテの国民の皆々様の目を覚まさせるという義務が、ね』
二人はきっと、こうなることをとっくに知っていたんだ。何度も何度も交わしてきた言葉なんだろう。今はそれを再確認しているだけなんだろう。朦朧とする意識を叱咤して、二人の言葉を記憶に刻みつけようと心の耳を欹てた。
『これはね、こんなことはね、わたしにしかできない。いや、ちがう、わたしたちにしかできない。なのに、きみは未だ迷っている!』
『あたりまえよ! あなただって本当は……ッ!』
『ははははは! 本音を言うなら、まぁ、そうさ。わたしはいずれにせよ遠からず死ぬだろう。だけどね、わたしはそれについては、これっぽっちも、そうだね、芥子の粒一つ程の迷いすらない。ベッキー、きみは死ぬのが怖いのかい?』
『……私はあなたとは違う』
『そうか。それはそうだ。でも、わたしだって怖かったんだよ』
光風霽月たるイザベラの言葉。それは迷いのようなものの片鱗さえ感じられない、死への呼び声だった。その一方で、レベッカの歌にはまだわずかに揺らぎがある。
『私はあなたほど強くないのよ、イズー。だから、死ぬのも殺すのも、とても怖い。とても、とても、とても、とても、とても、怖い! 失いたくない。私は、あなたを失いたくない。別れたくない! こんな終わり方は、やっぱりイヤなのよ!』
『今となりては時すでに遅しだ。わたしはきみを倒さなくちゃならないんだ。さもなくば、わたしはもうこれ以上飛べやしないだろう』
『あなたの反乱行為はもう十分なのよ! 今なら――!』
『いいや、まだだね。まだまだ足りない』
イザベラの声のトーンが一つ下がった。永遠の暗闇の渦に吸い込まれそうな、一切の反響を許さない、そんな声だった。
『彼らはね、知るべきなんだ。自分たちの頭の上に、刃煌めく鋭い剣があることを。そしてそれがいつでもいつだって自らの身に落ちかかってくる可能性があるということを。彼らは自らの力でその事実を知ろうとすることはない。よしんば知ったとしても、その真実を認めようとはしない。だからわたしが彼らに否応なしに思い知らせる。そうしなければならないんだ。完全に、抜け目なくね』
ゾッとした。その深すぎる正義に、私は凍えた。
『これはね、啓蒙なんだ。戦争という行為を娯楽とし、愉悦を生み出すものと誤解し、わたしたちの歌に耽溺し、わたしたちの生命を消費し、安寧と娯楽を何の対価もなく与えられることに慣れきり、思考を放棄した救いようのない人々に対する、愛のある福音なのさ』
『でも、イズー! もう十分――』
『きみの言うことはね、そして、きみの為すことはね、悉皆、綺麗事なんだ、ベッキー』
ゆっくりとしたイザベラの言葉が、夜の中に消える。
『だからね、ベッキー。綺麗であることは素直に称賛する。憧れる。わたしはきみのことを尊敬しているし――そう、愛しているよ。それほどまでにわたしはきみのことを大切に思っている。だけどね、その綺麗さはね。きみの綺麗さはね。わたしのような疑いようも救いようもない穢れた人間があって、初めて成立する類の綺麗さなんだ』
そうしている間にも、二隻の戦艦は攻撃の手を緩めない。手加減をしているようには到底見えなかった。私たちは一様に無言だった。二人の提督の言葉を一言一句たりとも聞き逃すまい。この場にいる全員がそう思っていたに違いない。
『さぁ、どうする、ベッキー。わたしという汚穢を刮ぎ落とし、自らの清麗さをも失うかい? それともわたしという罪業深き者の剣の前に倒れ、わたしのための礎となろうとでも言うのかい?』
『そんなの、択ぶことなんて出来ない。だから、こうして戦うの!』
『いいだろう』
双方がぴたりと砲火を止めた。静寂が叫ぶ。
『イズー、はじめましょう』
『ベッキー、一つ良いかな』
『……私を迷い惑わせるつもり?』
『セルフィッシュ・スタンド、か……』
イザベラの寂しげな呟きがあった。
『ベッキー。あのさ……もし生まれ変わることがあるとしたら。比翼の鳥、あるいは連理の枝となろうよ』
『ここにきて、長恨歌だなんて、あなたっていう人は……!』
『もちろん、きみが嫌じゃなければ、だけどさ』
『嫌なはずがないわよ、イズー……』
『……わたしはきみを今にも殺そうとしているのに?』
『私も今、あなたを殺そうとしているわ』
レベッカの声から迷いが消えていた。二人とも、切っ先を互いの喉元に突きつけている。その瞬間が来たら、迷いなく突き入れる――そんな覚悟を感じて薄ら寒くなる。
イザベラはうんざりだと言わんばかりの口調で言う。
『なるほどね。いやな世界だ。本当に、大好きで、それで、いやな世界だ!』
『そうね。あなたか私がいなくなる世界。本当に――』
『消えよ、消えよ、刹那の灯り』
イザベラが朗々と読み上げるその言葉は、確かマクベスの一節だ。
『人生とはただ彷徨う影のごとし、哀れなる役者に過ぎぬ』
『どれほど喚き騒ごうとも――』
レベッカが続けた。
『それは舞台の上の話に過ぎぬ』
その続きを私は知っている。
その役者の出番が終わった後は、もはやなんぴととて耳も貸さないのだ――と。
ウラニアとセイレーンEM-AZ。二隻の超巨大戦艦が白銀の艦体をそれぞれ相手に叩きつけるように接近し、ゼロ距離で攻撃を繰り出していく。セイレネスによって生み出されたエネルギーは稲妻のように空を下り、海を穿った。空間が揺れる。大気が歪む。轟音が海を割り、無尽蔵に放たれるエネルギーが夜闇を幾度も駆逐する。
二時間、三時間、熾烈壮絶な撃ち合いは続く。東の空が白み始める。形ばかり浮かんでいる薄い雲が虹色に染まっている――彩雲だ。
『そろそろ、終わりにしよう』
『そうね……』
二隻の戦艦は距離を取って向かい合う。イザベラが訥々と言う。
『運命は星たちなんかの持ち物ではない』
『それは私たちの思いが決めるもの――ジュリアス・シーザー?』
『正解』
まるで日常の他愛もないやり取り。しかし、二人は今、砲口を向け合っている。
『セイレーンEM-AZ、セイレネス、再起動。……安全装置解除。天使環、および、装甲翼展開――』
曙光に輝くセイレーンEM-AZが、淡々と変形していく。レベッカの声がそれを追う。
『ウラニア、セイレネス再起動。制御装置全解放用意。天使環展開、装甲翼、開け!』
――どちらかが死ぬ。私は恐ろしく冷静な目で、その光景を見つめていた。虹色の雲の欠片の下、オーロラグリーンに輝く海と空。二隻の戦艦は、もはや元の色がわからないほど煤けていた。
『このまま耐え忍び生きるべきか』
イザベラの言葉に、レベッカがすぐに応じる。
『それとも戦って果てるべきか』
そして二人は笑う。ひとしきり笑って、同時に言った――それが問題だ、と。
今度はハムレットか。そう思いながら、私は意識の中で目を凝らす。次の一撃でおしまいだ。どちらか、あるいは、両方が死ぬ。――死ぬのだ。
『雷霆!』
『アダマスの鎌!』
二人の天使から放たれた輝きが、真正面からぶつかり合う。
『残念だ』
イザベラの低い声が聞こえた。
『まったく、残念だよ、ベッキー……』
『さよなら、イズー……。愛してるわ』
『わたしも、愛してる』